投稿者: Mitsuhiro

距離感

 渋谷に住んでいたとき銀座は遠いと思っていた。もっと近くの六本木さえかなり時間がかかると思い込んでいた。最近、たまにその地を訪れるとそれらが実は隣接していることに気づいた。

 隣接というのは誇張に過ぎるがそれほど遠くはない。歩いて行ける距離だと知ると少々驚いている。近くに住んでいたときより、離れてからのほうが距離感がつかめたということになる。

 もちろん自分の身体が成長したことや車を運転するようになったことなどは距離感覚に大きな影響を及ぼしているのは確かだ。ただ、それだけではなく東京を俯瞰する視点が区民でなくなったことによって身についたのだろう。こういうことは多方面にあると考えられる。

みかんの花

みかんの花が咲いている

 近隣の庭木の?みかんの花が満開になっている。ずっと蕾だったのが気づいたら開いていた。その実が目立つのに比べるとやや地味な白い花であるからか気づいている人は少ないようだ。

 花の付き方は良好で今年も多くの結実が見込めそうだ。毎年実がなるのを見ているが木の持ち主が摘果しているのを見たことはない。ヒヨドリやその他の小鳥が甘熟した実をつつくばかりだ。

 毎年、みかん泥棒を試みることを思うが、自制心の方が勝ってできていない。実は相当おかしな味なのだろうなどと勝手な言い訳をつけて見送り続けている。

 ただ、あのときじくのかぐのこのみを見てみたいという気持ちは強い。木もそして自分も健康にあらねばならない。

割に合わない

 戦争が終わらない。なぜここまで戦い続けるのか分からない。核兵器や化学兵器を使わないところには一抹の正義は残っていると見るべきなのか。

 様々な歴史の教訓で戦争は割に合わないことは周知の事実だろう。破壊した分だけ修復に費用がいる。何よりも憎しみという負の遺産は数世紀にわたって禍根を残す。それが大きな損失に繋がる。

 対立が感情的な要因によるのならばそれを制御する必要がある。怒りや恨みでは何も解決できない。功利的な目的ならば他の方法を探すべきだ。戦争はあらゆる面で割に合わない。

石楠花

シャクナゲ鮮やか

 近隣の庭で石楠花の花が見頃になった。鮮やかな赤の花である。唱歌に黄昏の色に喩えられたのが有名だが、その黄昏は随分華やかだったことになる。

 躑躅が咲き揃い街のあちこちに彩りの仕切りを作っている。石楠花は群生させるのには向かないのか。独立して植えられていることが多い。主役といった趣きがある。その鮮やかさは確かに目を奪う。

 多忙な毎日が再開した。次は夏まで長い休みは取れまい。折々の花鳥に励まされながら、遅速を恥じて進み行くしかあるまい。

5月病

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 連休が終わると体調を崩す人がいるという。私などは休日の次の日はいつも憂鬱だが、病気という範疇には入らない。逆に言えばいつも半病人だ。

 5月病の原因の多くは生活のリズムの崩れによるそうだ。休みになれた身体がいきなりアクセルを踏むとエンストする。古いたとえだがこれがその本質らしい。だから、連休明けは思い切り連休ボケをかますのがいい。上司に白い目で見られても、エンストよりはましだ。それどころか休養した分、速く走れるかもしれない。監督者は長い目で見てほしい。選手を短期間でつぶすのはあなたの指導力が足りないのだ。

 とはいえ、いろいろと不安になることは多い。まずは焦らず、他人と比較しないことだろう。自分なりのやり方があると信じるべきだ。5月は気候的にはいい。連休で培ったのんびり過ごす方法を維持することが、実は最もよいパフォーマンスを出す方法なのかもしれない。

連休最終日

 あっという間に連休も最後の日になってしまった。遠出はできなかったが何冊かの本を読むことはできたのでよしとしよう。休んでいて気づいたのは日常が多忙過ぎるということと、その中にはやらなくてもいいことが含まれているという事実だ、無駄とは言えないが省いていいものは止めていく覚悟がいる。そう確認したのがこの休みの収穫と言えるのかもしれない。

休めましたか。

都合のいい世界

その機械は現実からの目隠し?
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 メタバースという仮想世界に対してアメリカのメタなどの会社が覇権を握ろうと躍起になっているらしい。とてつもないビジネスチャンスがあるらしいのだ。現実では実現できないさまざまな願望を疑似的に満たしてくれるもう一つの世界を演出してくれるというのだ。

