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毛筆体験

 冬休みの宿題に書初めの提出という課題が出される小学校もあると聞く。ご家庭としてはいい迷惑だろう。新年早々に子供が墨で家や服を汚す。明らかに下手な字を書く子供にがっかりする。あまりにもいい加減な方法で書いてそのまま出そうとするのにも、まじめな親ならば何か言いたくなるはずだ。習字なんて時代遅れのものをなぜやる必要があるんだ。そう思う人も多いはずだ。宿題として容認できるか否かは考えないことにして、私はそれでも毛筆体験は必要だと思う。

 筆で字を書くためにはいろいろな準備がいる。普段使っている筆記用具とは異なり、持ち方も扱いも特殊だ。だからいつもとは違う脳の使い方をする。これだけでも意味がある。普段しないことをすることは大事だと脳学者の大半は異口同音に述べている。

 さらに書こうと思っても思い通りにかけない。よく分からないが墨の濃度や筆先や半紙の材質などにより、結果は異なる。変数があまりにも多いので書いてみないと分からないという偶然性が高い。それも大切な要素だ。規格製品を使うことに慣れている私たちには、世界で一つだけという実感を覚えることが減っている。お手本をまねして書いても、自分の作品はそこにしかない。そしてそれが貴重だ。字がうまいとか下手とか言う前に、自分が書いた唯一無二の文字があるということに意味がある。

 どれか一枚を選ぶというとき、その基準は何か。自分で一番うまくいったと思う作品をどのように選ぶのかも興味深い。文字とはどのようなものなのかはその人なりの理想に従っている。だから何を選ぶかは自分を考えることに近い。

 いろいろな意味で毛筆体験は大切だと思う。子供の宿題ではなく、すべての人がやるべきだ。どんな字でもいい。自分にとっての理想が文字化されて、しかも理想の字形になったとすれば、本当の意味がある。

 かくいう私は筆ペンでくらいしか書く機会はない。本当は心を落ち着け墨をすり、そのほのかな香りを感じたい。今は無理だが、いずれそういう生活ができる環境を設けたいとも考える。筆ペンでもいまは毛筆に近いものもある。とりあえずはそこからだ。

循環型社会

 いわゆる鎖国状態であった江戸時代は資源が限られていたために循環型の社会になっていたという。あらゆるものが再利用され、それが何度も繰り返されていたらしい。大量生産大量廃棄を前提とする現代の価値観とは対極にあるものだったことになる。再考する価値がある。

 SDGsは現代の循環社会志向の考えだが、江戸時代の循環型社会とは根本的な違いがある。そもそもSDGsは持続可能な「開発目標」であり、開発という視点を強調する。持続することを目標に停滞するのではなく、あくまで開発が目標だ。そのためには環境保護をうたいながらもより豊か便利な社会を求める目標が設定されている。海をきれいにするために、プラスチックを使うのはやめようとは言わない。ごみを分別しよう、エコバッグを使おうというが、よく考えれば実効性はさほどない。EV(電気自動車)に変えようというが、発電エネルギーには化石燃料を使う。環境を守るためにいっそのこと流通システムを止めようとは言わない。

 江戸時代の循環型社会が成り立っていたことにはいくつかの条件がある。まず資源自体が限られていたという現実である。国土にあるもので何とかしなくてはならない。列島国家の性質上、他国から資源を輸入したり、暴力的に強奪したりする可能性が少ない。とにかくやるしかないという状況があったのだ。他国に侵略する悪知恵と技術は近代国家になって欧米から学んだものだった。

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 島国、さらに山岳や河川によって分断されやすい地勢や災害の多さも循環社会を成立させてきた。国土の大半が森林であり、台風や雪害の危険性があり、加えて地震も多い状況にあっては、生活を維持するための最低限の工夫が常に意識されてきたのだと言える。

 固定的な社会、つまり封建社会のシステムも持続型社会を支えていたという事実を忘れてはならない。社会的な変動が極めて少ない社会では持続型な社会システムは維持しやすい。人々の自由が社会的に制限され、その前提で生きているからこそ、循環社会が当然のように受け入れられてきたのだ。これはあまり強調されないが大切な事実である。逆に言うと江戸時代風の循環型社会を目指せば経済的な成長は期待できない。成長しないことで現状維持を果たしていたということも言えるかもしれない。だから、江戸時代に学べ、江戸に戻れという短絡は危険だ。近代的自我を確立してしまった私たちにはあまりにも窮屈で、それだけで窒息してしまいそうな社会であったことを忘れてはなるまい。

