投稿者: Mitsuhiro

古くはないフルヤノモリ

 昔話に何よりも怖いものとして語られるフルヤノモリの話がある。聞き間違えの話は口承文芸には類型として存在する。雨漏りは確かに面倒だし、痛切な困難である。笑い話で済むならよいが当事者にとっては何よりも厄介な問題であろう。




 この話は現代には違う形で復活しそうだ。駅舎に雨漏りが発生している箇所をしばしば目にする。メンテナンスが追いつかなくなっているようだ。技術者の減少と必要以上の人材削減とがこのような形として具現化されている。駅舎のみならず、あちらこちらで起きているように思う。

 昔話の古屋は相当な代物であろうが現代のそれは一見何でもないように見えて、肝心なときに機能不全を出来する。昔の建物と異なり、現代建築は高度な技術でできている分、相応のメンテナンスを要求する。それに対応できるシステムや人材が次第に欠けつつあるような気がする。

 フルヤノモリの話は現代にバージョンアップして人間を恫喝するものになっている。その他のインフラに対する保善も大丈夫なのかと不安になる。

台風とその後

 台風が接近している。規模としては小さいようだが、久しぶりの接近なので注意するに越したことはない。これは急速に北上するようだが、さらに西から熱帯低気圧が連れてきた前線が梅雨の終わりの大雨をもたらすかもしれないというのだ。そのせいか木曜までは雨か曇りの日が続く。その後は晴れて猛暑になる可能性もあるそうだ。梅雨がまだ終わっていなかったことも少し不思議だが、やはり区切りの儀式はあるらしい。気をつけなくては。

薊の綿毛

 道端に咲いていた薊がいつのまにか綿毛をつけて、それが風に舞い出した。蒲公英に比べて大きな綿毛で豪快な感じがする。

 薊には何種類もあるそうだが私が見たのはもっともよく見かけるノアザミだろう。棘だらけでいかにも近づくなと言いたげな姿をしている。ところが古くから食用にされていたようで強力に見える棘は火を通すと問題がなくなるらしい。子どもの頃、天ぷらにしたものを何かの機会で食べたが、その頃の私にとっては旨くも不味くもないものだった。

 ここ数年の暑さで植物のあり方も大きな影響を受けているはずだ。植生も少しずつ変わっていくのだろうか。

餃子の思い出

 日本では中華料理の代表と考えられている餃子だが、私たちのイメージする餃子とその起源である中国の餃子とはずいぶん違うもののようだ。言ってみれば日本風餃子が私たちのいう餃子なのだ。薄い皮に大蒜やニラをたくさん入れて作ること、焼いた後で酢醤油などを付けて食べることなどが和風なのだそうだ。

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 子どものころ我が家に手作り餃子のブームが来たことがあった。母が中身の餡を作り、肉屋で売っている餃子の皮を使ってそれを家族みんなで詰めた。欲張って入れると皮で包むことができないし、少なすぎると満足できないものになる。その塩梅を少しずつ学んで家族全員が少しずつ作れるようになっていった。できたものをフライパンで焼くのだが、最後に水を入れて蒸し気味にすることなど母は得意な料理だった。

 一人5個もあれば十分なはずだが、当時は食べ盛りであったこともあって数十個食べたこともあった。残ったものは冷凍してまた食べたこともある。母としては家族で作れる楽しさと比較的安価で満たされることなどを計算していたのだろう。多い時には週に一度はこの手作り餃子を食べていたこともあった。

 その後、冷凍食品の餃子が普及し、価格も下がるとこの手作りの家庭行事は徐々に少なくなった。それよりも我々の異常な食欲が一般人のそれに近づくようになっていったことが原因だったのだろう。いくらでも食べられるような気がした日が今となっては懐かしい。

整体にまだ行けていない

 いわゆるボキボキ整体というものに対して一定の憧れがある。学生時代に激しい肩凝りを感じ、それをストレッチによって幾分解消できると知り、クラック音のなる整体に憧れるに至った。

 ただ、私は根本的にケチであり、実証性の劣るものには金銭的な費えをしないという方針が身についていた。だから、数十分で数千円もする整体に行ったことは一度もない。

 自らそれに近いことをすることは学生時代に覚えた。首を伸ばしたり、肩や腰を意図的に曲げたりしてストレッチ効果を狙った。その際、しばしばクラック音がすることがあり、それが一種の達成感になることもあった。それが根本的な治癒にはならないことを何となく知りながら、それ以上を考えない思考停止があった。

 恐らく二足歩行を始めて以来、人類がその後に受けることになる苦しみは、どの人類にも共有されていたはずだ。整体が必要とされるという幻想も恐らくはその苦しみに耐えるための方便の一つに過ぎない。

ファーストなる甘言

 何とかファーストという政策があちらこちらで見られる。これらに共通するのは自分たちの権利が不当に侵害されており、失われた取り分を回復するという主張だ。その背後にはそこはかとない喪失感がある。





