AIブロガー

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 人工知能で文章を書くことはすでに出来る。いくつかのキーワードを与え、それを結び付けるように指示すれば文章を作成してくれるらしい。私の駄文などすぐに抜かれてしまうはずだ。すでに抜かれている。ただ、いまだにAIは意味のレベルまでの理解はできていないようだ。そこに人間の(私の)生き残る価値がある。

 コンピュータにできることは大量のデータからある言葉を使うときの用例を瞬時に検索し、その用法を選び出して、ほかの用語との組み合わせを再び検索によって選び出して合成することなのだろう。一見意味を考えているかのように思えるが、扱っているのは過去のデータであり、言葉に含まれている意味を考えているわけではない。しかも、私のように偏屈でなおかつ発表している作品がほとんどない人間の文章をAIに担当させることは難しい。出来上がるのは私の文章ではなく、平均的なものになる。

 平均的なものがおかしいかといえばそうでもないらしい。顔のパーツのデータを複数集め、その平均をとって合成すると結構な美男美女になる。誰でもない平均顔は意外といけている。文章もそうで一見理想の文章ができているように思える。

 でも、それは自分の文章からは程遠い。AIに自分の代わりをさせることはできない。自分の文章を書いてくれていって頼むと、ものすごく平均的なものを作ってくる。それがどんなにしゃれていて内容が良くても私の文章ではない。AIというのはそういうものらしい。だから、我々が文章を書くことは大切な営みだし、続けるべきなのだろう。

 このブログはAIで書きました・・・はずはない。下手すぎる。

要するに…中毒

 今回も自分に対して向けた文章である。最近、よく話を聞き終わらないうちに「要するに」「つまり」とまとめてしまう思考を自覚している。忙しい毎日はこれは都合がいい。詳細に立ち入らず骨子のみを把握しようとする。それはそれで間違ってはいない。ただそればかりだと肝心なものを落としてしまう。

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 文章を読解するときに、構造を考えながら読むというのは国語教師の指導のたまものである。大体、初めに話題を振って、時にはそれが問題提起型になり、具体例を挙げて、そのあとに自分の言いたいことと絡めて、結論を述べる。ほとんどの文章はそのように書かれている。今書いている文章もそのような感じだ。

 忙しいとそういう読み方をして、細部を飛ばし読みする。人の話を聞くときもそうだ。愛想のために述べている部分を抜かすと、言いたいこととそれを言うための具体例とを繰り返す。本題の最初に言いたいことを短く言い、具体例のあと結論を言う。基本的には文章と同じだ。もちろん、思い付きで話を続ける人の場合は単純ではないが、基本的には同じだ。

 こういう風に考えると「要するに」の思考がでる。いろいろ書いてあるが、いろいろ話しているが言いたいことは何なのか。それだけを知れればいい、という考えだ。これは恋愛映画を早送りにしてみる精神と同じだ。本当は言いたいこととは外れている部分に自分にとって重要な情報があるのかもしれない。あるいは筆者、話者の意見形成の本当の要因が隠されているのかもしれないのにも関わらず結論を急いでしまう。

 忙しく情報量が多い時代には仕方がないのかもしれないが、速読速聴だけが能ではない。時には熟読、傾聴が何かの現状打破につながることもあるのではないか。大切なことを忘れてはいないかと思うのである。

地図

 街角にある地図を見て気づいたことがある。同じ場所の地図なのに全く見た目が異なる地図が並んで掲示されていた。何も知らなければ、同じ場所とはとても思えない。

 これらの地図の共通点は、東西南北や実際の距離の縮尺ではないということだ。道の繋がり方だけに関心がある。細い路地は省略されているが、省き方が異なる。

 商店や病院などの表示はかなり誇張されている。実際は一般家屋程度の建物がまるで高層ビルであるかのように大きく描かれているものがある。隣に並んだ別の地図にはその存在は無視され、他の建物が誇張されて描かれている。

