時代劇の効用

 いわゆる江戸物の時代劇がほぼ全滅していることは残念だ。中学生に大岡越前や遠山金四郎について尋ねたところ、ほぼ全員が知らなかった。昭和世代にしてみれば大岡捌きや金さんの双肌脱ぎの場面は当たり前だが、今の世代にはそれが通用しない。

 時代劇の価値観は決して理想的ではない。むしろ現代社会では否定されるべき要素も多い。でも、過去のモラルを比較対照の方法にするべきものとすることはできた。生活の中の古典というレベルにおいて。

 それがいまは大衆の多数派の考えに翻弄され、ようやく出てきた独自意見は個人の感想と纏められる。明らかにおかしな現実に対処できずにいる。

 時代劇の非現実性はそうした行き詰まりを打開する方法にはなっていた。正確ではないが、今の私たちの在り方もまた正解とは限らないことを明かしてくれていた。そういう役割を果たしていた時代劇が消滅していることはかなり不幸な事態ではないのか。

秋らしく

 上着着用だが不快感はなくむしろ快適だ。周囲も上着着用者が増え、通勤電車の群衆は雰囲気が変わった。

 連休が終わったら、リュック生活もやめようかなどと考えている。やはり上着を着てさらに背嚢は合わないと思う。

 荷物を減らさなくてはならない。いまの私はそのまま避難生活ができるくらい色々なものを持っている。それもほどほどにしていこう。秋らしくするためには捨てなくてはならないものもある。

紅白は枠組みを変更を

 紅白歌合戦が日本の伝統であるかいなかについては議論がある。私はこの行事自体には意義があると考える。この番組に出場することを目標としているプロ歌手は依然として多く、その意味でも継続すべきだろう。

 ただ男女対抗の対抗戦という形式はそろそろやめていいのではないか。男女で芸能を二分することはほとんど意味がない。混成のバンドも増えているし、むしろこれからは性別によって区分けをすること自体無理がある。

 例えばそれぞれの本拠地や、縁の地でチーム分けするのはどうだろう。いっそのこと生まれ月で分けてもいい。毎年、チーム分けの基準を変えてもいい。さらにいうなら対抗戦の勝敗の結果はほとんどの人にとって無意味だ。だから、勝敗をつけること自体やめてもいい。

 エンタメとして盛り上げるために歌以外の要素があまりにも強調されているのも気になる。じっくり歌を楽しむ番組になればいい。取ってつけたように合戦の体を装うことは止して構わない。

 年末に歌の力で感動をもたらしてくれる歌手に活躍の場を与えるべきだ。歌番組の原点に回帰すればと切望する。

寒い朝

 今朝は肌寒さまで感じる気温になっている。体感は人によって異なるので一概には言えないが、20℃以下になると上着を必要とする人が増えるらしい。いまは端境期なので半袖シャツの人もいれば薄手のジャンパーを着た人まで多様である。

 私はまだ上着を着ずに出勤しているが、明日からは考えようと思う。風邪などひいてはつまらない。コロナもまだ終焉しておらず、周囲に罹患者が出ている。気を付けなくてはならない。

 私にとっての課題は上着のポケットに入れたものを忘れることだ。上着に残すものは筆記用具とハンカチと決めよう。それ以外のものを入れると管理ができなくなる。上着を着る季節のことはなぜか夏のうちに忘れてしまう。

スポーツ界に学ぶこと

 最近日本チームや日本人選手の海外での活躍が多い。大谷翔平選手のホームラン王はその象徴的な例だが、ほかにもトップレベルで活躍する選手がたくさんいる。少し前のことを思い出すと、日本人は体格的に不利だとか、スタイルが悪いからだめだとか、様々な自虐的な自己卑下があったことを思い出す。それらはしょせん思い込みであったことになる。

 現在成功している分野では競技人口を増やしたり、将来を見据えた設備投資をしたりしたものが多い。幼少のころから少数のエリートを選抜して育成するというスタイルは日本ではとりにくい。裾野を広げることで可能性のある選手の現れるのを待つというのがこの国の在り方とみる。