 この考え方は不遇と感じる人々に共感される。現在の日本の状況では上手くいっている人は僅かであり、程度の差こそあれ、何某かの不満を抱えている人が多い。彼らにとって自分を含むグループがファースト扱いされると言われると限りなく魅力的なものと映るはずだ。

 この考えの危いところは、すぐに排他的な思想に流れる可能性が高いことだろう。自分たちがファーストであり、他はその他大勢に過ぎない。自分たちが正義であり、他は邪悪な存在だ。そういう結論に行き着く。

 日本人ファーストをうたう政党がいま支持率を上げている。彼らの言うことには一理あるが、しかし現在の日本が外国人労働力なしには成立しなくなっていることに対して一切触れない。あたかも日本人だけですべてができるようなことを夢想して、平気でファーストなる甘言を振り回す。そして、それにつられる人が多い。民主主義のデメリットが残念ながら表出している。

 アメリカファーストの大統領は、同盟国も含めて日々信頼を落としていることに気づいていない。彼は任期が終われば幸せな老後があるかもしれないが、信頼の失墜したアメリカの斜陽をもたらしたことを後世の歴史家は語ることになるかもしれない。

 都民ファーストなる政党は今の都知事の元では何とかなるかもしれないが、東京の優越をよく思わない非東京の勢力が発言権を持てば窮地に陥るかもしれない。都民ファーストといっても都民への恩恵は僅かであり、政権維持のための補助機能に過ぎないのだから。

 ファーストという言い方を裏返すと、ファースト以外みな疎外という考えである。差別主義を婉曲的に述べた巧妙な表現だ。今後の世界が分断し、互いがファーストを主張したときにどのような状況になるのか。想像するにそら恐ろしい気がする。

それなりの走り方

 短期記憶は25歳ごろにピークを迎えるという説がある。また情報処理の速度は19歳ころがそれで、大学受験生がこの二つを駆使して入試問題を解くのは身体的にはもっともよい条件である時期であることになる。

 最近はこの二つにおいて劣等感しか感じない。ちょっと前のことを忘れ、それを処理する手際の良さもない。これは困ったことだ。一方で経験に裏付けされた記憶は70代まで続くらしい。つまり何らかの事情で脳に損傷を受けるまでは何とかなるという訳だ。今の私は最後の綱にすがっている状態であることが分かる。

 それでも決して諦めているわけではない。簡単なことができなかったり、過ちをしてしまうことに自分でも驚くことがある。でも、数年前までにそんな類の小さな出来事が続いたために、今は速度を落としてもやり遂げることにシフトしつつある。それが今できる戦い方なのだから。

 短期記憶はメモを取ることで補い、処理速度は機械の手を借りよう。先輩たちに比べれば人生の後半戦の助けは多い。そして、加齢を言い訳にせずに他人から見れば不格好であっても自分なりの走り方でゴールを目指すしかない。叱られても笑われてもそれしかない。そうしたことに対する耐性だけは身につけている。






枝分かれ

 この世界がいくらでも枝分かれするという理論がある。今起きていることは偶然の出来事であり、その他の可能性もあり得たということになる。

 自分の暮らす世界に関しては結果論としてしか語れない。自分の生きる世界を選ぶことはできない。そもそも世界を支配し、秩序をつくること自体、相当な困難がある。だから所与の世界で何とか生き延びるしかない。それが人生であり、運命なるものだ。

だから、自分が住む世界以外の別の世界があると想定することは本当に単なる妄想である。それでも考えてみたいことがある。少し違う世界に生きたら何が起こるのかと。それが創作の動機の一つになっている。

選挙を前に思うこと

 いつのまにか選挙は短期的な流行りを表すものになってしまった。自分が選んだ候補者なり、政党が自分たちに何をしてくれるのか。それが本当に実現可能なのかということに想いが至らなくなっているように思う。

 自公の長期政権が結局効果的な政策を展開できず、献金問題に代表される腐敗が蔓延しているのが、この問題の根本にある。ゴタゴタいうな対案を示せと豪語していた時代ははるか昔だ。今は与野党ともに現状打開の政策を打ち出せない。だから少数政党が次々に生まれ、その中には中長期的な見通しがなく、むしろ当選によって得られる利益を狙った選挙ビジネスと揶揄されるべき輩もいる。

 新政党の中には弁舌巧みなものもあり、ポピュリズムの時勢を利用している。その主張は一見正しいが、ここの発言を集めて総合的に評価するとかなり怪しいものがある。私たちの多くはその余裕がなく、出たところの発言に一喜一憂する。民主主義の弱点は史上何度も露呈しているが、現代はこの上位互換版が進行していると思われる。

 政治家の皆さんには是非、国民に分かりやすく、かつ甘言のみならず必要ならば厳しい指摘もしていただきたい。口説の徒を見抜く力は少しずつ獲得されつつある。容易に騙されることのない市民がもっと多くならなくてはならない。

七夕

 新暦の七夕は今まで梅雨の只中で星祭りとは無縁だった。しかし今年は晴れて暑い。ただ薄曇りになっているようで牽牛織女の逢瀬が見られるかは微妙だ。星の位置からしても旧暦の方がいい。一応見上げてみることにする。