投稿者: Mitsuhiro

コジュケイ

 最近、自宅のすぐ近くでコジュケイが鳴くのが聞かれるようになりました。印象的なさえずりなのですぐに分かります。

 ちょっと来いと聞きなしされるコジュケイは里山などに現れる野鳥です。実は姿を見たことはありません。動画サイトで見るとウズラのような姿です。分類上ではキジ科の鳥なのだそうです。狩猟の対象として外来種が放鳥されたのが起源のようです。確かに富山では聞いたことがなかったです。

 キジも鳴かずばの古諺通りこの鳥も鳴きさえしなければ目立たない鳥なのです。鳴かずにはいられないのが生きているものの定めなのでしょう。

落書きを通して

 最近、下手くそなスケッチをすることが多くなりました。絵を描いてみて思うのは自分は対象をよく見てこなかったということです。

 絵を描く時には立体を平面化するという技術的な問題があります。それよりも障害になるのは既成概念だと感じています。対象を写しているのではなく、自らの思い込みを描いてしまうのです。みたとおりに描こうとすればたちまち違和感が生じて筆が止まってしまう。そして自らの常識に従って偽の姿を描いてしまうのです。

 私は見たとおりに描ける人が芸術家なのだと考えます。見たとおりに書き上げることができる柔軟さと我慢強さは並大抵の努力では得られない。たくさん描いてたくさん失敗する中で得られることなのだと感じるのです。

 落書きを通して自分が何を見ているのかを確認する作業を繰り返していきたいと考えています。

寒暖差

今日は昨日より10度以上気温が低下しています。ある意味本来の早春の陽気に戻ったと言うことができるでしょう。まもなく桜が開花してしまいそうな暖かさが続いていたので、ここでごく短い休符が入ったようです。

 ウイルス蔓延の話題はまだ収まりが付きませんが、恐らく世界的に踏ん切りをつけなくてはならないときがくるはずです。特効薬よりも免疫のシェアの方が先にあるのかもしれません。そこまでには多くの犠牲が出ることも考えられます。

 致死率が高くなる条件を揃えている人と、一般の人との区別をしなければなりません。それができれば無駄な社会的停滞を防ぐことも可能になるかもしれないのです。冷静な行動が求められています。

 毎日の温度に私たちの身体はなんとか適応することができます。社会状況の変化にも臨機応変の対応が欠かせません。

集まるな

 コロナウイルスの流行に伴い最近は様々なイベントが中止されています。楽しみにしていた観劇も主催者側から中止の告知がありました。

 いまの社会状況は集まるなというなんとも面白くないものです。集まらなければできないことが封じられるということは人間の可能性の大半を捨て去ることに等しいのです。インターネットの普及で仮想的なつながりはできたとしても、私たちはメディアの介在を無視できるほど鈍感ではありません。

 とはいえ、この状況をなんとかしなくてはならないことは確かです。人との新しい連繋のあり方を模索していくしかありません。それを考える機会が与えられているのだと考えてみたいと思います。

パンデミック

 新型肺炎の世界規模の流行を世界保健機構がパンデミックと判断したようです。定義の有無に関わらず、この病魔の影響力の大きさは日々拡大しています。

 ただ、罹患すれば直ちに死に至る病ではなく、感染しても無発症の人までいるというウイルスです。完全なる隔離が難しいところが大きな問題でもあります。

 それ以上に厄介なのはこの度の不安感が日常生活の全般を不活性なものにしていることです。人、モノ、カネなどの交流と交換で成り立っている日々が損なわれるとうまくいかないことが増えていくことになります。すでに破綻したり、そうなりつつある企業が生まれつつあると言われています。

 単に恐れるだけではなく、守るべきものは守りながらも、やらなくてはならないことは粛々とこなしていくことが求められています。また、互助の精神も思い出さなくてはならないでしょう。

 震災復興がすまないうちに次なる災禍が訪れたことは残念ですが、立ち向かうしかありません。

9年目

 今日で東日本大震災から9年目になりました。歳月の流れること速くすでに記憶が薄れつつあります。忘れてはならない忘れたい記憶です。

 地震の発生時は職場にいて午後の仕事のめどが付き始めていたころでした。突然の大きな揺れで動揺しましたが、意外にも冷静に行動できていたと考えます。恐らく関東の地震はものを倒すほどではなかったことや、丈夫な建物の中にいたからでしょう。建造物の一部崩壊による死傷者は東京でも出ていました。

 記憶に残っているのは震災後の不安です。エネルギー不足による暗くなった照明、計画停電、原発事故による放射能汚染の恐怖など、どうしようもできない恐怖感が静かに襲いかかっていました。度重なる余震が落ちつきかけた心をかき乱しました。

