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当然、打消

 古典を学習していると気づくことがある。完了の助動詞の「つ」「ぬ」「たり」と過去の助動詞「き」「けり」が連続するとき、必ず完了、過去の順に繫がり逆の例はほぼない。「てき」「にき」「てけり」「にけり」はあるが「けらぬ」は見たことがない。助動詞には繋がる順番が決まっているようだ。

 では当然の助動詞「べし」と打消の「ず」の場合はどうか。多くの場合は「べからず」となる。当然、打消の順だ。逆はどうか。「ざるべし」の形はなくはない。どちらかといえば不可能や不適当を表現する場合に使うような気がする。当然の打消の場合は「べからず」のほうが優位ではないだろうか。

 なぜこのようなことにこだわるかといえば、最近「へきではない」ということろを「ないべきだ」という表現をよく目にする耳にするからだ。「ないべきだ」は間違いではないのになぜか気になる。不適当の意味の「ない方がいい」の意味で使うならばいいが、不許可、禁止の意味で使うとどこかに違和感を覚える。

 日本語の仕組みとして打消は最後にあって、その前のほとんどをひっくり返す。文の途中にあると部分否定のような趣になり、打消の意味が弱まることに原因があるのかもしれない。

 こういうことを使用者が納得して使っているのかいなかはコミュニケーションの成否にとっては重大事項だろう。それを考えさせるのは国語教師の大切な役目だと考える。

鏡として

 コンピューターを使い始めた頃気づいたことがあった。私たちがものを考えるときにどのような手順で考えているのか、何を取り上げ、何を後回しにしているのか。それをコンピューターのプログラムはなぞっているのではないかと。

 プログラミングがほとんどできない私の印象に過ぎないが、機械にでものを行うことはまずは人間の思考法をもとにしており、そのために逆に人間のものの考え方を明らかにすることがあるということだ。私たちが無意識のうちに行っていることや考えていることは、実はある手順を踏んでいる、それはこういうことだったという気づきである。

 ならば、コンピューターを操作することは人間の言動を考える鏡として使えるかもしれない。私は国語の授業の中で、それこそ人間の普遍的な思考方法は法則化することも可能であるということを体感している。そういう言説は昔からたくさんある。文章の構成をパターンとして捉えることを教えることができれば、読解が苦手な生徒の助けになる。

 大切なのはそういう機械的な段階を超えたより深い内容であり、それらを比較分析する深層に触れる思考だ、それに辿り着く前に基本的な読解ができないのであれば大きな損失ということになる。その意味で思考の基本をある程度法則的に教えるのは意味がある。それに気づいたのはコンピューターの操作を通してだったのだ。

 パソコンばかりさわって本を読まなくなったのは事実であるが、機械から学ぶこともある。全ては繋がっている。

切り取り

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 動画サイトなどで再編集して必要なところだけをつなぐことを切り取りというらしい。日常的な言葉なので新鮮味はないが、あきらかに新しい用法だ。かつてならそうは言わなかった。

 葉梨法相の発言が問題になっている。法務大臣の仕事は死刑許可のハンコをおすだけだと言ったと報じられた。これに本人は反論して自らの発言のテープ起こしを披露し、「法相になり3カ月になりますが、だいたい法相というのは、朝、死刑のはんこを押しまして、それで昼のニュースのトップになるというのはそういう時だけ、という地味な役職なんですが、」と述べ、後段で外務省の仕事と比較しながら(武井俊輔副外相のパーティーでの発言だった)法務省の仕事も国家を支える仕事でありながら、集票には結び付きにくい役職という共通点があるので、支援していただきたいと述べているという。

 この釈明を聞くと、死刑の認可という業務の重さに対しての認識がないことを再確認してしまうのである。犯罪者といっても人権を有するものであり、場合によっては冤罪の可能性もある。その最終チェックを司法を通過して行政に任されているというのは、それほど国家が人に死を与えるのには重大な意味があるということなのだろう。話の枕として置くこと自体が不適当であり、特に言葉によって人の行動を規制する法務の代表にはふさわしくない発言だったと言える。

