このところ疲労感が激しい。恐らくは天候不順のためなのだろう。気晴らしすることが少なくなっていることも関係ありそうだ。考えすぎないこと、なるようにしかならないと思うこと。この精神を再確認することにしよう。
投稿者: Mitsuhiro
肩を押す
偶然であるが駅で金縛りのように動けなくなっているどこかの学校の生徒を見つけてしまった。恐らく覚悟を決めて駅までは来てみたものの、通学路に踏み出すことができないのだ。
私のような世代にとってはこういう行為は甘えか、精神的疾患などと分類されて、全うには扱われなかった。でもこれは特殊ではない。かなり高い割合で同じような状況に陥る生徒はいるのだ。
彼らの肩を押すのには何をどうすればいいのだろう。強要するのはよくないし、放置するこもできないとなれば、とにかく待つしか他はあるまい。ある程度、待っている存在がいることを示し続けることが結果的に彼らの肩を押すことになると考える。
五月ではなくても、いつでも心の不調は起こりうる。子どものも大人も変わらない。そして、私自身も例外ではない。せめて、自分ひとりではないことを意識するだけでもなにかに備えることはできそうだ。
そういう日もある
若葉
早朝の地震
GPTを超えろ
教育現場においてChatGPTをどのように扱うのかは大きな問題になっている。現時点でもかなり自然な文章作成ができるレベルにあり、本人作なのか生成された文章なのかを見分けることは難しい。
恐らく始めは使用禁止という指導で済むのかもしれないが、その縛りは長くは続くまい。見破るための方法も開発されるだろうが、文章作成能力を育成するのならばそういうことをやっても埒が明かない。むしろ積極的に活用せよという局面はすぐに来るだろう。
その場合、大切なのは何が理想的な文章であるのかを見抜く評価力だろう。コンピューターが書いたのだから正しいに違いないなどと考えていると大きな間違いに陥る。次の文章教育は何が理想的な文章なのかを判断する能力の育成ということになるだろう。
そのためには手本となる文章を徹底的に読み込むことが必要になる。これは機械ではできない。まだ国語教師がやることはたくさんある。
裏の意味はないように
寓意というと分かりにくいかもしれない。裏の意味と言えばいいのだろうか。私は比較的この表現法を取りがちな傾向にある。表面的に述べていることと本当に言いたいこととの間に階層があり、わかる人には分かるという言い方をしてしまいがちだ。
これを分かりにくいというか味わい深いというのかは他者の判断による。私はわかる人には分かるというコミュニケーションを良しとする文化の中で育ってきたせいでこういうややこしい表現をしがちだ。
でも、最近は少し反省している。比喩や寓意に富んだ表現を理解できない条件を持っている人がいると知ったからだ。センスの問題ではなく、脳科学的に裏の意味を理解しにくい人が一定数いるらしい。彼らが能力的に劣っている訳ではない。ただことばを文字通りの意味て理解し、それ以上は迷わない人たちが存在するということだ。稀少性はなく、普通にいる。
彼らと共生する私はコミュニケーションの仕方をやはり変えるしかない。最低限伝えなくてはならないことは、修飾語を施さず正確に伝えよう。これをした上で余情あまりある場合は、私の得意なもって回った詭弁を弄することにする。
様々な環境の人と共生し、助け合って生きていることにしよう。そのためには自分の価値観を押し付けるだけではいけない。時には相手の思いに寄り添うことも必要だ。
即時性
現代の人々の気質として即時性の偏重がある。すぐに結果が出なければやる気にならないということだ。答えが出ないものは無価値とさえ考える。いろいろなことが即座に実行できるようになったために、結果を求めすぎる。
私のような世代にとっては、すぐに結果が出るようなことはレベルの低いことだった。本質的なことはなかなか形にならないものであり、具現化するために様々な努力をすることこそ人生の要諦と考えた。
