投稿者: Mitsuhiro

原発処理水問題

 韓国で福島第一原発の事故で発生した処理水の海洋放出について反対運動が起きている。塩の買い占めが起きるなど社会問題になっている。

 ただし、この問題で気をつけなくてはならないのは、有害物質と言われるトリチウムの推定排出量は現状でも世界各地で福島以上であり、そのなかには中国や韓国の原子力発電所での排出も含まれているという事実が報じられていることである。また大気中に拡散されたものが雨などの気象現象によって海洋に溶け込むことがあるとも言う。

 安全性を追及するならば、世界中の原子力発電事業に対して行わなければならないようだ。原子力はできれば避けたい選択だが、化石燃料のもたらす害悪の方が大きいとされている以上、捨てることはできない。今のところは主力になり得ない再生可能エネルギーの開発を期待するしかないのだろうか。

 韓国のような科学誤認はどこでも起こりうる。また、結果として福島の汚染水は処理水だと証明されたとしても、世界の原発の問題は解決できない。事故を起こさなくても原発は環境を変え続けている、しかし現状ではそれに頼らざるを得ないという事実を知らなくてはならないのだろう。

 

梅雨曇

 このところ梅雨らしい天候が続いている、傘をさすかどうするか判断に迷うほどの雨が続き、時々本降りになる。本来年間でもっとも高く登る太陽が雲に隠されて見えない。梅雨曇は紫陽花などのこの季節の花を際立たせるにはよい。ただ、周囲に体調を崩している人も多く、何事も適度にあってほしいと思う。

脳の仕組みを活かす

 よく目にするのが脳科学による学習の方法の見直しという論調である。この方面には全くの門外漢なので言われたことをそうかも知れないと信じるしかない。その意味で科学と言いながら私のレベルではオカルトと変わらない。

 最近気に入っているのが独り言による自己暗示である。ネガティブな発言が続くと心が不調になり、結果としていいパフォーマンスができない。これを防ぐためにわざとポジティブな発言をするルーティンを作れというのだ。何かで読んだが、「だけど」の白魔法はいいらしい。弱音を吐いてしまったとき、すぐに「だけど」をつけて内容を逆転する。例えば「とても疲れた」と言ってしまったら、すぐに「だけど、いい経験ができた」などと内容を好転させる言葉をつけるといいのだという。実際にはいいことがなくてもこれを言うことで脳が騙されて良い行動ができるようになるというのだ。

 苦しいときこそ笑顔でいたほうがいいとはよく聞く話だが、これを一歩すすめて言葉で自分を騙すというやり方だ。いいとことを聞いたと思う反面、私たちは何とも危うい地盤の上に立っているのだと再認識している。何事も気持ち次第というが、論理とともに感情が思考や行動をいかに影響を与えるものであるかを痛感する。

 ブログ記事もときにこの手法を取っていることがある。本当はそれほど大したことでもないのに大仰に書きたてるのは自分を励まそうとしているもがきであると寛大な目でご覧いただきたい。

ムクドリ

 ムクドリは留鳥でいつでも見ることができるが先日、公園で群棲しているのを見て改めて存在を確認した。嘴と足だけがオレンジ色でその他は地味な色をしているので分かりやすい。

 この鳥は数羽でいるときは愛らしいのだが、どういう訳か群れやすく、ときには数万の群れになるという。鳴き声はあまり良くないので、それが群れるとうるさくて仕方ない。むくつけし鳥の略称がムクドリになったという語源説もあながち否定はできない。都会の場合、駅近くの街路樹が集会場になることが多く、騒音に糞害で嫌われ者になっている。

 いまは繁殖期らしいが秋になると親子揃って仲間たちと行動を共にする。それはこの鳥たちの生き抜くために獲得したやり方なのだろう。近くの駅ではこの対策として猛禽類のような形の模型を電柱の上に取り付け、カラスの鳴き声を音声で流したり、明るめの照明を街路樹に当てるなどしている。あまり効果は出ていないようだ。

 ムクドリにしてみれば人間の方こそ群れて一日中騒がしい。他種の棲家を奪って我が物顔でいると考えているに違いない。

だいじょばない

 「だいじょばない」は大丈夫ではないの意味で使われている俗語だ。不調を表す言葉を敢えて文法破りで表現することで戯けた雰囲気を出す。大丈夫ではないと言い切るより多少気が楽だ。こうした感情の朧化表現はいくらでもある。

 この場合の「ない」は打消の助動詞であり、未然形に接続する。「走る」に「ない」をつけると「走らない」になるように、「だいじょうぶ」という名詞を動詞にしてそれを未然形に活用して、「だいじょうば」とし「ない」をつけたあとで「う」を脱落させて言いやすくしたのだろう。

 ならば「だいじょぶ」はバ行五段活用の動詞であり、連用形は「だいじょび」となるから、「だいじょびます」となり、仮定形を使って「だいじょべば」とか命令形の「だいじょべ」、意志の「う」を後置して「だいじょぼう」とかがこの後登場する可能性がある。

 そもそもNo problem の意味で「大丈夫」が使われ始めたときからこの語の変貌は始まっていたのかもしれない。

 因みに「だいじょべ」という命令形はどんな場面で使われるのだろう。そら恐ろしくも感じる。

夏至

 今日は夏至だ。昼の長さが年間で最長の日という。梅雨時なのでその実感は少ないし、本当に暑くなるのはこれからだ。夏至の印象は冬至に比べると薄い。

 夜が短いということは活動できる時間が長いと言うはずだが、あまりこれも実感がない。日照よりも時計の方を優先している都市生活者は特にそうだ。明るい早朝はやはり寝ている。