 これからの持続的社会はどのようにあるべきだろうか。SDGsの理想はそれはそれでいい。どう実現するかだ。またこの目標の裏側にある利権獲得の動きを暴き、流されないことが大切だと思う。循環を支えるシステムへの支援を考えなくてはならない。リユースにかかるコストは実は安くない。中古品は安価だという思い込みがあるが、そうでもないらしい。再利用品を積極的に使うということが消費者の立場でできることだろう。

 これには価値観の転換が必要だ。古いものを積極的に利用し、修理、修繕、改良の技術を個人のレベルで高めることが必要になってくる。壊れたものを直せる可能性が高まれば捨てられる可能性は減る。また企業も完成品を売ることばかりではなく、部品、修理用のパーツなども売る方法を展開するとよい。初めはコストがかかるかもしれないが、結果的には会社としての持続可能性を高めるだろう。

 いわゆる商品のサブスクリプション、リースなども発展させていくべきだろう。安物を個人で買いそろえてすぐに捨てる時代から、ある程度の品質と耐久性をもった商品を共有する方法への転換は持続可能社会の流通モデルとなりそうだ。

 このほかにもいろいろな方法がある。それをまずは自分で実践することで実験してみよう。などと考えている。

予祝として

 新年にあたって大ぶろしきを広げておこう。いろいろな人が言っている。言葉にすればそれが事実を引き寄せると。本当はどうなのか分からない。日本の民俗のなかには予祝儀礼というのがある。雪深い地方でまだ地面が真っ白い中で田植え祭りをし、収穫のまねごとをし、豊作になったと演技する。それによって稔の神が感化され、本当にその秋の収穫が約束されるというのだ。科学的にも呪術的にもどうも大ぶろしきは大切らしい。

 いつも書いているが新しいことを始めたいと思っている。関心があることは教員の支援システムを作るための準備だ。教員不足の地域が増えてきたり、人材不足のための教員のスキルの低下がされてきている。若い世代の教員が自分の仕事に専念し、より高いスキルを獲得できるような仕組みを考えていかなくてはならない。それを学習していく初めの年にする。

 コンピューターを使う年にしたい。何をいまさらといわれそうだが、はっきり言ってこれまでは使うのではなく使われてきた。よく訳も分からないうちに便利だというものに触れ、実はそれほど必要でもない情報に振りまわされてニュースや動画サイト、さらにはソーシャルメディアに接してきた。これからは自分にとって必要なものは何かを考え、受信だけではなく発信の手段にしていこうと考えている。このブログの位置づけは、今まで通り雑記的に思い付きを書いていくものだが、このほかにもいろいろな作品を作成し公開していく。

 皆さんの考えかたにも触れていきたい。WordPressでリンクしていただいている方のブログは常に読ませていただいている。自分にはない考え方をしているブログやサイトは特に注目していく。今の関心は日本の文化がどのように捉えられ、世界的に理解されるようにしていけばよいかというころだ。自分でモノを作っている方、音楽や絵画の芸術活動をしている方、地域の美しさや問題点を写真や文章で紹介している方の発言には特に注目している。

 仕事の効率化も課題だ。退勤制限時間より1時間以上前に帰ることを目標にしたい。この目標自体が情けないがまずはここからだ。その一時間で別のことを学ぶ。あるいは論文なりブログなりを書く。

 ほかにもいろいろな風呂敷を広げたいが公開するのはここまでにする。後は手帳の裏に書いていこう。そして実現したら得意げにここに書き連ねることにする。皆さんは私が大噓つきではないかを見守っていただきたい。

優しくない時代に

 貧すれば鈍するという言葉がある。景気の良かったころにも様々な問題はあった。欲望に流されて自らを失うという話はどこにでもあった。しかし、もっと深刻なのは貧困による理性の喪失である。ここでいう貧困とはもちろん経済的な問題も大きいが、さらなる問題は精神的な貧困である。

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 私自身もそうなのだが、心の安定を失ったとき冷静な判断ができず、場合によっては周囲を恨んだり、必要以上に悲観的になったりする。不安定になる要因に経済的な不安がある。これはかなり大きな比重を占める。このままの生活はできるのだろうかとう漠然とした不安である。それがまたさまざまな心の貧しさを導く。余裕のなさという方が正しい。余裕を失うと焦りとともに様々な負の感情が飛び出してくる。

 こうした状況が今の日本には潜在的にある。大半の識者は今後日本の国勢は衰退していくという。先進国ではなくなるという言い方ももう何度も接してきた。一人当たりの所得はすでに近隣の中興国のレベル以下になっているというのだ。数値的にはもうこれは否定できない。プライドという面においてこれは大きな影響力を及ぼすだろう。しかし、これは個人の成長にも言えることだが、大切なのは他人と比較することではなく、自分がいかに満足し、幸福を得られるかということだ。それが危うくなっているということに一番の問題がある。