 政治的な問題は私には分からない部分があるので、想像で述べるのはここまでにしよう。切り取りの話題に戻れば、これだけほとんどの言動が動画や音声で記録される時代において、立場ある人が公的な場で発言する場合は、どこを切り出されても問題がないように配慮した発言が求められる。これには論法の工夫がいるのかもしれない。本当に言いたいことと、言いたいことをいうための材料が明らかに区別できるような言い方をしなければ、発言者の真意は届かない。また悪意ある者に利用される可能性がある。

カワイイ効果

Cute

 現代日本の価値観に可愛さというものがある。これは世界に通用する一種の美意識とも言えるかもしれない。

 無骨な機械を作ってきた職人たちもなぜか完成した機械に名前をつける。それも可愛らしい人の名前だ。名付けすることで高性能なマシンが親しみやすいものになる。こんなことを繰り返してきた。

 デザインにも可愛らしさを強調する。暖かい原色の多い配色や、大きな目をつけるといったことはいろいろな製品に見られるものだ。これは趣味という領域を超えた文化のようなものかもしれない。皆さんの身近にもカワイイ品物はきっとあるはずだ。

 可愛さは幼児性を伴うのでやめたほうがいいという考えもある。しかし、可愛いデザインが狙っているのは実は別にあるのは明らかだ。これは使いやすさを高めるための機能的目的で施されている。高性能なマシンでも使いにくければ意味がない。まずは心理的な親和性が大事なのである。この戦略は利用しない道はあるまい。

 可愛らしさの基準は人によって異なる。だから、誰もがアニメのキャラのようにする必要はない。どこかに取っつきやすい柔らかなデザインを施すのが、日本のものづくりの重要な方策ではないか。

技巧か真心か

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 一概には言えないが何かを表現するときに技巧は大切だが、それに走りすぎると難解になる。分かりにくいのが悪いわけではないが、得てして技におぼれて本質を失うことがあるように思えてならない。あるときそれに気づいて基本に戻る。この繰り返しが起きているように思える。

 和歌の世界でも最初は神に何かを祈願するものであり、単純で類型的なものだったはずだ。その蓄積の中でさまざまな技巧ができた。おそらく最初のうちは修辞とは思わず、習慣的に繰り返してきたはずだ。あるときその方法が表現するためになんらかの効果をもっていると気づく人が出る。すると今度はその技法を意識して使い始める。洗練されて実に効果的な方法と考えられるようになる。

 その技法が広く使われるようになると、鮮度を失ったかのように考えられて陳腐化する。またあれかと考えられるようになるともう刺激はなくなる。さらなる技巧を追求してより複雑な表現技巧が生まれていく。そしてそこに新たな命名がなされ、新しい何かが生まれたかのように考えられている。

 高度な技法はその種明かしをしてもらわないと理解できないものになっていく。この表現には古歌のあの雰囲気が裏に隠されているのだ、などという知識なしにはもう分らない。知っている人には意味の複合の効果まであり、表現世界が拡張したかのように感じられるかもしれない。しかし、予備知識なしでは味わえない作品は、すでに表現世界の範囲を超えてきている。

 高度で難解な作品ばかりが類型的に作られるようになると、基本に帰りたくなる。素直でわかりやすい表現世界だ。やっぱりこれがいいということになる局面が来る。分かりやすい。でもこれが続くと飽き足らなくなり、再びまた技法の誘惑にはまっていく。こうした繰り返しは詩歌だけではなく、さまざまな表現世界で起きている。

 私は何がいいのかは分かっていない。ただ、何かを伝えるとき素直に思いを伝えればいいのか、それともそれを技法に乗せて効果的に伝えるべきなのか、こうした迷いは歴史の中で繰り返されているという事実だけは押さえておきたい。これは時代の風潮でもあるが、一人の表現者のなかでの成長の段階でも起きている。

異郷を描くこと

 私にはそんな経験はないが遠い異郷のことを絵画なり文学作品なりにすることは意外に難しいかもしれないと思う。描く手がかりとなる表現が見つからないかもしれないからである。

 もちろん、それまでに獲得した語彙や表現方法で、他郷を描くとこはできるはずだ。でもそれは結局は経験をそのまま表現していないのではないだろうか。比喩比況の手法で近似値を語っているに過ぎない。

 都から地方官となった貴族の文学をみると大抵は都の文學そのままである。地名が詠み込まれることでようやく地方性を保っている感がある。生活圏を離れて創作することは意外にも難しい。