 サマータイムを導入したほうがいろいろなことが効率的だという意見もある。涼しい早朝に仕事や勉強を済ませてしまう方がいいからだ。ただ、社会全体がそれを行うのはやはり大変なようだ。一人サマータイムを始めるしかあるまい。早寝早起きをするというだけのことだ。

 そういえば最近はかなり早くから鳥が鳴き出しときに騒がしくもある。時計という不自然な計時器具に縛られているのは人間だけなのだ。

他人にとっての自分

 自分のことを理解してくれる人がいると信じていたのに裏切られるということはいくらでもある。歳を重ねるほどそれが当たり前となり、受け入れることもできるようになっていくが、かつてはそれは無理だった。

 自分が特別な存在であり、かけがえのないものであることは誰にとっても同様だ。いまではそんなふうに考えることはできる。あるいはそういう考え方をとることで心理的な難局を乗り越えられる。でも、かつてはどうだったろうか。自分だけが不当に扱われているとか、いつもの不運だとか考えていたことを覚えている。

 自分は他人にとっては他人であり、その他人から見た自分がどのように見えているのかは分からない。自身が考えている自画像と一致していないことも多い。それが乖離していると不幸だと感じやすくなるのかもしれない。

 やらなくてはならないことがいくつかある。まずは自画像の描き直しだ。というより、勝手に描いた輪郭線を引き直し過去にこだわらないことだろう。また、その絵がどう見られようと気にし過ぎないことだ。それぞれの作品には素晴らしい味わいがあり、疵もある。それは他人も同じだ。

 人間が集団で生きていく以上、他者との関わりは避けられない。自分の存在と他者との関係をどのように調和させるのか。若い人にはこのことを伝えていきたい。

典型的な日本人

 国民性を語る場面は多い。日本人らしいとか、日本人の特性とかいう。スポーツの大会などで観客席やロッカールームを掃除して帰ると日本人らしいといい、周りを気にしていつまでもマスクを外せないもの日本人らしいという。あっているようであり、間違っているようでもある。

 典型的な日本人などいるのだろうか。日本人の代表を一人選ぶとしたらそれは誰だろう。恐らく誰も選べない。日本人の中の日本人などと言える人はいない。これは日本だけではなくどこの国や地域でも同じことだ。

 それなのに日本人論は書店では売れ筋であり、それがいつも絶えることがない。日本人とはどういう民族なのかは日本人が常に気にしていることなのだろう。

 そもそも、日本人とは考えることの裏側には他の民族との比較の考え方がある。自分と異質のものを見つけてそれを基準にして比べようとする。ある国の人はこうだが、日本人はこうだという形の論調になる。内田樹氏の言葉でいうならば常にきょろきょろしているのだろう。

 これは短所でもあるが長所でもある。常に相対的に自分の位置を確かめようとすれば、だいそれた失敗はすることが避けられる可能性が高い。その代わり、自分たちの個性を肯定的に捉えられず、発展を阻害することもあるだろう。ひところよく言われたガラパゴス化なることばがネガティブに捉えられたために、世界標準ではないものの多くの独自進化が止められてしまった。そのまま開発を続けていればもしかしたら、世界標準になったかもしれないものもあったはずだ。

 典型的な日本人がいないのと同じように、典型的な男も女もいない。典型的な人間もいない。合成して作られる平均顔のような本当はいない存在を実在すると信じ込みやすい現状に危惧を覚える。まとめていいものとそうでないものがある。

ねむの木

 合歓木が咲いていた。ドライブの途中で信号で停止したとき、そこから見える住宅の庭木として確かに合歓木があった。

 ただ、その名前がどうしても思い出せなかった。初めに思いついたのがマンサクだった。しかしこれは春に咲く花で、今の季節には合わない。夏先のトキワマンサクなるものを検索したが全く違う。

 検索という方法は便利だが思考を邪魔することもある。春、ピンク、筋のような花びら、庭木などいろいろなキーワードを試してみた。志賀直哉の短編小説に出てきたのを覚えていたので、それを検索しようと思ったが却ってわからなくなってしまった。

 検索するのをやめてしばらく考えたらふと思い出した。ねむの木だ。合歓木と書く植物だった。思い出したらもうそれ以外には考えられなくなった。実物を見たのは久しぶりだったので忘れていた。夜は花が閉じるのでねむの木というらしい。でも、よく考えてみれば夜の木の姿を見たことがない。今度見てみたいと思った。ただ困ったことにどこで見たのかを思い出せない。

古典作品を読むことは現代を考えること

 古典を読んでいるといろいろ気づくことがある。セネカの「人生の短さについて」と列禦寇の「列子」を読む機会があった。どちらも社会情勢の混乱期にいかに生きるべきかについて語ったものである。学生のころ読まされたはずだが、ほとんど忘れていた。読み直してみるとこういうことだったのかと思い当たることが多い。

 古典、しかも1000年以上前の作品を読むときには、そこに述べられていることに臨場感はない。あくまでそのエッセンスを読み取ろうとする。一種の寓話として読んでいるともいえる。でも、私たちの想像力により、どんなに古い内容であっても現在の生活に生かすことは可能である。

 例えば「朝三暮四」のエピソードのように、語られることは単純であり誇張されている。荒い設定が逆になんにでも当てはまる懐の深さを生み出すのである。そして述べられている主張が今日にも当てはまることもあり、そうでないときもある。その対照によって結局は現代を考えていることになる。古典を読むことは現実社会を考えることに他ならない。

 過去のことを知ってどうするのだ、日進月歩の時代に振り返りはいらないなどという前に、まずは自分の立ち位置を考えるべきだ。もしそれができれば画期的な新しいことも生まれるはずだ。なにも新しいことを追いかけるだけが前に進む方法ではない。