投稿者: Mitsuhiro

冷たい月

 昨日が満月だったようです。コールドムーンともいうのだとか。関東では乾いた晴天が続く中で満月の光も冴え渡ります。ただ、月光に集中できるほどの余裕がないことを悔やむばかりです。

言葉にする

 思っていることを言葉にできない。大半の不幸の原因はこの点に発します。表現力が上がれはいくつかの問題を解決できるはずです。

 好きだという気持ちや嫌悪感はもちろん、そのいずれにも属さない感情は大抵の場合、それを説明することはない。しかし、場合によっては他者に分かってほしいこともあります。そんなときに必要なのが表現力です。

 表現の方法はいろいろあります。表情や身ぶり手ぶりももちろん大切な表現方法です。しかし、言葉にすることがもっとも分かりやすい。それができないために悩みは大きくなるのです。

 私たちは思っていることを言葉にする力を身につけなくてはいけない。そしてそれを話せるもしくは読ませる相手が必要ということになります。

読書推進

 読解力の低下が話題になっています。中高生だけではなく、大人世代にも共通する社会問題です。

 読解力の低下が読書の習慣がないのと相関関係にあるというのはおそらく事実です。文字だけの情報から発信者の意図をくみ取るのには、経験が必要です。特に文章を構造的に把握する力は纏まった本を読むことで培われるものです。では本を読みなさいというだけで事態は解決するのかといえば、そんなに簡単なものでもありません。

 私たちは興味のあることには時間を忘れて熱中することができます。読書に熱中するためには興味のある内容を読ませる必要があるのです。読ませたい作品があるのは事実であり、それが一定の効用を持つのが明かでも、読書を押しつけるだけではならないのです。

 興味のある本を選ばせて読ませる時間をもっと与えなくてはならない。そのための工夫も必要になるでしょう。

やってやろうじゃないか

 先生は漢検の級もっていないんですか。生徒に聞かれたとき用意している答えがあります。私が高校生の頃、漢検がなかったんだと。

 大抵はここで引き下がるのですが、時々このバリアを突破されます。それならいま受けたらいいじゃないですかと。これも苦笑いでかわしてきたのですが、どうも後味がよくない。そこで一念発起することにしました。来年度中に準1級に合格しようと思います。ブログに書くのは公約のつもりです。

 準1級は実用レベルを越えた漢字の知識が問われます。ほとんど使われることがない文字や熟語が大多数を占めます。デジタル時代では入力できる文字が少ないので、このレベルの文字は使えないことも多い。漢文学の知識も要るようです。

 目標は大きい方がよい。ならばやってやろうじゃないか。いまはそんな気持ちになっています。

自由に学ぶ

 学びを行うときに何かに囚われたり、制約を受けたりするとうまくいかないことがあります。学ぶ際には自由が必要です。

 とはいえ、全くの足かせなしではなかなか学びは発動しない。何か目標を持つことで学習の意欲が生まれます。何でもやっていいとだけ言っても、結局何もやらないということになりやすい。教育の場においてはやるべきことがあります。

 学びだすまでのきっかけをいろいろと作ってゆく。それが中等教育の第一の使命だと考えます。そして、自由に学び出す動機づけをしていく。そのための基礎学力や学び方を教えていく。それがやるべきことなのです。

銀杏黄葉

 青葉台駅前にある銀杏並木が黄葉しています。間もなく落葉が始まることでしょう。このところ日較差が激しい毎日です。植物も戸惑っているに違いない。まして、かよわき人間をや。

時間の平面化

 手帳を更新する季節になりました。かつては歴史手帳を愛用し、その後産能の手帳を使うようになっていた私ですが、いまはただのリングノートと、ネット上のグーグルカレンダーとを利用しています。どのような形であれ、私がやろうとしているのは形なきものの可視化です。

 時間の流れを可視化するのは手帳の大きな役割といえます。実は切れ目なく流れていくだけの時間に切れ目を入れ、価値を見出していくのは人間の叡智です。それを実際に紙面に記号化していくのが手帳の役割といえます。

 丸印や矢印には時間に価値を与える意味が込められています。略図を付けたり色づけすることでその意味は一層顕著になります。複雑な現実を極力単純にするのが手帳の役割であり、その中で整理がなされる訳です。手帳をつける理由は時間の平面化という変換にあるわけです。

 ただ、手帳を書くという行為自体が時間の流れの中で行われるために、その行為自体がエントロピーの増大に晒されてしまう。単純化が目的だったことを忘れて次々につけたしを始めてしまうのです。手帳をつけることは常に時間軸から抜け出そうとする行為なのかもしれません。

記述式もやめるならば

 来年度実施の大学共通テストは、英語の外部試験の中止に加えて国数の記述入試もやめることを検討しているという報道があります。記述試験には出題形式や採点方法などに多くの疑問がありましたが、これもやめるとなれば新入試はあまり意味のない改革になってしまいそうです。

 ただ少し気になるのはすでに走り出している学習指導要領の改訂にともなって国語分野では文学作品の学習が軽んじられる可能性が高いことがあります。共通テストの国語問題のサンプルでも契約書や図表などを参照しながら解く実用的文章と称するテキストが問題文となっており、国語能力の育成とは程遠い内容になっていました。記述式をやめ、問題が実用性の高いテキストを読む問題になるならば、ますますこの国の国語教育は衰退に向かうような気がしてなりません。

 共通テストの国語は基礎的論理思考能力を試す問題と位置付け、問題をもっと簡潔にしてしまうのも手であると私は考えます。国語の問題を全国の受験生に均等に出そうと思うと無理がある。ここでは一定水準の文章が読めて、理解ができるかだけを問えばよいのです。記述試験のような判定が困難なものは二次試験に回すべきでしょう。

 記述式をやめるならばせめて国公立大学の二次試験は思い切った改革をするべきです。面接や論述試験の度合いを高めて、学部ごとに自分たちがとりたい生徒の学力を測っていくべきでしょう。大学学部によってどのような記述力が必要なのかは違うはず。それをそれぞれの学部の判断で「主観的」に選べばいいのです。全国一斉テストの役割と個別試験の役割はこのはっきりと分けた上で、2次試験を重視する方法をとっていくべきだと私は考えます。

霙

 朝、扉を開けると雨が降っているようでした。路面が濡れ始めています。ただ周囲に響く音がいつもとは違う。どこか硬質で細かい音が響いていました。

 それが霙と霰の中間に当たるようなものであることにはその後すぐに気づきました。傘をさして歩き出すと、その上にもいつもとは違う感触があります。

 その後、ネットニュースで横浜で初雪が観測されたとのことを知りました。今日は最高気温が一桁止まりになるとか。師走に入ってやはり急速に季節は進んだようです。

 関東の冬は乾いた晴天が大半ですが、やはりこういう日の方が季節を実感できます。

瀬戸際

 このところ急に寒さが増し、風邪をひいている人が増えてきました。体調が悪くなる兆しを感じながらなんとか押しもどしているのがいまの実状です。

 風邪や発熱の出る前兆は確かにあるはずなのに、なかなかそれを意識下におくことができません。瀬戸際で回復することもあるので区別することが難しいのが覚えられない原因なのかもしれません。最近はバイタルデータを記録する腕時計などの機械も普及しており、数字で体調を知る方法もあります。ただ、それにしてもいつも健康に意識を向けているのは難しく、やはりかつての轍を踏むことになるのです。

 もっとももしこれから数時間後に体調を崩す可能性が60%を越えましたなどとアラームを発してくれる機械を身につけるのには賛成できません。何もできなくなってしまいそうですから。