 日本人の理想的な人物像に優しさという基準がある。これは他人に対して寛容で、かつ利他的に行動できるということを意味するはずだ。決して、他人に甘いという意味ではない。この優しさを維持することが当面の課題になると思われる。つまり、自らの生活や周囲の生活が次第に縮小傾向にある中でも他人に優しくできるのかということである。これがこれからの日本人の目標になっていくように思える。もちろん手をこまねいて衰退に進むのではなく、あらゆる努力をするべきだ。人口減やエネルギー問題などを克服するための技術や社会制度を構築し、小さいながらも堅実な生活ができる国家を目指すべきだろう。ただそれにしても今のような拡大再生産を前提とした考え方が成り立たなくなるのは事実であり、意識改革が求められることは間違いない。

 利他的に生きるというのは自己犠牲という意味だけではない。自らも他者と同一の水準でものを考え、その中での最適解を探す努力をするということなのだろう。どんなことがあってもその理想を貫ける人こそ、優しい人ということになる。今、世情をにぎわしている他者を愚者扱いして自分だけが世の中を分かっているかのようにふるまう人は優しくはない。

 2023年はこうした新しい優しさの概念を実現するために何が必要なのかを考える一年にしていきたい。私にはできることは少ないが、せめて本当の優しさを持っている人たちの紹介をさせていただくことはできるかもしれない。

みんな幸せには間違いなのか

 日本の現況を批判するときに、悪しき平等主義という考え方がある。それは間違いなのだろうか。

 もともと封建社会の長く続いた日本では近代以降、家柄による身分格差というものを忌避してきた。実際には様々な階級制度を内包しながらも建前としての平等があたかも存在するかのように考えられてきた。

 機会の平等という大義名分はあっても、高学歴を得るにはそれなりの経済力が必要であり、誰でも能力さえあれば上昇できるというのは幻想に過ぎない。それでも日本人はこの幻想にかけてきた。あるいは騙されてきたという方が正しいのかもしれない。

 誰でも努力すれば望みを達成することができるというのは残念ながら非現実的だ。現実はそんなに甘くはない。多くの人は努力しても報われることはない。日本はその確率が比較的高いかもしれないが、あくまで数値上の問題だ。

 我が国の基底に流れる考えとして自分だけが得することに対する嫌悪感がある。努力の成果は報酬として欲しいが、それが他人を傷つけるものならばよしとはしない。あくまで公共の福祉が保たれてこその自分の利益だという根強い考えがある。

 こうした心性は日本人の財産だと思う。上昇志向の足りなさとと非難する人もいるが、これは島国の国民が培ってきた大切な心のあり方ではないだろうか。

 日本経済が振るわないのは才能あるものに正当な報酬を出さず、平凡な人材をいつまでも雇用しているからだという。一見正論に思われるが、平凡な人材を認めうる懐の深い社会の魅力を考えるべきではないか。

 平凡といわれる人物が本当に怠慢で業務に支障をきたしているのなら話は別だが、大抵の場合はそこまでではない。業績が形に現れなくても何らかの役割を果たしているのなら、評価すべきだ。短絡的経営者はこの視点がない。

 悪しき平等主義という言葉の怪しさは、人々の個性を無視することに近いことにある。できない人と思われても、実は集団の役にたっているのかもしれない。それを考えるべきではないか。

探さず考える

 最近、私の学習方法は考えていないという事実に気づく。いろいろな情報に触れる機会は多いが多くは情報の表面を撫でるだけで分かったつもりになっている。

 探すことは学びの一つの過程であって、目標ではない。到達点は得た情報を自分なりに血肉化し、自らの言葉で語れるようにすることのはずだ。大切なことを忘れている。

 興味を持ったことをメモする手帳があるが、最近書き方を変えた。かつては情報源の文言を一字一句漏らさず書き写すことに注力したが、考えてみれば情報源さえ覚えていればまた見ることはできる。メモすべきなのはその情報を見て私がどのように考えたのか、感じたのかの方が大事だ。そう気づいてからは自分の思いを中心に書くことにしている。

 拙くとも自分で考えることが大事だと思う。私の学びの最後の砦だ。

「指示」と「誘導」

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 人に何かを教えるときにかつては学ぶ材料を提示することが大切といわれていた。提示の順番や方法などに工夫をすることが教える者の技能と考えられていた。この考え方は最近変わりつつある。知識の内容を伝えるよりも、学び方を教えるべきだという流れである。これにはいくつかの問題点がある。

