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短時間集中

 まとまった学習時間が取れない場合、十数分の短い時間でも積み重ねれば効果はあるという研究があるそうだ。やってみる価値はある。

 集中的な時間が取りにくい要因はいくつかあるが、多忙はその一つだ。そういう毎日を過ごすと仮に時間が空いても学習に集中できなくなる。これは自分の側の問題だ。ほかにも環境的な理由や健康状態とかいくらでも訳はある。

 そういう場合は、時間を割り切って短くしても継続することが大事なのだという。習慣化できればそれなりの効果はあるのだとか。

 私の場合は通勤電車の中でこのブログを書いている。使える時間は数十分、着くまでに仕上げようと思うからこそ続けられているのかもしれない。

求められているものは

 自分の努力のわりに評価がされていないということはよくある。逆に意識はしていないのにいいと言われることがある。意図と反応が異なるのはいろいろな場面で見られる。この事実を考えてみよう。

 自分はこれだけ頑張ったから認めてほしいと思っていても、満足した結果にはならないことがある。くたびれもうけのように感じてしまう。その理由は、自分が評価を求める要素が、実はそれほど完成度が高くないか、高くてもほかの人にもできる人が多くてそれらに埋没してしまうか。あるいはそもそも自分のイメージに合わないものであるものかといった様々な要因があるのではないか。さらには認めてほしいというアピールが足りないのかもしれない。自分が思うほど努力の跡を人は見つけてくれない。

 逆に実は他人に高い評価を受けているということもあるかもしれない。残念ながらそれを口にしてくれないから感知できない。たとえば、自分の存在が組織にとっては重要な役割を果たしているということなどである。強面でそこにいてくれると緊張感が保てる。取り立てて活躍はしていないが、その存在がほかのメンバーの心の安定と、人間的なつながりの触媒のような役割を果たすといったこと。物事を迅速にこなすことが他の手本となっていることや、逆にマイペースなのがいいということなどだ。こういった気質や性格に関する評価は表現が難しく、また本人にあたらめて指摘する機会もないため伝わりにくい。

 他人から求められているものは何か、自分の強みは何かということに関しては結局は自分では分からない。コミュニケーションのなかで他人が自分をどう見ているのかを考えていくしかない。言い方をかえれば、自分は何の価値もない人間だと自分だけで決めるのは間違っていることになる。自分自身を過小評価することがないようにしなくてはなるまい。

ウケ狙い

 新しいものを発想するとき、最も理想的なのは理論的に説明可能なことだ。理詰めで考えた上に新機軸が生まれるのなら最高である。

 しかし、場合によっては敢えて理論を超越してもいい。まったく新しいものを生み出すには破天荒もいる。そのとき誰かを笑わそうとか楽しませようという思考があればうまくいくのではないだろうか。

 奇を衒い悪ふざけすることはこの意味で無駄なことではない。自由に発想した分、突破口を示してくれる可能性もある。

組み合わせ

 色彩感覚の不思議を試す例として、同じ色でも周囲の色によって違って見えるということがよく取り上げられる。私たちの感覚は相対的であり、どう見えるのかはその場に揃った条件の組み合わせで決まるらしい。

 皮膚感覚もそうだ。何もしていないときにぶつかられると痛みを強く感じる。しかし、サッカーなどの接触のあるスポーツをしたあとだと同じ衝突がまったく気にならない。寒い日が続いたあとの小春日和はとても暖かいが、気温自体はそう高くない。

 嗅覚も周囲の環境で大きく変わる。その場にい続けると臭いは感じなくなるし、芳香と悪臭の成分は変わらないときもあるだろう。

 私たちの感覚がいかに組み合わせで形成されているかを思うとき、自分の感覚が決して万物の尺度ではないと知る。不安にも繋がるが自信にもなるだろう。

冷え込み

 今朝は氷点下の冷え込みになっている。大分身体が慣れてきたようで数値ほど寒さは感じない。ただ、やはり冷気は肌を刺し、ときに大きな震えをもたらす。コートの綻びをものを大事にしているしるしと考えて、むしろ人に見せるようにしている。劣化ではない爛熟なのだ。いくつもの寒い時代を超えてきた誇りなのだと。

住みにくさ

人と違う行動をする人は注目を浴びやすい。他人に迷惑を及ぼす場合は言語道断だが、そうでなければ見逃すことも必要だ。それが多様性を保証するのだから。

異端を礼讃するつもりは全くないオリジナリティと独善は紙一重であり、後者である確率の方が高い。だが、自らと異なる行動は許容できないという姿勢はやめた方が良いいい。新しい考え方とか、革新的な方法とかはしばしば型破りだ。革命的な時代の過渡期ではそれが無意識のうちに許容されるが、安定期には異端視されやすい。

変わり者に対してどれだけ懐が深いのかは文化の成熟度に関わる大問題なのだろう。独創的に生きることが住みにくいことは宿命的に仕方がない、ただ、それをどれだけ許容できるのかで未来は変わってくる気がする。

