投稿者: Mitsuhiro

静謐な時間

 赤坂のモールでクワイエット・タイムが実施されたというニュースがあった。照明や音響を制限したり止めたりすることらしい。感覚過敏の人への配慮が目的で、海外での実践例を真似たという。

 そういえば日常生活では過剰な音と光に囲まれていると感じることがある。当初は過剰に感じても、それらに晒され続けると当たり前になる。何らかの事情で、たとえば故障などで照明がつかなかったり、BGMが途絶えたりすると不安になることすらある、しかし、これは実は不自然なことである。

 東日本大地震以降、電力供給不足が起こり、商店や街頭などの照明が制限されたことがあった。始めは不安感を覚えたが、これも慣れてくると気にならなくなった。我々の感覚過敏というのは習慣の中で形成されている。不要な照明や音響、空調などはあらかじめ切っておいた方がいいのかもしれない。

 身体的都合で感覚過敏の方には当然だが、そうでない者にもクワイエット・タイムは必要なようである。

内祝い900

 今日でstreak900となった。連続出稿記録だ。何度も書いているが実はWordPressの前にはてなブログでも連投していたのでそれを加えるとかなり続いている。内容はないがとにかく続けていることを自画自賛したい。

 これだけ続けているのに進歩がないのも、ある意味素晴らしい。アクセス数を稼ぐためのあらゆる工夫を怠り、好き勝手に書いてきた。本当は少しは注目されたいという気持ちもあるが、そのために時流に迎合したくはない。少数意見でも言いたいことをいうという方が性に合っている。

 ブログを書くことは習慣化しているので、恐らく私が健康なうちは続くだろう。心優しい皆様にはできれば時々お付き合いいただき、まだ生きていることを確認されていただきたい。

睡眠時間

 最近、睡眠時間が少ない。それなのに身体がもっているのはなぜだろう。やはり歳をとると基礎代謝が落ちてあまり体力を必要としなくなるからだろうか。

 以前ならば1時間でも睡眠が削られると翌日は調子が出なかった。眠気が指すのは今も変わらないがかつては姿勢を保つことすら難しいほど眠くなった。いまはこっそり寝ることができるくらいの程度だ。仕事をサボっていることは変わらないが。

 馬齢を重ねると色々なことに気づく。先輩がおっしゃっていたのはこのことかと思い当たるのだ。

クリスマスへの切り替え

 ハロウィンが終わったその夜にすでにカボチャのオブジェは片付けられ、クリスマス仕様に置き換えられていた。商機は隙がない。

 つい先日まで夏日だったのでクリスマスの雰囲気は全くないが、すでにラッピングや音楽はクリスマスを意識したものになっている。これからの日暮れが早くなるとますますその気配が感じられるようになるのだろう。

 コンビニエンスストアでは年賀状が売られ始めた。季節感が狂いがちな昨今だが、人事の方は確実に推移していく。

頑張れる時間

 無理をしてでも何かをやり遂げるためにはそれなりの覚悟がいる。効率とか能率とかそういう評論家の先生が言いそうなことを振りきってやり続ける努力が必要だ。

 若い頃はそれができることもあった。数日ほとんど寝なくても目標が決まれば敢行できた。いまはそれが難しい。残念ながらあっさりと寝落ちしてしまう。耐えられても翌日が悲惨な状況になる。加齢を実感するのは容姿容貌ではない。この方面の粘りが効くのかという問題だ。

 他のことを忘れて一つのことに熱中できることを仮に「熱中力」と呼ぶとすればこれには体力の裏打ちが不可欠だ。体力を失いつつある私にとっては、とにかくやるしかないという耐力の方に期待するしかない。

 頑張れる時間をどれだけ持てるのかはこれからの基本テーマとなる。それを悪あがきとも痩せ我慢ともいう。醜態を晒すことは前提条件にしなくてはなるまい。

外見とは違う

 見た目は昔のものだか中味は最新型というものに魅力を感じる。最近、折りたたみ携帯電話型のスマートフォンが発売されてかなり惹かれている。

 クラシックカーを電気自動車にしたり、見た目は昭和の電化製品なのに中身の機能は最新の技術に溢れているというものが他にもある。わざわざ昔のデザインに合わせるのはかえってコストがかかると思うがそういう遊び心はあっていい。

 エイジド加工ならぬ見た目を骨董品に見せる方法もあるとよい。小型化した現代の機器を昔の道具の中に忍ばせて使うのも面白い。リサイクルショップで外側を探してみよう。

最晩年を生きる

 1960年の日本人男性の平均寿命は65歳だったという。高度経済成長期の始まりの中で、寿命は伸び始めていたが、この時点で切ると意外にもかなり若い。磯野波平が50代前半であの風貌なのも当然なのだ。かれは余命十数年なのだから。

 もしこの年代に今の年齢であるとすれば、私は最晩年を迎えていることになる。もっともいつの時代にも長寿や夭折はあり人それぞれだ。あくまで平均という数値上の問題として考えていく。

 現在、多くの企業が65歳を退職年齢としている。高齢者の区分もここにある。いまでは企業人か否かの分かれ目が、かつてはこの世かあの世かの分節であったことになる。年金制度などの設計がここにおかれているのはかつてはその通りだったからだ。

 65に区切れを入れると、老後がかなり長くなる。現実的にはもっと後まで労働人口とならねばならない。日本の人口ピラミッドからしても高齢者の区分は上げなくてはなるまい。行政はこれに対応できているのだろうか。

 私自身のことでいえば、最晩年を生きている覚悟をせねばならないと考えている。今のところ健康上の心配はないが、明日みまかるかもしれず、数年後に彼岸にいるかもしれない。そういう覚悟が必要だ。最後の一日まで働いて、ある時急にいなくなるというのが理想ではある。

コートの用意も

 週間天気予報を見て驚いたことがある、先日、夏日を観測したばかりの東京だがこれからは急速に季節が進むようだ。最高気温が15℃に満たない予報もある。

 暦の上では明後日から冬なのだから当たり前だが、コートを引っ張り出すタイミングを考えなくてはなるまい。

教材としてのパソコン

 学校で使用しているコンピューターやタブレットに故障が相次いでいるという。子どもたちにこうした機器をどのように使わせるのかについては議論があるが、まずは故障にどう対応するのかを決めなくてはなるまい。

 究極の策としてBring Your Own Deviceがある。自分で用意するというものだ。これは少なくとも初等中等教育の場面では無理がある。セキュリティ面もそうだが、それより家庭間の格差や操作方法の指導ができない可能性などがあるからだ。

 現在学校で使われているデバイスのほとんどが海外製品だ。供給量の問題、価格の問題がある。教育利用目的に絞りスペックを抑え、代わりに強度やメンテナンスサービスなどを付加してビジネスを成立させる日本企業はないのだろうか。

壊れるのが当たり前の子どもたちの使用方法に耐えられる設計とか、保証のあり方とかを考えれば安定的な収益が見込める。教育の場面で成功できれば色々な応用が可能だろう。

庭園の表現

 とある庭園を歩いてみた。日本式に分類されるその庭園は園地も植栽も自然に近い形をしており、人為的な要素が抑えられていた。

とはいえ、庭園自体が人工的空間である以上、様々な意図が隠れており、それを考えるのが訪問者の楽しみの一つである。

なぜこの池はここで大きく湾曲しているのか、石塔にはいかなる意味があるのか。そういったことを考えるのは面白い。庭を見る楽しみである。