投稿者: Mitsuhiro

副収入

 真面目に副収入を得ることを考えなくてはならないと考えている。金が欲しいということもあるが、それよりも他者から認められるスキルなり、体力なりを作っておかなくてはならないと痛感するのだ。

 サラリーマンとして長年暮らしていると自ら稼ぐことに無頓着となり、アイデアも能力もない気がする。しかし、きっと何かあるはずですねと最近考えるようになった。人様からお代をいただくためには何らかの利益を提供しなくてはなるまい。人を幸せにするために何ができるのかを考えるべきだ。

 情報化社会でなんでもすぐに手に入る時代だが、ネットでは入手しがたいものやことを提供することが大事だろう、挑戦が始まる。

負け試合

 試合において劣勢になり、負けが感じられるようになると、どうしても心が萎縮する。できるだけ被害を減らすことを考えるのだが、その第一が精神的な保護なのかもしれない。

 負けが濃厚になるとその理由を探し出す。まずは誰かのせいにし、適当な人物がいないときには社会のせいにする。確かにそういうときもあるのだが、本当の原因は自身にあることも多い。それを認めるのは辛いので他者に転嫁することになるのだ。これは自身の防衛のためには大切であり、必ずしも責められるだけのことではない。

 ただ、それだけでは現状を打開できない。まだ負けていないのかもしれない。安易に抵抗の意志を捨ててはならないのではないか。これはあくまで自戒の文章である。

昨夜の強風

 昨夜はかなり長い間強風が続いた。天気図によれば西高東低の気圧配置だ。しまがまだ南北になっていないので、本当の冬型とはいえないのかもしれない。寒気が入り込んでかなり気温は下がった。

 風の音て時々目が冷めた。少し布団を厚くしなければならないとも感じた。季節は進み、この月も中旬になっている。やるべきことは少しずつ、だが確実に進めていこう。

 寒いのはいろいろ困るが、心が研ぎ澄まされる気がするのはいいことなのかもしれないと考えている。冬になるのも悪いことばかりではない。

考え方次第

 抽象的な話になるが私たちの生きる世界は実に多様な側面を持っているようである。自分が目にしていることですらそれは多くの別の見方と同列の一つに過ぎない。絶対にこれしかないとは思っても、別の視点では異なっているものなのだ。

 世界は考え方次第でいくらでも変わってしまう。その不安定さを避けるために何かの規範に身を置こうとするのだろう。規範を壊すものは不安定の闇に人々を突き落とす行為だ。だから、私たちは破壊者を憎むのだろう。

買わなくても

 買わなくてもいいものを買ってしまうのはなぜだろう。一つには習慣の効果が大きい。時間、場所、前後の出来事、その他いろいろな条件が揃うと買い物をしてしまうことがある。これはかなり意識して止めなくては繰り返す。

 現状把握が不十分なのも問題だ。今足りないのは何か、不足をきたさないためにしておくことは何かを考えておくべきだろう。思ったより不足はなく、むしろ使われることを忘れられているものが多いものだ。

 買わずに済んた喜びを記憶しておくことも大事だ。買い物がストレス発散になるというが、買わずに特をした喜びは自覚しにくい。それを言語化することは買いすぎを防ぐ手立てとして必要だ。

分配の方法

 18歳以下の国民に10万円の分配をするという法案について議論がなされている。結論から言うと反対である。私の家族に該当者がいないという理由ではない。困窮の度合いに無関係に金を配るというのは愚策であり、財政破綻をしつつある我が国の国益に大きく反する。

 かつては貧乏人の子沢山という言葉があった。しかし、いまは財力がなければ子どもが作れない時代だ。子どもがいるということは資産があるということにもなっている。もちろん、これには個人差があって一概に言えることではない。それでも子どもの数で金を分けるというのはいまの時代には合っていない。

 子どもをつくれば将来にわたって支援金が出るというのなら話は別だ。しかし、今回の給付はあくまで一時的なものであり、国民の分断を生む以外の効果はないように思える。一部の政党の選挙に勝つための戦略であって国益に沿うものではない。