 いろいろな意味で厳しい状況の中で平静を取り戻すことができてきたこの時期に、今度は世界規模のウイルス流行で再び社会不安が増大しています。震災9年目にあたって必ず立ち直るという決意を新たにしょうと考えています。

東京大空襲

 1945年3月10日に東京東部の人口密集地に連続的な空爆が行われ、少なくとも10万人以上が死亡しました。いわゆる東京大空襲です。

 戦時中とはいえ、これほど大規模な殺戮がいわゆる通常兵器で行われたことや、被害者の大半が非戦闘員であること。意図的に一般市民が狙われたことなど、人類の戦争の歴史上特筆すべき出来事でした。

 ところがこの事実をすでに知らない日本人が多い。戦争という特殊な状況がもたらしたこととはいえ、冷静に考えて許されざる事実です。このことを考えるのを止めてしまうと同様のことを繰り返してしまう。

 被害者的な立場でだけではなく、人類の叡智として非戦闘員の無差別殺人は戦時中であっても絶対に避けなくてはならないことを忘れるべきではありません。

仲間と孤独

 文学作品を書き上げる上で必要なのは抜きんでた才能であることは確かです。誰もが名作を書けるわけではない。ただ、才能さえあればいいというものでもないようです。

 作家の人生を調べてみると必ず盟友ともいうべき存在がいます。同じ作家であったり、批評家や出版社の人物であったりと様々なのですが、密な交流をしている存在があるのです。ときに物的精神的支援者として、あるいはライバルとして彼らの存在は創作者に刺激を与えるのです。

すると作品は決して個人の産物ではなく、周囲の人物との関係の中で結実するものと言えそうです。この点を忘れると作品の生命力が損なわれることになるのでしょう。

いるところにはいます

 報道によればコロナウイルスの感染を恐れるあまり町が空洞化しているといいますが、昨日近隣の商店街にいったところいつもと同じようににぎわっていました。子どもたちの姿も見られました。メディアリテラシーが必要です。

 レジャー施設が休業したために行き場をなくした人たちは、営業時間を短縮した商業施設に集中しているようです。確かにマスク着用率の高さは異常ですが、この時期の日本ではそれも違和感はありません。一部のメディアの報道では町が静まり返っていると報じていますが、私の見た実態とは大きくかけ離れています。

 そもそもリモートオフィスなり、テレワークなりの転換についてはウイルス流行とは無関係に推進されるべきものであったのですが、今はそれが強制的に進められています。家庭でもできる仕事は家庭で行い、家族や地域とのふれあいの機会を増やすというのは一種の理想的な労働形態だったのでしょう。地域の商店街の賑わいはこのように実現されていくのかもしれません。

 住宅地域の平日の人口も増えており、それ以前より「賑わっている」ということもできそうです。町は静まりかえってはいないという事実を書き残しておきます。もちろん普段とは異なる人口配置がもたらす様々な問題については感がなくてはならない新たな問題でしょう。

日本語のパソコン

 日本のパソコンメーカーがほとんど壊滅状態であることは素人でもわかります。日本独自の企画で作られているコンピューターはほとんど皆無といってもいい現状です。低価格のパソコンは特別な設備もいらないようで完全にコモディティが進んでいる分野です。

 ただ、今後ぜひ頑張ってほしいのが教育用の分野の国産パソコンのハード・ソフトの国産化です。生徒がつかっても壊れにくく、修理がしやすく、さらに低価格なパソコンと、日本の教育にあった教育ソフトの開発は至急行っていただきたい課題です。

 教学用のパソコンといえばChromebookがあります。安価で管理もしやすい学校用のPCとして日本でも次第に広まりつつあります。ただ、このPCはアメリカ発のものらしい側面が随所に見られます。日本の教育場面にあった工夫がもっと取り込まれなくてはそのままでは使いにくい。日本の縦書きやルビなどの特殊な書式にも対応できていません。

 コンピューターを使うことが言語技術に大きく関係している以上、日本語の言語環境と親和性が低いパソコンを使うことは、根幹から言語の優位性を下げてしまうことにもつながります。これはWindowsでもiOSでも同じであり、日本語にあったパソコンを作ることにはもっと関心を持っていいのではないでしょうか。いままでは外国産のコンピューターを模倣して作り、それに合わせた操作性に自分が慣れていくという方法でしたが、次の段階があってもいい。日本語の環境にあったかたちのコンピューターを日本語話者が造る時代にはいったのではないでしょうか。

 教育現場でつかわれるパソコンは日本語にあったものであるべきだというのが私の持論です。それならば日本のメーカーが参加するチャンスはある。というより日本のメーカーに活躍してもらわなくてはこの国の知的生活の未来は怪しくなるといえるのではないでしょうか。

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