昨日の日中は春の陽気を感じさせたが今朝はまた冬に逆戻りした。月曜には雪の可能性もあるという。体感温度は相対的なものだから、気温差の方が身体にこたえる。風邪もはやっているようで注意しなくてはならない。
投稿者: Mitsuhiro
半導体不足
交通系ICカードのPASMOがカードの発行を抑制している。半導体不足が原因だという。
半導体はかつて国産のシェアが高かったが、海外の安価な労働力による価格競争に敗れたため、多くの企業が撤退してしまった。その後の設備や研究開発の投資も遅れたため、技術的優位性も保証できなくなっている。
こういうときに自給率という問題が出てくるように考えられる。その他の産業でもこの問題は考えた方がいい。自由競争に委ねるというのが日本の行政の立場だが、こういう横綱相撲を続けている限り負け続けるのは必定だ。国のレベルでのリーディングを期待したい。
いざというときにどれだけ準備ができるのか。それが本当の国の力と言うものだろう。
一月尽
すずめ続報
少し前のことを考えてみると
少し前の世代のことを考えてみるといまの異常さに気づくのだ。何でも検索でき、世界に向けて発言しようと思えばできる。こんな事態は誰も予想しなかった。
私の学生時代は壁のような蔵書の中から一語を見つけるのに数ヶ月を要し、自らの意見を公にするのに数多の関門があった。それが当たり前の時代に生きていた世代にとっては現代はなんとも野放図である。
生き方にしても多様な価値観で生きられたはずなのに、今や細かな部分まで序列化され、あたかも共通の物差しがあるかのようである。コンピューターのスペックのように人生を計り、順位付けられることに疑問を感じない。これは明らかにおかしなことである。
間違えてはいけないのはいまもまた変化の途中ということだろう。現代の基準もいつかは変わる。いま正しいと言われているのものが未来まで通用するという保証はない。時々の流れに叶ったものが評価されているのに過ぎない。
少し前のことを考えることは少しあとのことを考えることでもある。些細な差を気にしすぎてはならない。
健康への配慮は功利的
スマートフォンについているヘルスケアアプリの測定によると私は毎日10,000歩程度歩いていることになる。立っている時間も比較的多い。といってもきちんとしたスポーツをしているわけではないし、筋肉を使う仕事をしているわけでもない。腑抜けた身体でも少しずつ歩く生活をしているのである。健康に気を付けることも中途半端であり、スリムになりたいと思うよりも膝に負担をかけたくないとか、周りに迷惑をかけたくないといった程度だ。

ただ、最近更新した保険が健康への配慮の度合いを常時報告し、それを割引率として算定するものであるため、この考え方を変えなくてはならなくなっている。毎日の歩数や健康診断の結果などがそのまま割引ポイントに換算されるため、健康活動が金銭に結びつくことになったのである。健康診断の結果は悲惨なものだが、歩く量に関しては今のままの生活を続けていれば問題はない。問題は仕事をやめたり、変わったりしたときにこの生活が維持できるのかということである。
なるべく歩くことを心がけていこう。歩くだけが目的ではなく、その道中で出会う風景とか人との出会いとかを大切にすれば自然に歩く量は増えるのだろう。もともと10年以上前にこのブログの前進を作ったときには散歩の記録を残すために作ったものだった。そのことを思い出してこのブログにもそういう記事を時々入れていくことにする。
動じなくなった
歳を取ると些細なことには動揺しなくなる。正確には一々反応できなくなる。そして、何を言われてもすぐに流してしまう。これは利点であり欠点でもある。
いろいろな失敗を繰り返しているうちに、失敗データベースのようなものができる。過去の経験に照らし合わせ、そのどれかの亜種のように扱う。個々の出来事に向き合っていないのは不誠実だが、そうして過剰な反応をすることを避けている。
私の目指すことろは別にあると思えば日常の些事にはこだわらなくなる。最低限の勤めを果たせばそれでよい。面従腹背も一度やってしまえば心地よい。
若い人には私のようにならないようにと言っておきたい。人様に迷惑をかけることは絶対にしないが、やりたいことを妥協しないためにかなり狡猾に立ち回っているのだから。
私自身は年配の部類になっても遠慮するつもりはない。したたかにやりたいことをやるだけだ。歳を重ねてもこういう変人がいることにはご注意いただきたい。
寄り添うこと
