投稿者: Mitsuhiro

ふんばりどころ

 加齢という現実に直面している。一番困っているのは老眼だ。このブログは通勤電車の中で立ってスマホで入力することが多い。変換する際、細かい字が読めず、誤変換してしまうことが増えている。濁点と半濁点、句点と読点の区別は特に難しい。

 老眼というのは結局、筋力の衰えなのだという。毛様体筋が弱くなるからレンズの調節ができなくなるというのだ。この筋肉は40代頃から自覚的に衰退を感じ始め50代で多くの人はかなり弱まってしまうらしい。残念だが全ての人に共通する。

 ただ、少しでも退化の速度を遅らせるためには、その筋肉を鍛えるしかないという。いろいろあるが、要するに近くを見るのになるべく自分の目を使うことが大事らしい。老眼鏡を使わない時間を増やさなくてはならないということだ。

 そこで、私はこのブログは眼鏡なしで書き続けることとする。だから、いままで通りミスタッチが続出するだろう。こっそりあとから書き換えるのもこれまで通りだ。

プログラミングは大事だが

プログラミングを子どもに教えたいという親は多いらしい。間違いではないがそればかりであると必ず失敗する。プログラミング用のコンピューターに通じる言語を覚えることは今後さほど重要ではなくなるかもしれないのだ。

人工知能の発達でプログラミングの基本は自然言語でかなりできるようになっている、すると大切なのはまともな言葉遣いができるということになる。伝わる日本語が使えているのかが問われることになる。

さらに誰にでもできるプログラミングは専門家の力は要らないことになる。人間の思考の癖を知り、それを先回りしてプログラミングに取り入れることが大事だ。ならば学ぶべきは人間の思考のパターンである。それには文学や歴史の学習が役立つ。

 理系の時代などという人はいるが実は理でも文でもない人間に興味をもつことが何よりも大切だ。親御さんにはこのことを言いたい。もっと本を読ませ、もっと遊ばせ、もっと他人や社会と関わらせた方がいい。昭和世代が必死に覚えたことは機械がやってくれる。ただ人生の経験の厚みは補えない。子供時代にそれをやらせるべきだ。

パソコン前のメモ

 パソコンの前に置くメモ帳というものが売っている。高さがなく、横長という寸法だ。確かに狭い空間に置くのに相応しい。真似してみようと考えた。

仕事柄、いわゆる裏紙、つまり余ったり失敗したりしたコピー用紙には事欠かない。環境問題などを口にしながら、この用紙を捨てることも多い。ならば、裏面を利用して最大利用しようと思う。ただB4やA4のままではかさばるし、結局邪魔ということになる。そこで例のパソコン前サイズに切ってクリップで留めるといいことに気づいた。

 ペーパーレスと言われ、電子メモアプリも使うがやはり手書きほど便利ではない。しばらくは短冊のような紙の束のお世話になる。

古典教育不要論者の気づかないこと

 古典教育に対する批判には伝統的なパターンがある。そんなことをやるならばもっと実用的なことをやったほうがいいという考えだ。これをかなりの学識者がいうから騙されてしまう。

 古典不要論者は自らの意見が古典の知識でできていることに気づかないか敢えて無視している。古典を学ばずに過ごせば実用的な人間になれるだろうか。プログラミングを教えろという人は、おそらくそのスキルを習得するのに苦労したのだろう。そして成功し、もっと早くからやっていればよかったと考えたのだ。投資などの金融スキルを子どものときから教えろという人もいる。さぞかし儲かっているのだろう。

 気をつけなくてはならないのは、プログラミングもファイナンシャルスキルも年々習得しやすくなっており、何も小中学校で教えなくても十分にものになるということだ。こういうやり方が決まっているものはコンピューターに代替されていく。

 人工知能の発展は答えのある問いの処理には人間は敵わないことを痛感せしめている。大事なのは非定型かつ意味のある情報をどれだけ持つかであろう。古典文学や歴史から学ぶことは多義性を持つ曖昧なものが多いがそれ故に大切な思考の材料となるものだ。それを学ぶのを止めようというのは自ら進んで機械の配下に降ろうと言っていることと変わらない。いい加減にこのことに気づくべきだ。

日本は先進国

 日本はすでに先進国ではないという論調に出会うことがある。今後ますます増えていくだろう。一人あたりのGNPが多くの非先進国に抜かれているいま、経済の物差しではすでに先進国とはいえまい。

 ただ、この話で注意しなくてはならないのは、もはや〜ではないという考え方だ。これはかつてはそうだったがいまでは違うというニュアンスがある。日本は世界有数の先進国だったのにその立場を失い落ちぶれたという。

 この感覚は実は世代によって異なるのかもしれない。果して先進国の仲間入りなどしたことがあったのか。そう考える世代もいる。経済成長に成功したがそれ以外はどうだろう。そもそも先進国というのは欧米の一部の存在感のある国のことであり、極東の日本はそれとは異なる。いろいろな事情でサミットには呼んでもらえるが明らかに違うのではないか。

