投稿者: Mitsuhiro

新生活

 ニューノーマルなどという言葉が独走したが、気がつけばもとの生活が戻りつつある。安堵するとともに危機感も覚える。塩梅を間違えると後退にたどり着く。毎日の点検が必要であると最近は痛感するのだ。

文化

東京では文化の日は穏やかな晴天だった。かつては天長節であったこの日はなぜか晴れの特異日の一つであるという。それが文化の日となった経緯は興味深いが今日はその話題にはしない。文化とは何か、そして文化を伝えることの重要性を実感しているということを述べたい。

日本には日本の生活様式なり、思考の形式というものがある。それは特に優れているというわけではなく劣っているわけでもない。私は日本人なのでそれに対して誇りをもち、優越感を感じることもあるが、これはあくまで相対的なものであることも知っている。どの民族の文化もそれが成立するまでには洗練を繰り返しており、全てが素晴らしいはずだ。理解するのが難しいのは文化が違うことが要因なのである。

それでも日本の文化を海外に広めたいと思うことが多い。こんなふうに考え、行動すれば大変興味深い効果が生まれる。それを多文化の民族にも知ってもらいたいと思うのだ。おそらく多くは奇異と思われ、中には評価する人も出てくるはずだ。その一部の人にでもいい。日本の文化を知ってもらいたいのだ。

文化を伝えるためのもっと良い手段はその国言葉をつかてもらうことにあると考える。ただ、それは非常にハードルが高い。私など何十年も英語を学んでいるというのに未だに満足に日常会話すらできない。でも、日本語を知っていただくことは文化理解の第一歩なのだ。このブログを海外から見ていただいている方もいるかも知れない。翻訳ツールを使えばおおよその内容はおわかりいただけるはずだ。でも本当は日本語を少しだけでもわかっていただけたほうが真意が伝わる。私も外国語の学習を続けていきたい。それが異文化への接点になるというのであれば。

欅の紅葉

欅の紅葉

 近隣のショッピングモールに植えられたムサシノケヤキが紅葉していた。照明に透けて見える葉の色は不思議な鮮やかさだった。すでに落葉が始まっているので、この光景も数日限りだろう。

発想

 脳にも体力が必要だ。最近はこれを痛感する。疲れると判断力や思考力が低下する。怠けたりさぼったりするのとは明らかにちがう。進もうとしても身体が動かない。まさにそのような感覚だ。

 新しいことを発想することの難しさもここにある。よくはわからないが発想には相当のエネルギーが必要なのだろう。だから、体調がよくないと発想が湧かない。衰えた体力で発想をし、それを残すにはどうしたらいいのだろうか。その戦略を考えるべきだ。

 最近、動画サイトをよく見るようになったが、これはほどほどにしなくてはならないと気づいた。分かりやすい動画を見るほど自分の脳の体力が落ちてきている。歩かずに目的地に行き続けると歩けなくなるのと同じだ。しかも、動画の結論は目的地でさえない。

 自分で歩く、つまり頭を使う機会を増やすこと、そして気づいたことはまとまらなくても文字や絵図に残すことが大切だ。私の戦略は思いつきをメモすることとすることにした。このブログもその一つだ。

ほどほどに

 私ももうすぐ高齢者の仲間入りをすることを考えれば、生活のダウンサイジングを考えていかなくてはならない。もちろん、働ける限りは働きたいと考えているし、過去の実績には拘らずできることなら何でもしたい。それでも現在の収入を維持することは不可能であるし、この先の日本経済も不透明なのは不安である。

 「ほど」とは程度や段階を表し、身の程とか、程の良い、といった言葉がある。ほどほどという言葉がある。これは自分にあった程度や段階ということであるとともに、身分や分際に見合ったものという意味も持つ。これから私がやらなくてはならないのはこのほどほどに生きることだ。増やすのと違って減らすのは簡単と思いがちだが実はそうでもない。特に何でも取っておきたい私のような考えの持ち主のものにとってはほどほど生活はかなり困難だ。