疲労時の判断

 疲れているとき大きな間違いをおかしやすい。そういう経験をいくつも重ねてきた。その理由は何か。

 冷静になれなかったからという考え方は間違っていない。確かに疲れた頭で適切な判断をすることは難しく、それが失敗に繋がると言えそうだ。だがそれだけではあるまい。自分では落ち着いていたはずなのにと思うこともある。

 記憶の一部が阻害されるからという別解を考えている。ある程度の披露が蓄積すると、記憶の蓄積量が減り、目の前のことしか判断する材料がなくなる。普段なら過去の経験から、止めた方がいいと判断する選択肢を選ぶ可能性が高まるのではないだろうか。

 私たちが何かを考えるとき、常に目前の対象とともに過去の経験との照合を続け、最適解を探している。それが疲労時にはできなくなるのではないか。

 ならば重大な決断は疲労時に行うべきではない。時間のおいて再考すべきだ。どうしても決めなくてはならない時は、疲労する前に日常的判断のルールを決めておき、それに従うというやり方にするのがよい。

 経験的印象に過ぎないが記憶が体力に左右されるという事実は間違っていないはずだ。

散歩

 近隣を散歩すると新たな発見がたくさんある。いつもは歩いていない道にあえて踏み込むとさまざまな気づきが生まれる。

 私の住んでいる所は県境や市境が複雑に入り組んでいるので、少し歩けば他県に行ける。また、さらに歩けばほかの市にも行ける場所だ。県や市が変わったからといって何があるというわけではないが、それだけで何か一種の旅人になったような気になれる。

 車で通りすぎると気づかないことがたくさんある。道の起伏に関しては車ではほとんど分からない。結構な坂道だったり、実は緩やかな下りであったりする。歩いてみて分かる。地形はその場に立ってみないと分からない。

 神社や仏閣、それに小祠の類を見つけるのも散歩の楽しさの一つである。しかも、それに拝礼していく人を見つけると、日本人は無宗教だという指摘が当たらないことを確認できる。一神教的な尺度では宗教心は測れない。そしてそれらのパワースポットが残されているがゆえに保たれている小さな未開発地帯がある。自然ではなく、聖地として整え続けられてきた場所というのが正しいのだろう。

 散歩の楽しみはいろいろある。どうしてこれを続けないのだろう。この面白さを覚えていられていられないのはなぜか。日常生活がすぐに塗りつぶしてしまう楽しみを時々思い出したい。

ブレインフォグ

 ブレインフォグなる用語をこれまで聞いたことがなかった。脳の霧といえは詩的な表現だが、実態はなまやさしくない。要するに脳の障害なのだ。

 この言葉が注目されているのはコロナウイルス罹患後の後遺症とされているからである。症状としては集中できない。呆然としてしまうということらしい。アメリカでは罹患者の2割程度がこの症状を訴えているらしい。

 実は私も昨年陽性判定を受けた者である。脳の霧はどうかといえば、罹患の随分前から五里霧中であった。霧というより靄とでもいうもので、きつめのフィルターで視界が遮られている。それが私の日常であり、コロナウイルスとは無関係だ。

 私の場合は何というかある種の覚悟ができた。どんなに慎ましく過ごしていても罹るときは罹る。ならば恐れずにやりたいことを優先すべきではないかと。破れかぶれだか、いまを生きる知恵ではある。

 ブレインフォグに怯んではならない。視界不良なら新しい何かに出会う機会も増える。絶好の機会ではないか。そう考えることで何かが変わる。

 やはりコロナにおかされたのかもしれない。

休みの収穫

 短い冬休みだったがこの期間に解決したことがいくつかある。それは少し考えればよかったことばかりだ。日常生活に追われると見逃してしまうことがたくさんあることを痛感している。

 どうしても解決できなかったスマホアプリの使用上の問題点が解決できた。よく探すと解決法が書いてあった。同じような行き詰まりを感じている人は少なくないはずだ。もう少し分かりやすく示してほしい。多忙を極めるとヘルプ記事を探すことも難しくなる。

 長らく使えなかった機械の復活ができた。ちょっとした作業で直せたのだ。これもネットで取扱説明書を探し、(本物は行方不明)読み直すことで解決したのだ。結果的にはそれだけなのだがこれも仕事に追われるとできなかった。

 何冊かの本を読んだ。私の場合、一つに集中することが難しい性格にあると自覚している。何か別のことを持ちかけられると、思考が中断してそれ以上進めなくなる。休みはマイペースなので本が読めた。特に近隣の図書館はいい。不要な音楽すらない。

 散歩も少しできた。2つ先の駅までの散歩だ。都会の電車なので2つ先と言っても大した距離ではない。かつてならジョギングで片道程度の距離だが歩くのもいい。町の様子をいろいろ知ることができた。

 いいことばかりではなかったが休息とちょっとした充電ができたことはよしとしよう。この余裕を明日からも保てるのか。ひょっとしたらそれがこれからの成功の鍵なのかもしれない。