 先進国の定義は実は曖昧であり、相対的なものに過ぎない。この国を国際社会の中で価値あるものに保つことこそ大切だ。

エルニーニョ

 ある気象予報によると今年はエルニーニョ現象が顕著に現れるという。それに伴う天災が心配だ。直接関係するのか分からないが、カナダでかなり大規模な山火事が発生し、その影響は500km離れたニューヨークにも及んでいるという。東京に例えれば大阪より向こうの火事の煙が漂ってきているということだ。

 気候変動の直接要因が人為的なものなのかはいまだ分からないという。中にはグリーンビジネス推進のための陰謀という人もいる。ただ、少なくとも何かの要因であることは推測されるから、無視することはできない。資源のサステナビリティも考えればやるべきことはするべきなのだ。

 暑い夏になるのか気になるが、暑いならば何ができるのかも考えたい。太陽光利用の恩恵も利用すべきだと考える。

相対的

 誰かと比べることに慣れすぎている私は、勝手に基準を設けて自分の幸福度を決めてしまうことがある。こういう相対的価値観はおそらく人間の本性に属するもので私だけの問題ではないだろう。

 ただ、こうした窮屈な評価基準から抜け出す方法はないのだろうか。人を羨むのでも自分が奢るでもなく、必要なものを必要なだけ所有し、消費する。そういう生き方に魅力を感じている。

 できれば余裕がある方がいい。その余剰は周囲に分け与えるのが理想だ。いまはいつ破産するのか分からない恐怖を感じながら、毎日を徒労感とともに送っている。それも分不相応の何かをしようとしているからではないか。

 相対的幸福感から抜け出すための試みを少しずつ始めてみよう。これは禁欲ではない。やりたいと思うことはやるが、やらなくてもいいことは無理にやらないということなのだ。

旧暦

 五月闇という季語を思いついたので今日が旧暦で何日に当たるのかを調べてみた。4月24日という。皐月どころかまだ卯月だったのだ。

 暦法は基準にしているのものが違うので、ときにはかなりずれが生じることがある。それに加えて最近の気候変動と考えられる一連の異常気象で感覚は狂い続けている。こうなると古典的な季節感が現代にどのように当てはまるのかが分かりにくくなる。

 五月晴れ、五月闇などは誤解を生みやすい。このようなことはもっと増えていくのだろう。

身体にいいもの

 私の場合、食べる者には無頓着であり、いわゆるグルメではない。小腹が満たせればそれでいいと考えてしまう。おいしいものを食べるのに越したことはないが、そのために金銭を費やすほどの情熱がない。これはある人に言わせれば大変残念なことらしい。おそらく私がパッとしないはこういう考え方にあるのだろう。

Photo by Marta Branco on Pexels.com

 そんな私でも時々、健康上食べるべきものと食べるべきではないものというような記事を読むことがある。それらの中でたとえばナッツ類はよく話題にのぼる。コレストロールの抑制、皮膚の再生などに効果のある栄養素があるので食べるべきだという人もいれば、高カロリーなので肥満の原因になるという人もいる。多くの食材は健康に寄与すると同時に病因にもなる。禍福を包含したものであるというのが事実なのだ。

 食べるということは異質のものを体内に取り込むことであるから、本来何らかの問題が生じないわけがない。長い生命の進化の中で栄養摂取のために取り込むことに成功してきたものが食物となり、その中にはわずかな毒や害悪をもたらす成分が含まれていることもあるということなのだろう。それが食べるということであり、生きるということなのだ。

 そういう極めてスリリングなことを毎日続けているうちに、そのスリルにすっかり麻痺している。食べられればなんでもいいなどと考えだした私は、やはりとても残念な生き物になっているのかもしれない。

画像生成

 AIによる画像生成については以前も書いたことがある。最近知ったことだがマイクロソフトのEdgeというブラウザには画像生成の拡張機能が盛り込まれており、簡単に使える。試してみたところ期待していたものとは程遠いものの、プログラミングや何らかのサインインなしに気軽に画像が作れることには単純に驚く。

 このブラウザには例の文章作成対話型アプリもあって、ブログ記事をある話題で書いてくれと入力すると、例のナンバリングとラベリングで整然と段落分けされた記事が出来上がってくる。コンピューターが作る記事だからコンピューターに優しい文章が出来上がる訳で、検索されやすい文章ということになる。これに生成した画像を添付すれば、もう誰のブログか分からなくなる。恐らくすでにそういうものが溢れているはずだ。

 画像まで機械任せになったなら、私としては敢えて下手くそな文章と写真、あるいは手描きの絵で勝負するほかあるまい。いまは笑われても次第に希少価値が出るはずだ。