 このブログは半分以上自分に言い聞かせるために書いている。だから、あえて文字化しておく。

変身願望

 仮装ではなく本当に別人になってしまいたい気持ちになることがある。おそらく多くの人がそのように考えたことがあるのではないだろうか。そしてそれは不可能な願いなのだ。

 もっとも細胞レベルでは生物は常に新陳代謝をしており、一定期間で置き換わっているのだという。だからその意味では常に変身を繰り返しているともいえる。

 しかし、実感としてそれは変身願望には答えられない。それは自分の生の延長上にある加齢というものだからだ。変身するためには別の身体がいる。見た目も行動も全く別の者にならないと変身したことにはならない。

 年齢が変わったり、性別が変わったり、性格が変わったり、その組み合わせだったりするのが変身願望の理想的な完成形だ。現実には外見を変えることはある程度できるようだが、時間軸を往還することや、生命の神秘の領域となるとできることは限られる。

 擬似的に他人になりきることは文学や芸術の力でできることもある。昨今ならば仮想現実の中で他人になりきることもできるかもしれない。漫画やゲームがその役割を果たすこともある。でもこれはどこまでもバーチャルのことであり、少しも自分は変わらない。

 私はしないが化粧することは自分を他者からどのように見られたいのかを示すメッセージだろう。服の選び方とか着こなしの方法も実は変身願望の端緒に当たるのかもしれない。

 結局、自力では他の誰にもなれないことになる。よく考えれば自分の存在は他者の目によって認識されるのだから、変身などしなくても人によって自分は様々に変化しているとも言える。なんとも不思議なものだ。

自分以外にはなれない

There are times when I feel like I really want to be someone else, not in disguise. Many of us have probably thought about it. And it’s an impossible wish.

However, at the cellular level, living things are constantly metabolizing and being replaced over a period of time. So, in that sense, we can say that we are always transforming.

However, in reality, this is not an answer to the desire for transformation. This is because aging is an extension of one’s own life. In order to transform, you need a different body. You have to look and act like a completely different person to be considered transformed.

A change in age, gender, personality, or a combination of the three is the ideal completion of the desire to transform. In reality, it is possible to change one’s appearance to a certain extent, but the ability to travel back and forth through time and the mystical realm of life is limited.

In reality, we can change our appearance to some extent, but when it comes to time travel and the mystical realm of life, we can only do so much. Nowadays, it may be possible to become someone else in virtual reality. Comics and games may play a role in this. But this is all virtual, and it doesn’t change you in the slightest.

Wearing make-up, which I don’t do, is a message of how you want to be seen by others. The way you choose your clothes and the way you dress may actually be the beginning of your desire for transformation.

After all, you can’t become anyone else on your own. When I think about it, my existence is recognized by the eyes of others, so I can say that I change in various ways depending on others, even if I do not transform. How strange life is!

ハロウィン

日本でもハロウィンが行われているが、その意味を理解している人は少ない。子供の行事としてではなく商店の売出しの手段、大人のバカ騒ぎの言い訳として定着している。しかし、昨今のコロナ禍の影響で暴徒化する不届き者はしばらく途絶えている。

ハロウィンの化け物の正体は実は先祖の霊魂であるという。このあたりは日本の民俗に見られる鬼の形相をした先祖まつりと似ている。神と怪物は紙一重であり、まして劣勢の神話は妖怪化しやすい。祖先神とともに邪悪な霊が来訪するという考え方も日本の施餓鬼棚の習慣とよく似ている。仮装する行事としては京都の節分おばけが知られている。鬼面や天狗面をつけて先祖の霊になりきる行事は日本各地にある。ケルト人の信仰が元と言われるが、日本民族と直接の関係がない民俗に共通点があるのは興味深い。キリスト教とは無関係の行事なのでこの習慣がない国も多いらしい。

日本でハロウィンが受け入れられたのはもちろんアメリカとの関係によるものであろう。また、クリスマスまでの商機に利用されたこともある。ただその基層部分には古代信仰の偶然の類似があると考えられるだろう。それを意識している人は少ないにしても。

ハロウィンの起源には魔除けの要素も含まれていたという。もしそうであるならばウイルスという目に見えない魔物を退散させることを願いたい。東京では感染者数が激減しているが、世界的にはまた増加傾向が見られるという。完全に魔物が霊界に戻ることを期待して止まない。

Photo by Toni Cuenca on Pexels.com

Halloween is also celebrated in Japan, but few people understand its meaning. It is not a children’s event, but rather a means for merchants to sell their wares, and an excuse for adults to make a fool of themselves. However, due to the recent corona disaster, the number of rioting miscreants has ceased for some time.