デマを読む

 東日本大震災の余震と見られる先日の大きな地震は多数の負傷者を出したものの死者は出なかったようだ。原発などにも事故の報告はない。ただ、今回も問題になったのはネット上に溢れた様々なデマや不適切なメッセージだ。

 ツイッターでは地震の後に人工地震というキーワードがトレンドとなった。人工地震とか地震兵器といった言葉は2011年にも散見されたが、それが非科学的であることは周知されてきたはずだ。今回はジョークとしてこの言葉が扱われている。緊急時の発言としては極めて不適切だ。どうもソーシャルメディアはこの手のメッセージに市民権を与えてしまった。

 送り手の特定はかつてより容易になったといわれる。匿名性はあるレベルを越えると維持されない。ただ、表現する自由に踏み込みすぎるとソーシャルメディア自体の価値が損なわれる。社会としても損失だ。

 結局、私たちがデマを読む力を持たなければ仕方がない。何を信じるべきなのかを日頃から意識しておく必要を感じる。地震のような異常事態でもぶれることがない判断力をいかに身につけるのか。それが大きな課題だ。

朝の日課

 このブログは大抵日本時間の午前7時台に書いている。実は職場に向かう電車の中でつり革につかまりながらスマートフォンで入力しているのだ。

 私がこれに使える時間はせいぜい5分程度であり、職場では私用でブログは書かない方針なので極めて限られた時間であることになる。言い訳すればそのために記事の長さは限られ、時々(いやしばしば)尻切れトンボになっている。それは降車駅に着いてしまったことによるものなのだ。

 短い時間で駄文を書くことにも何らかの効果はあると考えている。世の中に対する関心を持ち続けることや、発信力の維持という目的はある程度達成されている。

 少ないけれども暖かく記事を読んでくださっている読者の存在も文を書く動機づけになっている。WordPressは外国からのアクセスも多いので、わかりやすい日本語で書くことも目標の一つだ。翻訳ソフトにかけても誤訳されにくい文にしたいと考えている。

 この日課は自身の脳と精神の安定にも寄与している。自分勝手な文だが、時々のぞきにきていただくとありがたい。

朗読劇

 密を避けることが義務づけられつつある社会情勢の中で、演劇は公演が制限されている。小劇場での感染も報告されており、厳しい状況が続いているのだ。その中で妥協点として考えられるのが朗読劇ではないか。

 向かいあわず接近しない。演劇の大半の要素を切り捨てた朗読劇は、それ自体で味わいがあるものだ。ただし、物足りなさが伴うのも事実である。いま、制約が設けられた状況にあってその欠乏感までもが効果的な表現方法になる可能性が出てきた。

 ソーシャルディスタンスなどという言い方もあるが、要するに触れあえない悲しみ、もどかしさを伴う状況にあるわけである。それが果たせないやるせなさを朗読劇の方法で表現できるかもしれない。

 久しぶりに脚本を書いてみようかという思いになっている。創作にはある意味こうした現状打破のエネルギーが必要なのかもしれない。

詳細にこだわらず関係性を説く

 自分の思っていることを相手に伝えようとするとき、そのほとんどが伝わらないという経験をしばしばしています。それは私の話し方に問題があるのでしょう。それではどうすればいいのか。自分なりに修正を試みます。

 自分では論理を立てて説明しているつもりでも、初めてそれを聞く人にとっては非常に分かりにくいことがあります。自分にとっては一度通った道でも、始めてきた人にとってはどこに連れていかれるのかわからない探検のような雰囲気になります。分かりやすくするためには適度な道案内と、ゴールが見えているようにする可視性が必要なのでしょう。そのためには結論先出、説明後付けの方法がいいのでしょう。

 板書をするときなどは論理の筋道を文字化、図式化することを心がけます。細かい情報に拘ると全体像が見えなくなりますので、全体を見通せるようにします。最初にその地に立った人は、自分の立地点のことばかりを考えてしまいますが、あとになって考えるとその位置はあまり重要でなかったということもあります。大切なのはその地点ではなく、他の事象との相対関係であることが多いものです。まずはそのことを説明するべきです。

 個々の物事を説明するのではなく、互いの関係性をできる限り俯瞰して見せること。それがうまい説明につながるのでしょう。