 おそらく広告料などをとれたところは大きく、そうでないところは必要がなければ省略しているものと考えられる。地図の形をした広告なのだろう。

 地図が現実の反映ではないことを改めて痛感した。これは分かりやすい例だったが、世の中にはこの他にも一見本物と同じように見えて意図的改変が施されているものがいくらでもあるということを省みる必要がありそうだ。

東急百貨店本店閉店

 来年の1月末日で渋谷にある東急百貨店本店が閉店することが発表されている。併設されているbunkamuraも休止するということだ。一つの時代が終わる。

 渋谷には長らく駅前の東横店と道玄坂の先の本店とがあり、東横店がいわゆるデパートであり、本店はブランドショップとして少し上の商品を扱うというイメージがあった。今やどちらもなくなることになる。その代わり、ヒカリエやスクランブルスクエアといった複合的なビルが幾つも建っている。百貨店という業態から転換しているのだ。

 すでに既存の百貨店が一種のテナントショップになっているのが現状だが、さらに一企業の直営というスタイルを放棄して専門店の集合体という形でしか勝負ができなくなっているということになる。付加価値をどのように創出するのかがデパートの唯一の生きる道のようで、イベントや劇場、映画館、美術館などとの複合施設にすることも行われている。東急百貨店本店もその路線を進んだが、時代の波には勝てなかったようだ。

 子どものころは本店は敷居が高くて入るだけで緊張した。大人になってからは美術館や映画館に何度も行くことになった。再開発の上、別の施設になるとのことだが、いまのスタイルがなくなることは寂しい。

源流

 古代のシュメール文化やその後の中東や中央アジアの遺跡から発掘された遺物を見ると、日本の文化の源流と感じることがある。造型も色彩も似通うところが見られる。
 もちろん詳細にわたるならば相違点が多く、決して同じではない。あくまでその根幹となるものの共通点が見えるということである。
 文化について語るとき、私たちは常に繋がりを考えるべきなのだ。そしてそれも複数のルーツを持つことを忘れるべきではない。それの源流に敬意をはらえばまた新しい影響を得られるはずだ。

客席の距離

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 北海道日本ハムファイターズの新しい本拠地になるエスコンフィールド北海道のファールゾーンが規定違反であるということが分かった。今後是正するということだが、この問題は別の視点から考える必要がある。

 ホームベースからバックネットのある場所までの距離が3メートルほどたりないという。3メートルといえばかなりの距離だ。面積で考えると相当な広さになる。野球の試合のなかでこの空間で活躍するのは捕手であるが、彼らがファウルフライをとることでアウトにする確率を相当減らすことになる。一方、ワイルドピッチやパスボールの後の処理はこの部分の面積が小さいほうが有利だ。攻撃側にも守備側にも影響があることになる。

 捕手出身の解説者にはファウルゾーンが狭くなることに反対な人がいる。パスボールの時のリスクはあるが、それよりもファウルフライを捕ることで活躍できる機会の方が多い。ファウルを打たせることを配球の要素にしている捕手ほど、面積が狭いのは困るのだろう。投手にとっても同じだろうが、中にはあまりファウルゾーンが広いと距離感をつかみにくく投げにくくなるという意見もあるようだ。

 選手にとっても様々な意見があるが、プロ野球として考えなくてはならないのは観客の視野性と収益の問題だろう。客席とバッターボックスの距離が近いほうが、観客の満足度は上がるはずだ。コロナによる無観客試合で分かったが、打球音や選手の声などが聞こえてくるのは新鮮だった。近いほうがいいと言えそうだ。さらに、グラウンドを狭くした分だけ客席が確保できるのなら、高額な座席設定をして収入を上げることが可能だ。プロである以上、この点は見逃せない。

 アメリカの球場はこの規定は推奨扱いになっている。エスコンフィールドの失敗も球場設計をアメリカの会社に委託したことによるらしい。試合を見せて金を稼ぐプロ野球に特化するならば、日本の規定を変えるべきではないだろうか。そんな視点を与えてくれたのが今回の設計ミスの効用かもしれない。