 仮想現実というのはゲームの世界だけかと思っていた。しかし、このメタバースの世界はそのなかで商売を行ったり、教育を受けたりすることができるらしい。疑似的な交友関係や結婚も可能になるかもしれないとか。しかもそれは現実社会では得られない自分にとって都合のいい条件で満たされているというのだ。

 もう一つの世界という言い方は多分間違っている。その世界はたぶん一つではない。個々人が思い描く理想をそれらしく見せてくれるものであるから、人それぞれにメタバースがあることになる。他人との接点を持とうとすると、折り合いをつけなくてはならなくなる。すると共有メタバースのようなまた新たな世界が用意されるのかもしれない。

 こうした都合のいい世界を演出するのは技術力を持った巨大企業だ。前述のメタもそうだが、いわゆるGAFAM(社名変更でこういえなくなったが)などのハイテク産業が新たな世界を構築して商業世界を飲み込もうとしている。日本はコンテンツの面で優位にあるが、それもいつまで続くか分からない。ポケモンもドラゴンボールもアメリカの漫画と思っている人が少なからずいる。私たちはメタバースという新世界を楽しむと言いながら、実は企業にとって都合のいい世界を間借りして現実逃避をしているのに過ぎない。

 メタバースに商機があるのは事実だ。チャレンジする価値はある。ただ、現実社会を捨ててまで没入するべきではない。現実を忘れて仮想世界でいくら活躍しても、それは夢物語に過ぎないのだ。このように考えると、メタバースは宗教にも文学にも見えてくる。現実社会を豊かにする材料としてあるのならば存在価値はあるのかもしれない。

違う仲間に説明する力

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 ソーシャルメディアが普及しても文章表現力が上がったと言われないのは、「ともだち」にしか配慮がないからだということになる。自分と同質の人たちに「いいね」をもらうための発言は、説明という面倒な作業をする機会にはなっていないのだ。

 インターネットが普及する前のことを知る人がどんどんいなくなっているような気がする。かつては文章を頻繁に書く人と、ほとんど書かない人に分かれていた。筆まめ、筆不精などと言われた。そしてその比率は筆不精が圧倒的多数を占めていた。

 ネットが普及してみなが文字によるコミュニケーションを強いられることになった。手紙文のような作法はなく、話し言葉のように書けるのは魅力的だったが、もともと文章表現力がなかった人々がいきなり文章を書き始めたから意味不明なものになったり、書き手の意図しない解釈がなされて多数の悲劇を生み出すことになった。ネット上の誹謗中傷は精神的な要素が大きいが、その中にはそこまで人を傷つけるつもりはなかったのにという言い訳をする人もいる。さりげなく批判の意見を述べるという表現法はかなり高度なものである。皮肉めいて発言するつもりが全力の罵倒のようになってしまう。筆不精がいきなり大筆で心の字を書くと半紙をはみ出してしまう。

 国語の授業にはいくつかの目的があるが、その一つに自分の考えを適切に表現するということがある。口頭表現でも文章表現でも同じだが、口頭での言い方は国語以外でも指導はできる。対して文章の方は国語授業が主に担当する。指導の際に大切なのは読者の設定だろう。誰に向けて書いているのかをはっきりさせることが肝要だ。隣の同級生に対してなら、ある程度の俗語や仲間内の符牒も使える。同世代なら知っていると期待できる知識は説明しなくていい。それが5歳年上の人ならどうだろう。さらに親世代ならそういった共通理解は期待できない。さらに別の地域、別の国と環境を異にする人々に説明するとなると違ったものにせざるを得ない。

 自分とは異質の環境や生活様式にある人にどのように説明すればいいのかという問題意識を持たせるのが国語の教員の仕事である。もしかしたら多国語への翻訳は機械がある程度やってくれるかもしれない。昨日の投稿は機械翻訳にしてはまずまずの英語になっているように感じる。でも、どのように説明するのかという問題は人間が考えなくてははならない。用語の問題、具体例、論理展開、わかりやすさ、親しみやすさなどの調節は当面人間の仕事だ。