It is said that the true identity of Halloween monsters is actually the spirits of ancestors. This is similar to ancestral festivals in the form of demons in Japanese folklore. There is a fine line between gods and monsters, and inferior myths are more likely to turn into monsters. The idea that evil spirits visit us along with the ancestral deities is also similar to the Japanese custom of the “Segakidana”. The Setsubun Obake in Kyoto is well known as a masquerade event. There are many events all over Japan where people wear ogre or tengu masks and pretend to be the spirits of their ancestors. They are said to be based on the beliefs of the Celts, but it is interesting to see the similarities in folk customs that have no direct relationship with the Japanese people. It is said that many countries do not have this custom because it has nothing to do with Christianity.

Of course, the acceptance of Halloween in Japan is probably due to the relationship with the United States. It was also used as a commercial opportunity until Christmas. But at the base of it all, there is a coincidental similarity to ancient beliefs. Even though few people are aware of it.

The origin of Halloween is said to have included an element of protection from evil. If this is true, I hope that it will help to get rid of the invisible demons called viruses. In Tokyo, the number of infected people has decreased drastically, but worldwide, the number is increasing again. I can’t stop hoping that the demons will completely return to the spirit world.

Translated with http://www.DeepL.com/Translator (free version)

Deeplで翻訳してみました。日本語の名詞の間違いを直しましたが、それ以外は結構、うまく行っているような気がします。正解はわかりませんが。

紅葉

 まもなく東京も本格的な紅葉の季節となる。最近は暑い夏と寒い冬に挟まれて春秋がとても短い気がする。それでも紅葉からそれが風に舞う頃は、秋を実感する。

 紅葉して葉を見るとどれもが同じように見えながらどれ一つ同じものがない。そこに命の神秘を痛感するのだ。様々な偶然のもとにたった一つの生命の形がある。その意味を噛みしめるのである。

 いつも思うのはもっとも美しい紅葉を選んで、永久保存したいということだ。それはかなり難しい。形あるものをそのまま残すのは困難だが、その前に一つを選び出すことができそうもない。仮にできたとしても、当の自分自身が永久ではないことを悔しく思うだけだろう。

失言というレベルでは

 麻生太郎氏の失言は日常的な出来事なので受け取る方もかなり麻痺しているが、今回の発言は選挙前ということもありかなりの影響をもたらすかもしれない。失言というより、事実誤認、さらには政治姿勢の根本に触れる問題発言だった。

 北海道のコメがうまくなったのは、農家の努力ではなく温暖化の影響という意味の発言をこともあろうに北海道の応援演説でおこなったという。応援された候補者には気の毒と言うしかない。温暖化とコメの生育の関係に科学的な証明ができていないこと、品種改良による努力を軽視するものであることなどそれだけで問題がある。それよりも国際的な動きとして持続可能性が喧伝され、その一つとして気候変動の減少と考えられている温暖化をあたかも天恵のごとく捉えること自体が政治家としての資質を問われるのだ。

 麻生氏は人間的な魅力のある人だと言われ、政治家でなければ好人物かもしれない。しかし、無知無配慮のリーダーのもとで生きる国民は不幸だ。これまでの失言歴だけでも普通の政治家であれば失職しているはずだが、経験と人脈が何とか支えてきた。ただし、自民党にとってそして国民にとってこの方はそろそろ政治以外の方面で活躍していただく方がいい。

生き残る

 劣勢に立たされた時にいかに生き残るかは大切な問題だ。目的が生存ならばうまく立ちまわる必要がある。そのために必要なのは少し先の展開を読む力だ。

 ならばその力はどこから生まれるかといえば、学問と経験によるものだろう。江戸を生き抜いた小藩の歴史にそのヒントを求めることができるかもしれない。