だが今は違う。結論が出ないものは価値が低いと考えられがちだ。超高速のコンピューターに途中の計算をさせ、結論を急ぐ。結論の出ない問いはそもそも発問が間違っていると考える。考えてみればとても窮屈な思考回路だ。
このような性急な環境では状況対応型の考え方しかできない。何が真実かとか、善悪の判断とかそういうものは後回しになりやすい。貧困な思想しかできない。
恐らく私のような時代遅れの人間に出番があるとすれば、日々の判断にあくせくせず、少し引いて考えることを提案する役になることだろう。失笑や嘲笑をものともせず、真実を探る尊さを示すしかない。
そうすればわずかに数人が気づくかもしれない。答えがあることばかりが良いのではない。むしろ容易には解答が見つからないことの方が価値が高いこともあるのだと。
先生はいませんか
全国の小中学校で教員が不足しているという。なかには退職者を呼び戻したり、管理職が教壇に立ったりしている。原因は教員のなり手が少ないことや、病気や出産で抜けた穴を補えないことにあると言われている。
恐らくこの状況はしばらく続くだろう。少子化が進む中、教育が成長産業とは認識されていないのに加え、勤務体系が不明瞭で過労死ラインを超える労働を課せられると考えられがちだからだ。これは必ずしも正確ではない。
学校にもよるが退勤時間を強制的に早める措置で労働時間は短縮する傾向にある。満足いくまでとことんやるのが教員の基本的な気質だが、これは雇用者がそこまでやらなくていいと公的に伝達したことであり、大いに手抜きしていいのだ。ただ、そうは言っても理想を求めるならば優先順位を決めて、決めたものも合格水準をやや下げてやる他ない。教育は継続性が必要だ。一度限りの成功では結果的に失敗に繋がる。
労働時間を割り切れば、次は業務分担もしくは委託で次の関門を乗り越えたい。部活顧問についてはすでに何度も述べたことがあるが、地域との連携がいる。責任の所在をしっかりさせて教員以外にも参画してもらう方が、質的向上も社会的影響力も高まる。生活指導や進学進路指導も専門職を設けて特化した方がいい。担任が全てをやる現状は一見効率的だが、効果的ではない。
こうした整備ができればまず教員になりたいと思う人材が増えるだろう。新卒はもちろんだが、結婚や出産、転居などで退職した教員を呼び戻すことも容易になる。数学なら数学の授業に集中できるのだ。独善的な授業は困るので教授法に磨きをかけてほしい。その時間もできるはずだ。
定年をもう少し上げることや、教員免許更新制度という意味不明だった制度のため、免許が失効していると思われている人(していません)にも再登場していただける環境も整備するべきだろう。
教育はこの国の要などといわれながら、教員を軽んじていたつけがきている。誇り高い職場になれば、いい人材が集まり、残念な教員たちは減るはずだ。
外そうにも
マスクを外してもいいという社会的環境は整ったが、いまだに多くの人は止めない。これには防疫という観点だけではない要因が様々にある。
私の結論はマスクをつけるのは個人の判断でよいというものであり、着用の有無を問題にはしない。コロナ以前からも真夏でもマスクをつけていた人はいた。一種のファッションであり、個人の自由というべきものである。ただ、パンデミックでマスク着用を強要された人々がマスクの効用を発見してしまったということが大きな要因である。
マスクはもっとも不自然ではない変身の方法でもあった。変装すれば怪しまれるがマスク着用は簡単に群衆に埋没する手段として使われる。私たちの人物の認識方法は意外と単純であり、髪型や眼鏡の有無など一部の要素だけを取り上げる。だから、マスクの人はそれだけで一つの分類基準になるわけだ。これを逆に考えればマスクをつけることで簡単に大分類の中に組み込まれるのである。
マスクを外すことはこの隠れ蓑を捨てることであり、その意味では身を晒すことなのであろう。だから、いきなり外してもいいと言われても困るのだ。外そうにも外せない。それがマスクは不自由と言いながらもつけ続ける人々の心理にあるのではないだろうか。