 生徒諸君に「ともだち」に「いいね」させる以上の文章を書く能力を自覚させ、身につけさせる。それを目標にしていきたいと考えている。

Japan is worth visiting

Tokyo Skytree is waiting for you.
Photo by Evgeny Tchebotarev on Pexels.com

 Although the coronavirus has caused a period of self-restraint, the threat is gradually subsiding. Meanwhile, the yen remains at record lows, a difficult situation for resource-poor Japan.
 But for foreign travelers, it is an opportune time to visit Japan. They should be able to take advantage of the yen’s depreciation and enjoy a bargain trip. Japan has always been deflationary, and prices are low. The low cost of food and drink will surely surprise you. Japanese citizens do not benefit so much from the low salaries. If you are a traveler from overseas, you will be happy to know that you can enjoy your trip.
 In order to enter Japan, you must have a positive test certificate from your home country within three days prior to departure, and you must also be tested and positive at the time of entry. In the unlikely event that you test negative at the airport in Japan, you will be required to stay in accommodation for at least three days. If a person who visits Russia, South Korea, Egypt, Pakistan, Bulgaria, South Africa, or Laos within 14 days of entering Japan tests negative, he or she will be placed in a designated lodging facility and will be required to wait until he or she tests positive. These are government rules for quarantine. A bit cumbersome. If you can put up with this, your trip to Japan will be an enjoyable one.
 The expensive services for foreigners should, of course, satisfy you. However, if you want to know what Japan is really like, please take the plunge and talk to a Japanese person. They will surely introduce you to better places and stores. Japanese people are not good at foreign languages, but they can manage to communicate in English. And if you look really puzzled and ask, they will introduce you to a Japanese person who can speak English. Many Japanese are friendly to travelers.

Translated with http://www.DeepL.com/Translator (free version)

かなり、英語になっていると思う。機械翻訳もなかなか。

写真

Why do you take pictures?
Thanks for Photo by Saeid Anvar on Pexels.com

 人はなぜ写真を撮るのか。そんな作文を中学生に課してみた。もっともZ世代にとっての写真の意味は私のそれとはずいぶん違う。私はシャッターを切るという言い方に違和感がないが、今この言い方はなされない。なされたとしても意味がかなり違う。写真を撮る意味はテクノロジーの進歩以上に変化しているかもしれない。

 父は写真を撮るのが下手だった。ピント合わせも遅ければ、なかなか構図が決まらず家族を待たせた。たいていの場合しびれを切らした家族の不満な表情を撮ってしまうことになる。しかし、これは父が悪いだけではなかった。かつての写真はピント合わせから自力で行った。フィルム代も安くはなく、24枚か36枚程度でフィルム交換をしなくてはならず、その交換も手巻きだった。だから、一枚ごとの撮影は慎重にならざるを得なかったのだ。それでも現像してみたら目を閉じていたということはいくらでもあった。

 今はデジタルカメラだから、何枚でも撮り直しができるし、その場で写り具合を確かめることも可能だ。カメラではなくスマートフォンで撮影する人の方が多い。カメラを持っていない家庭が多いのは昭和時代では考えられないことだった。写真を撮る緊張感はほとんどなくなった。自撮りというよく考えれば不可思議な行動をする人も一般的になった。

 では、なぜ写真を撮るのだろうか。一つには不断の時間の中に生きる私たちのささやかな抵抗だと考える。諸行無常の世界にあってすべては移り変わる。自分の身体でさえ絶えず変わり続けている。昨日の自分はすでに今の自分とは物質レベルで別物になっている。ならば写真もしくは動画でその時点での自分もしくは自分が見たものを残しておきたいと考えるのが撮影の願望の底にあるのだろう。

 実際はその写真、フィルム、動画ファイルさえも劣化して消えていく。その速度がいかに遅くてもやがては消滅する。人生よりは長い。しかし、見る方が変わってしまえば、たとえ写真が不変であっても違って見えてしまう。だから本当は過去の一時点を完全に保存するこは不可能だ。

 それでも私たちは写真や動画を撮りたがる。後でそれを見ることだけが目的ではないのかもしれない。いま、それを記録しようとしている行為そのものに生きがいを感じることが撮影の意味なのかもしれない。大量に撮影され、顧みられることがない映像をかつては無駄と感じることもあった。しかし、もしかしたら、無駄になる写真を撮ることが生きていることの証なのかもしれないと考え直している。