非現実的現実

 私たちが生きている世界は限りなく偶然の積み重ねでカオスなもののはずだ。同じことは二度と起きない。同じものには二度とめぐりあえない。それなのに、この現実を巧みに忘れる方法を知っている。

 二度とない現実をあたかも繰り返しのように考えることができるのは、一つの叡智である。尖っている詳細を削り落として、別のものを同じものとしてしまう。それを無意識で行えるのは進化の過程で獲得した生きるための戦略なのだろう。

 適度な鈍さは大事だ。あまりにも先鋭化すると不自由でたまらなくなる。いい加減は無責任ではなく、変化の多い毎日を生きるためのスキルなのだろう。

相づち

What’s up?

 一見意味のない相づちがある。うんとかああとか、そうだねとか。私はそういうのが苦手で随分相手を不快にすることがある。

 What’s up? もその類という。疑問の形を取っているが答えなくてもよく、鸚鵡返しに言うことも許される。もっとも軽い安否の確認の方法で、存在を意識させることだけで事足りるらしい。やあとかよっとか、そんなものに近いという。

 意味がないわけではない。人間関係の始まりを意識させるきっかけであり、自他を認めることの重要な役目だ。私がこれが苦手なのは、いまだに適度な人間関係における距離感が掴めていないからだろう。

 相づちは適当な量がある。やたらと打てばいいというわけでもない。多すぎるとかえって無理に聞いているような雰囲気を相手に与えてしまうそうだ。確かに聞きたくない話を遮るための相づちはある。もういいです。分かりましたと言わんばかりに首を振るのも同じ効果がある。

 相づちは重要なコミュニケーションの手段であるのにも関わらず、誰かに教えられるということはない。経験の中で適度な方法と量を獲得していく。リアルな人間関係を築く機会が減った世代はどのように相づちを覚えるのだろう。まさか安易にいいね! と言って、大きな誤解を生み出してはいないだろうか。

勝ちましたか

勝てました

 ワールドカップでサッカー日本代表がドイツに勝利したという。ほとんど攻め込まれていた中でわずかなチャンスをものにしたらしい。今回はあまり関心が持てないままでいるので朝になって知った。

 それを教えてくれた同僚はサッカーにまったく興味がない。それなのに教えてくれたのは夜中、近所の人がやたらと騒いでいたからという。その歓声は明らかに勝利を表していたと言うのだ。

 今回の大会はカタールという特殊な場所であることや、ドイツのブンレスリーグに所属する日本選手が多いことなどいろいろな好条件が重なったのだろう。選手諸君には賛辞を送りたい。それにしても中継を見て大騒ぎすることは少々迷惑だが、世界が回復しつつある一つの現象として喜ぶべきなのだろう。

落葉

 紅葉が盛りを迎えている。そしてすでに落葉が始まり、ほとんど裸木になったものも出てきた。今朝のように雨の翌日は落ち葉が湿って最後の色彩を発揮する。やがて乾燥した関東の風がその彩を奪い、箒ではかれるか風に飛ばされるかして消えてゆく。落葉はエコサイクルを回すための戦略と聞く。土に帰って他の生き物の食料となり、様々に巡って再び樹木の養分となる。そういう姿の典型を見ているのだろう。

睡眠儀式

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 最近は疲労度が大きいのに眠れないときが多い。いびきをかいてしまうなどの眠りの質も問題だ。ここ数か月、私が心がけている睡眠儀式が「眠れる音楽」を聴くことである。

 YouTubeには睡眠導入の音楽と称するものがたくさんある。何分で眠れるという題名のものもあって面白い。ただ、ほとんどが数時間の尺をもっており、中には12時間近い長さのものもある。これは一晩中流していてもいいということなのだろう。

 私の場合はこうしたチャンネルから適当な音楽を流し、パソコンの蓋を閉じてイヤホンで聴く。横になってイヤホンから流れている単調な音楽を聴いているうちに眠れるというわけである。寝た後は耳からイヤホンが自然にはずれるので音楽に起こされる心配はない。

 これが私の睡眠儀式である。かつては飲酒などで無理やり寝たが、浅い眠りになり疲労回復にはならない。音楽療法(?)の方が私には向いている。今日もまもなく睡眠の時間だ。イヤホンの音量を微弱にして聴き入ることにしよう。

 

悲愴ソナタ

 ベートーヴェンのピアノソナタ第8番悲愴を最近よく聞き直している。第2楽章の甘美なメロディは特に有名だ。カンタービレの指示があるように演奏者の個性が出やすくそれも興味深い。