寄り添うという表現は現代の人々には印象強く感じるらしく、随所に見られる。他者の考えや感情、立場を洞察してそこに身を置くことである。ただ、当然ながらその意味には幅がある。
弱者に寄り添うというときには、強い哀感と同情する気持ちが伴うはずだ。しかし、これには階層性がある。自らと相手との距離が遠く、客観的観念的に寄り添うことができる場合もあれば、自分も似た境遇にあつて、痛切な情念を伴う場合もある。この一線上に正負のグラデーションがあるのだ。寄り添う気持ちの切実さは濃淡がある。
最近使われる寄り添いの意味は淡色のものが多いように感じる。もちろん、こういう概念を使う時点で他者を意識した感情が表出しているのであり、有意義であると私は感じる。ただ、単に相手の状態を観察するだけの段階を寄り添うと言うのは少し違う気がしてしまう。
日本でも少しずつ格差拡大が進み、分断化が水面下で進んでいる。他者に寄り添える能力はこれを止める力となるはずだ。この問題を取り上げる機会を増やす必要がある。
日本海寒帯気団収束帯の発生
昨日から関ケ原付近で起きている名神高速道路の大雪による立ち往生は記録的な豪雪のため長期化しそうである。予測をはるかに超える積雪量になったため、予測的通行止めの措置が取れなかったのが痛恨事となった。
このような豪雪による長時間の立ち往生の例としては2021年1月10日に福井県内の北陸自動車道で起きた事例を思い出す。そのときも1000台近い車両が雪に閉ざされ動けなくなった。今回は岐阜県内で発生しており、陸上自衛隊に支援要請が出されている。
気象の専門家によれば日本海寒気団収束帯(JPCZ)がこうした豪雪の背景にあるのだという。これは朝鮮半島の北部にある山岳地帯で二分された季節風が日本海上で合流したときに雪雲を継続的に発生し、さらに寒気が南下している場合は豪雪をもたらすのだという。雪の供給源としては日本海から蒸発した水蒸気であるというが、これが温暖化の影響もあってここ数年は増加しているらしい。福井や岐阜はこのJPCZの下流部にあたり、豪雪のまともな影響を受けたということになる。
こうした気象条件は今後も発生する可能性がある。豪雪が温暖化の影響であるというのは何とも皮肉である。北陸に住んでいたころ、地元の人から猛暑の翌年は豪雪になりやすいという言い伝えがあると聞いたが科学的な根拠があったのである。
能登地方は震災からの復興が課題であるが、その前にこの豪雪をどうするのかが問題になる。まずは予報の精度を上げ、計画運休や通行止めなどの手段を取れるようなシステムを構築することや、この時期の流通の方法や備蓄の在り方、除雪方法の開発などを考えなくてはなるまい。高齢化社会の中で災害時の対応にも工夫がいる。防災テクノロジーの開発も急務であろう。
被災地で起きたことをどう報じるか
能登の穴水で起きた被災者による自販機の破壊に関してさまざまな報道がなされた。混乱の中での報道ではあるが、看過できない問題点がある。災害時のメディアの報道の在り方について考えさせるものであった。
避難場所になっていた穴水高校に設置されていた自販機が被災者によって破壊された。被災者たちは破壊行為をみて悲鳴を上げたがどうしようもできなかったと読売新聞が報じると、地元紙である北國新聞は緊急時のために取り出し、取り出した商品は避難者には配布されていたと報じた。
読売新聞の初期報道は裏が取れていないまま報道してしまったことになる。それだけではなく、被災地において無道な窃盗事件が起きていたと報じることは日本人の矜持を傷つける大問題である。この点の配慮もなく、報じてしまったのは痛恨のミスだ。読売は記事の訂正を行わず自販機の設置会社が被害届を出したことを中心に報じた。初期の報道に間違いはなく、現に被害届が出されたと弁明しているかのようである。ところが、まだ続報がある。先日の報道によると設置会社は破壊を申告してきた人に対し、請求を行わないことを発表したという。被災者の心情を考え、賠償請求は行わないというのである。ただし被害届は器物の保障のために必要なので取り下げないということだ。
被災地の「火事場泥棒」の報道はほかにもいろいろある。中には自衛隊の服装を偽装して倒壊した建物から金銭を盗み出しているなどといった報道があった。これらも本当に裏が取れているのだろうか。
限界状況で人々がどのように行動するのかは誰にも分からないし、とても関心がある内容だ。そこに報道が焦点を絞るのは分かるが、事実無根の情報を流せば人心を乱す原因にもなるだろう。報道の責任を感じてほしいことである。