 収入が少なく、善良な(犯罪を犯していない)国民に対して分配するのが優先順位としては先だろう。経済的な保証ができれば希望も持て、就職も可能となり、結婚も可能だ。働いているのに収入が増えない層へ手厚く分配する方法を考えるべきではないか。

 補助を受けるべき人々の基準を明確にしなくてはなるまい。年齢で区切ることは簡単だがそれではバラマキだ。前回の国民全員への給付が経済効果をあげていないことを考えたい。

 分配しなくてはならないのは現在の厳しい現実を乗り越えるための知恵や、相互扶助の精神の徹底だろう。富めるものが篤志の心を持ち、社会のために消費することの美徳も伝えるべきだ。政治家だけの役目ではないかもしれないが、きっかけは作ってほしい。

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入力過多

最近の苦しみの一つは入力過多にある。いろいろな情報を入手するのはいいが、それを自分なりに消化し、言語化しえていない。わかったつもりになっているが、実は何も理解できていない気がする。

この悩みを解消するためには、未消化であっても自分の考えを言葉にしなくてはならない。これは難しいことだが、それをしなくては前に進めない。言葉にするにはどうすればいいのか。それは完成形をすぐに求めないことが必要だろう。

作家の草稿を見ると結構多くの書き直しがあることがわかる。作家だけではない画家でさえもたくさんの習作を重ねてやっと作品にたどり着いている。私達は最終形態しか見ていないのであたかも最短距離で作品ができあがっているような感じになる。でも実際は底に至るまでの様々な習作があり、試行錯誤しているのである。

このブログはその習作を臆面もなく発表する機会と考えている。本当の作品はいづれまとめることにして、今は考えたことをひたすら文字にしていく。出来損ないの集積であるが、よろしければお付き合いいただきたい。

古典文学の文庫本

 学生時代は『万葉集』をよく読んだ。国文科の学生であったからそれは教材であり、研究材料でもあったのだが、いまは心の拠り所のようなものである。

 職が変わり日々の業務に忙殺されている間に古典文学を教材としてしか扱わなくなってしまった事に気づいた。文法やその他の知識を生徒諸君に伝達することは教員として大切な役目だ。それを効率的に行うことで仕事の評価がなされることにもなれてしまった。相当な違和感を常に感じながら。

 古典を読む意味は試験に受かるためだけではない。むしろそれは二義的なもので本道から外れる。それに気づいていない教員が多いのはとても残念だが、教員がそうなのだから世間の人々の大半は古典文学は単なる受験の一科目くらいにしか考えていない。

 しかし、古典は様々なことを考える切っ掛けであり、道標でもある。過去の人々の心の足跡に触れることで現状を捉え直すことができることがある。とても大切なことではないだろうか。最近古典文学の文庫本をもう一度開くことにしている。一部は何度も開き壊れそうになっているのでまた買い換えよう。

 相変わらず読んでもわからない部分がある。解釈できない部分さえもある。それでも何度も付きあているうちに読めてくるときが来るかもしれない。それは自分自身の読解力の向上だけではなく、精神の成長に関係するのではないかと考えるのである。


土曜の混雑

 通勤電車の話である。土曜朝の電車が今朝はかなり混んでいる。在宅ワークを止めた企業が増えたのだろうか。日常が戻りつつあることを実感するとともに、また悪夢が再現されないか心配でもある。私はあいも変わらず儚い夢を実現するために職場に通い続ける。

乾燥

 このところ晴天続きで空気が乾燥している。爽やかな陽気はよいが、少々厄介なのは風邪の心配だ。マスク着用生活が日常となったためにインフルエンザの流行は少なくなった。昨季は非常に少なくなったと思う。

 しかし、これは新しいインフルエンザウイルスへの免疫力が後退したことに繋がるのではないだろうか。証拠がないので単なる危惧に過ぎない。コロナ対策だけではない健康管理をしなくてはなるまい。

 国産のコロナ対策ワクチンの開発が進んでいるらしい。遅くなってしまったが安心感はまず。色々大変な季節でもある。