 音楽史的には激動の時代を生きたベートーヴェンの精神的な側面が反映されているという。悲愴というタイトルだが、なぜか力を感じるところもある。悲嘆に打ちひしがれるような状況の中にあってなんとか立ち直ろうとする人間の強さも表現されている。

 最近この音楽が心にしみるようになったのはやはり、周囲の状況があまりにも難しく、漠然とした不安が横溢しているからだろう。逆風をまともに受けながらそれでも前に進む姿をこの楽曲に幻想しようとする自分がいる。

感謝

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 明日は勤労感謝の日だ。起源的には新嘗祭が関係する。その年にとれた作物に対する収穫感謝の祭日が、天皇制と結びついて発展して宮廷行事となったものである。天神地祇にまつる行事というが、実際には穀物を育てた人々の営みに対する賞賛と感謝の日であった。

 今日では勤労は多様化していろいろなことが仕事になっている。ここ数年でまたいろいろな仕事が生まれた。その一方で消えてなくなる仕事もある。やがてなくなるであろう仕事もあると感じている。コンピュータの驚異的な発展により、人間の仕事は軽減し、さらになくなっていくものもある。かつては教員はなにがあってもなくならない仕事だと言われていたが、最近はそれを言う人は少ない。

 仕事ができることにまず感謝しなくてはならない。働いて給料をもらえること、家族の生活を支えることができるという事実はなによりも幸福だ。働かずに楽をしていきたいという人もいるが、私は働ける限り働きたい。それが誰かのためになっていると実感できるならなおよい。

 先に述べたように仕事をコンピュータに奪われる可能性がある。その前に国際的な競争に敗れて職を失う可能性も大きい。それらがクリアされても、自分自身の能力が足りなかったり、加齢による限界も見えてくる。いろいろあるなかで働けることにまずは感謝したい。

ピンぼけ

 ピントがぼけた写真を見ると可能性を感じることがある。ピントをぼかせば新しいものが見えるかもしれないと。

 最近は目の筋肉の衰えがはなはだしく、いろいろなものが見にくい。いわゆるピンボケの状況がしばしばある。こういう時、無意識のうちに現状を改善しようとして焦りを覚える。でもこのピンボケ状態を記憶することができたら、新しい世界を見つけることができるのかもしれないなどとおかしなことを考えるようになった。

 その状況にしか見えない風景がある。それは異常ではなく、特殊で貴重な経験なのかもしれない。そう考えれば、いまの状況を嘆くばかりではいけない。

SNSは商業媒体

 元アメリカ大統領のトランプ氏のTwitterのアカウントが再開されるという。Twitterを買収したイーロン・マスク氏の決定による。

 マスク氏が根拠にした世論調査によると復活を望む声がわずかに多かったためだという。その数字を見ると驚く。賛成51.8%だという。有意な差と言えるのだろうか。これくらいの数字ならばいくらでも操作可能な気もする。

 この件についてもアメリカ社会は分断していることの証のようなものと見られる。トランプ氏のアカウント自体は個人の意見の発言の場としてあってもいい。ただ、これが議事堂襲撃などの暴動に結びつくならば問題になる。

 Twitterが個人のアカウントを制限するのは会社の方針による。オーナーが変わり方針が変われば扱いも変わる。この変化が企業の論理で変わっていくことになる。ソーシャルメディアは公的機関も利用するのであたかも公共のものと考えられがちだが、民営企業のものであることを思い出さなくてはならない。

 既存のテレビやラジオ、新聞や雑誌もその点は変わらない。企業の利益に反することはやらないのだ。NHKのような公共メディアですら企業の制約は免れ得ないが、広告収入にすべてを依存する媒体より多少ましだ。NHKをなくせと言う人たちはこの点を再考すべきだ。受信料の妥当性は別として。

体力は大事

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 この歳になって思うのはやはり体力は大事ということだ。頭と体は関係ないとか、首から上と下では別の話などと言っていた先輩のことを思い出すが、やはりそれは間違っている。脳も体の一部であり体力は必要なのだ。

 アスリートのような身体能力は必要ではなくても、ちょっとくらい無理ができるような体力はやはり必要だ。深く考えるときには体力がいる。集中してものを考えるときにはいろいろな体内の組織が活動しているのだ。だから、誰にとっても体力は必要であり、若いころに体を鍛えることを怠ってはならない。若い人にはそう言いたい。

 私の場合、体力が消耗すると集中力が落ちるだけではなく、脳の働きそれ自体が鈍化する。最近それを強く思う。もっと粘り強く考えたいと思っても、体が受け付けない。そう感じるのだ。だから、体力は大切だ。今更手遅れかもしれないが、せめて歩いたり階段を昇ることを躊躇することがないように心がけたい。