手の演技

 演劇に関しては素人だが、演技について時々とても気になることがある。そのうち手の演技について少々記す。

 演劇では所作によって感情の表現をすることが多い。精神を体現する手段だ。人が何を考え感じているのかは外側からは分からない。でも表情や身振り手振りでおおよそは察することができる。目が潤んでいるとか、小刻みに震えているとかすればそれだけでその人物が何らかの強い感情にとらわれているということになる。

 しかし、こうした細かな身体表現は遠くの客席からは分からない。そこでデフォルメが行われることになる。原則的に無言劇であるバレーでは感情表情がある程度定型化している。あの動きはどの感情を表すのかが決まっている。能や歌舞伎などの伝統的演劇にも所作の型がある。中には非現実的な動きもあるが、型だと思えば受け入れられる。

 現代劇やドラマでも型はある。照明やテレビ中継の技術の進歩により、現代の俳優は細かい演技が可能になった。流す涙の筋までカメラが追いかけてくれる。それでも型が必要なのは、分かりやすい表現が求められるからだ。

 身体表現の中でも印象的で理解しやすいのが手の演技だ。清岡卓行氏の文章ではないが、手には無限の表現の可能性がある。それをどう活用するのかが役者の技能だ。若い俳優はそれが未開拓であり、ベテランには巧みな人が多い。

年賀状の準備

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 年賀状の印刷の受付を知らせる広告が出始めた。印刷されたはがきもすでに店頭に並び始めている。今年はどうしようか。

 虚礼だなどといわれて減り、ネットの普及とともに年賀状は過去の遺物になりつつある。それでも実物のもつ意味は消えないはずで、本当に挨拶をしたい相手にはやはり紙のはがきがいい。本当は手紙の方がもっといいが、さしあたり安否を伝えるだけでいいのならばはがきがいいのだ。

 私はあまり多くの枚数を出さないかわりに、すべて手書きで行ってきた。しかし、今年はどうしよう。もう出さないという手もあるし、印刷してとにかく送ってしまうという手もある。日々疎くなりつつある旧知の人々に、せめてまだ生きていることを伝えることで、自分自身の存在理由を確かめられるのなら、やはり出しておこうか。

 悩んでいる。

好きなこと

 何かをするときに自分が好きだと思うことと嫌いだと思うことでは同じことをしても成果に違いが出る。嫌いだと思わないことが力を伸ばすコツということになる。

 それなのに日本の教育には勉強を嫌いにする要素が多い。成績で単純に評価したり、他人と比べることばかりさせる。大切なのはその時の成績ではない。学び続ける意欲を掻き立てることなのだろう。

 学びに向かわせるためには評価の方法を根本的に変えることだ。他人と比べるのではなく過去の自分と今の自分とを考えさせどれほど変化できているのかを褒めたほうがいい。そして学べばそれだけの実りがあることを実感させるのだ。

 今の現場では難しいが、それでもやってみたいことはある。

誤爆なのか

 ロシアのミサイルがポーランドの領土に着弾し、死者が出たという報道が流れた。NATOの同盟国への攻撃ならば戦局が拡大してしまう。冷静に対処していただきたい。

 いろいろな可能性を今の時点では考えるべきだ。意図的にポーランドを狙うことは今のロシアの国情からは考えにくい。ミサイルの不具合だろうか。もしかしたらウクライナの放った防御ミサイルかもしれないし、その両方かもしれない。ハイテク機器といってもミスはある。それが悲劇を生む。

 いずれの可能性にしても、直ちに軍事報復に訴えるべきではない。ロシアのミサイルであると判明すれば、被害者としての交渉が可能になる。第三者としての立場を超えられるかも知れない。

 ロシアに通常兵器で攻撃を仕掛けてはならない。すでに国力が疲弊している状況で冷静な判断が首脳部に残されているのだろうか。ロシアが仮に敗北したとしても、それは世界全体としては損失になる。ウクライナ侵攻を中止させ、補償を遂行させる約束を取りつけることで終わりにするべきだろう。

 もっともこのようなことを言えるのは遠い国に住んでいるからかも知れない。犠牲になった人の無念を感じられる地域の人は簡単にはいかない。戦争は憎しみを連鎖してしまう。だから、どこかで止めなくてはならない。