 学び方を教えるという場合、次に何を読むか、どの問題を解くかという指示をすることは大切だ。何をやっていいのか分からないから知らないのであり、それを教えるのが学び方を教えるということだからだ。しかし、これにも程度がある。学びのスケジュールを完全に教師が行い、生徒がそれに従うのであれば結局従来の知識移動型の教育と同じになってしまう。まずは何をやるのかの大体の方向性を示しながらも、実際にそれを選択するのは学習者でなくてはならない。もっと巧妙な言い方をすれば学習者が選択したかのように見せかけなくてはならない。

 学びの達成感は自分の努力が報われ、結果になって表れたときに起きやすい。他人が用意した道筋をどれだけ進んだのかということになると、結局他人との比較になり、優越感を感じる一方でたいていの場合は劣等感にさいなまれる。それは他人が作った物差しの上にいるからだろう。

 本当は用意された道であっても、学習者自身が開拓したかの印象を持てれば結果は全く異なるだろう。学習者は自分のやったことに対して自信を持ち、次の挑戦に進むことができるはずだ。

 要するに教員は陰から誘導する役に徹する必要があるということになる。中等教育まではある程度、たどり着く目的地は分かっているものが多い。学習者がどのような経路をたどりどのように進むのかを予測して誘導することが教員の役目ということになるのだろう。こういう技術はこれまでの知識教育の方法とは異なるものである。これからの教員はそういった技能を学習していく必要がある。

学歴はいらないが学力はいる

 学歴不問などと言いながら、実際には特定の大学を卒業すると就職時に有利という事実は継続している。それは学力を予測するのにもっとも分かりやすい指標だからだ。

 問題になるのはこの学力がどのようなものなのかということだ。もし、大学に合格するための学力テストの成績を意味するのなら、その指標は不正確になる。大学入試は、与えられた問題を要領よく情報処理する能力であり、おそらく将来はコンピューターが解答してしまう分野だ。この力は確かに必要だがそれだけを物差しに使うのはおかしい。

 学力には問題発見や解決手段の開拓という分野がある。まだ答えのない問題に挑戦し、完遂する。そのために他者と協力するという方法だ。これができる人は学力が高いのだと言える。この能力こそがこれから求められるものに違いない。

 ならば、これからの人物評価は学歴だけではなく、何を学び何を行ったのかを分かりやすく伝えることができる能力が基準になる。学生時代何を誰となんのためにどのように行ったのか。説明できることが大切になるだろう。

冬の空気

 冬の張り詰めた空気には独特の風情がある。必ずしも優しくはないがかと言って冷酷なわけではない。

 冷酷という言葉もそうだが、冷たいという体感を表す言葉は精神状態を表すときにはネガティブなものを表すことが多い。しかし、これは一面を捉えたものに過ぎない。

 冬の空気は身体に緊張を及ぼすが、それはもしかしたら幸せを感じるための準備期間を与えているのかもしれない。暖かさは慣れてしまうと恩恵を感じられなくなる。絶対的な温度ではなく、変化に私たちの感情は発動するのだ。

 その意味において私は冬は大切な季節だと考えている。耐えなくてはならないものを乗り越える。その大切さを教えてくれるのだから。

排除の罠

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 残念ながら見えない差別が広がりつつあるのを感じる。これが杞憂であればいいと思うが結構根深いものを感じるのだ。

 多数派が正義という図式は民主主義の悪い側面である。本当に正しいかを検証せずに、多くの人がなんとなく支持する考えを正義と考えてしまう。これは根本的な間違いにつながる。しかし、日常の生活においていちいち検証という工程などするはずはない。なんとなく時流と判断する各自の判断(というより印象)で是非を決めてしまう。

 最近、困るのはこの自分とは異なる考えに対する寛容性のなさである。多くの人はそう考えているが、別の考え方もあるというときに、これが排除につながることがある。排他性が発揮されるのはいくつかの条件がそろった時だが、これがいま起こりやすい条件がそろっている。

 ソーシャルメディアのような似非世論を見せるものが手元にあると、ネットの発言を基準にして物事を考えてしまう。よく考えればわかる。ネットに書き込むのは特定の条件の人だけであり、それ以外の人はROM(読むだけ)の状態だ。だから、書き込まれていることは世論ではなく、極端な意見の集合体に過ぎない。それを世論と勘違いする人が一定数存在することでおかしな事態になる。

 日本人は元来同調圧力の強い環境に置かれているが、それを増強するのが自由な発言の場であるはずのソーシャルメディアである。これを克服するためには各自のメディアリテラシーを向上するほかには方法はなさそうだ。TwitterやFacebookに書かれていたとしてもそれは少数意見であり、従う必要はない。そういう根本的なことをもう一度考えるべきだ。