 スポーツ以外でもこの方法はとらなくてはならないのではないか。科学者を育成するならば多くの科学好きを生み出すことが必要で、その中から図抜けた人材が出てくる。文学もそうだ。多くの人が創作体験をすることで達人が生まれる。かつての俳句がそうであったように、文芸のレベルを庶民にまで広げることは大事なことだ。そしてそれがこの国の底力であった。

 それなのに昨今は効率や生産性のことばかりいい、無駄な努力を嫌う傾向にある。本当に自分が好きなものを探させ、熱中させることこそ、この国のあるいは地域の未来を築くことにつながるはずなのだ。スポーツのように単純ではないが、でも世界を変えるためには決してエリート教育だけが必要なわけではない。

道具として

 実は結構AIを使っている。AIに乗っ取られるなというのは私の持論だが、そう言いながら結構使っている。

 生成型AIは簡単な指示で文章を書いてくれるのでそれを使ってアイデアを練ることがある。しかし、それをコピーはしないというの゙が私の最後の抵抗だ。WordPressにはAIが自分の書いた文章を批評してくれる機能がある。なぜか英語のコメントだが、それなりに参考になる。具体例を挙げよ。反証の要素が足りない。結論が曖昧だ。ごもっともである。身近な批評家はいてくれて助かる。

 あくまでAIは道具として使おうと決めている。最終的には不格好でも時間をかけても自分で仕上げる。それがこだわりだ。そんな啖呵を切るから、私のブログは誤字脱字、論理矛盾だらけでアクセスも伸びない。でもそれでいいのだ。ここは譲れない。

川べりで

 川べりのベンチに座っていたら、年配の男性に話しかけられた。なんでも一流企業の幹部社員だったが今はマンション管理人をやっているそうだ。年金で夫婦の暮らしは何とか成り立つが、マンション管理の給金が自分の小遣いになっているとか。毎年、北海道で行われる同窓会に参加し、路上ライブを続ける16歳の女性歌手の卵の追っかけをしているらしい。

 歳をとるとなんでも話したくなるらしく、そのほかにもいろいろなエピソードを聞かせていただいた。80歳だといわれたが歩く速度は現役世代と変わらない。杖もつかず元気そうだった。私の年齢を聞かれたので答えると、それはまだ洟垂れのようなものだ。老け込んではいけない。ストレスをためないことが何よりも大事だ。とこれも繰り返し何度かアドバイスをいただいた。

 恵まれた生活を送られているのだろう。朗らかで健康面に不安はなさそうだ。歳をとるならこうでなくてはと思った。もちろん私はその方ほど裕福ではないし、楽天的ではない。ただ、誰かに迷惑をかけるのではなく、見ず知らずのものに励ましの言葉をかけられる老人にはなりたいと思った。

名付けの効果

 ものに名をつけることは対象の分節化であるが、今回はその話ではない。つけられた名前が対象の捉え方に大きな影響を与えることを再認識したという話である。

 例えば植物名などが分かりやすい。特定の形状と生態をもつ花に、名前をつける行動は命名者の恣意的な選択によるものだ。しかし、それが認められ、権威を有するものとなるとその名を基準に対象が見られることになる。そしてそれが定着するともうその印象は揺るぎないものとなる。

 ある本で読んだが、日本各地にもっとも多く分布するウグイスは、小笠原諸島だけに生息するハシナガウグイスの亜種なのだそうだ。分類上は離島に棲む少数派の方が上位にあり、我々が普通春告鳥としてもてはやす雅語ともいえる鳥の方は下位に位置する。学名ではそれがはっきりとわかるのだが、通称では逆に思える。名付けというのはこんなふうに対象の見方を変えてしまう。

 だから対象を見つめるときには名前を頼りにしすぎてはならない。まずはそのものに向き合わなくてはならないということだ。当たり前のことなのにこのことを私はしばしば忘れる。

十六夜

 昨夜は十六夜の月を見た。雲があったが時折月光がのぞいた。名月の後には様々な名前がついている。イザヨイはその中でもっとも優美な気がする。