タグ: 経済

お土産倶楽部

 部活動もいろいろあるが、地方の学校にぜひ作ってほしいのが新作民芸品を創作するクラブだ。その地域を表し、なおかつ可愛らしかったり、有益だったりして買い求めたくなる。そういうお土産を創作するクラブだ。

 最終目標として採算が確保できることを前提にしたい。そのためには地域の歴史や経済、流通などの現状を把握する必要がある。地元の商店主や観光行政の責任者にアドバイザーになってもらい、実益が得られる部活動にすべきだ。中学生や、高校生が向いている。

 地域を活性化するのは若い世代だろう。アイデアは彼らが生み出す。大人たちはその実現のためのサポートをすればいい。うまく行けば地域として大きな恩恵がもたらされる可能性もある。田舎であることは不利ではないということを地域として証すべきだ。

未来のインターフェース

 若い世代には信じられないだろうが、ある年代から視力が著しく低下する。次に聴力が来るのだろう。この境地は経験しないとわからないものがある。脳の回転も残念ながら鈍る。これを放置すると認知症になるのだろう。

 これを支援するシステムを完成すれば、大いに社会貢献できるだろう。場合によっては、格別の商機にもなる。だから言いたい。若者よ年寄の言葉を聞け、そこにチャンスが転がっていると。

 これからは高齢化社会になる。高齢者を引退させてはならない。それは若い世代にも不幸をもたらす。そのためには高齢者用のインターフェースを考えるべきだ。爺ちゃん婆ちゃんに現役の消費者になってもらえれば若者たちの活躍の場が確保できる。

 そして実はこの現象は世界のあちこちで起こる。その時にノウハウを輸出すれば次世代のGAFAも夢ではない。日本の若者に期待している。

東急100周年

 東急グループが100周年を迎えた。沿線に住む者として、公共交通機関や流通の提供に感謝したい。子どもの頃と学生時代、そして現在と中断期間はいくつかあるが長い間お世話になっている。

 子どもの頃も今も田園都市線の沿線に住んでいる。いまは田園を感じさせる風景は限られているが、かつては雑木林や田畑が車窓からいくつもみえた。そこに緑色の先頭が丸みを帯びた電車が時折り走った。ステンレスの車両に置き換わりつつあったが緑が来るとなぜか嬉しかった。今より狭くうるさい。そして機械油の匂いがしたように思う。この旧型車両は急速に消えてしまった。いまは博物館にしかない。

 子どもの頃はストライキがよくあった。恐らく中学生か高校生のお兄さんが線路に入って遊んでいるのをみたことがある。ストライキとは何か何のためにするのかをほとんど理解していなかったが、テレビニュースが大騒ぎするのとお兄さんたちの謎の行動が脳裏に焼き付いている。

 しばらく東京を離れて、また戻って来たとき、中学生と高校生では東急電車との縁が切れた。ただプラネタリウムのあった文化会館やその屋上の遊戯施設、小さなステージで河合奈保子のキャンペーンに参加したこと。東横店での買い物などグループのお世話になることがあった。

 大学生になって東横線で通学するようになり、その後就職して関東を離れると再び東急との縁がなくなり、十数年ぶりに帰った生活圏が東急沿線だった。何かと縁があったということだ。

 関東の私鉄は私たちの生活に欠かせない。文字通りのライフラインである。これからも安全な運行を続けていただきたい。

合格した皆さんへ

 大学に合格した皆さんに申し上げたい。その合格は決して自分の能力だけで勝ち取ったものではない。学習が出来る環境を用意してくれた家族や周囲の人々に感謝すべきなのだ。

 嫌な言い方をすれば貴方よりずっと有能で有望なひとは必ずいるはずだ。彼らの中には学習しようにもそのような環境に恵まれなかったひとが少なからずいる。もし彼らが条件を勝ち取っていたら、貴方よりもっと素晴らしい何かを成し遂げる人が登場したかもしれないのだ。そのことを忘れないでほしい。

 貴方がたの中には将来的エリートとしての人生を歩む人もいるかもしれない。大学でさらに学び何かをすればの話だが。エリートになった時に考えて欲しい。限られた人しかエリートに慣れない国家と、才能ある人がチャンスを生かせる国家のどちらがいいだろうか。自分さえ幸せならばそれで構わないと考える特権階級ばかりいる状態と、自らも切磋琢磨しなければ後生をおそれることになる社会のどちらが健全なのか。

 自分だけよければいいと考えるエリートがやがて社会を壊す。そんな予感がする。すでに多くの兆候がある。決して間違ってはならない。大学に合格した人ならば分かるだろう。多くの栄華を極めた王族や国家、企業の衰退の原因を。

脱マスク間近

 13日からマスク着用は個人の判断となる。多くの企業ではこの方針に従うと発表しているが、接客を中心とするサービス業では従業員のマスク着用を続けると公表している。

 私の場合はコロナウイルス以上に花粉の飛散が問題なのでしばらくマスク生活は続けることになる。恐らく多くの方々はマスク生活を止めることになるだろう。すでにコロナはインフルエンザと同等の病気と認識されている。

 マスク生活が終わると何が起きるだろう。一時的な感染者増加は起きるはずだ。しかし、かつての脅威はない。むしろ人々の活動が活発になることによる様々な変化の方が気になる。再び喧騒の世界に我々は復帰できるのだろうか。

 学んだことがあるとすればソーシャルディスタンスをとっても社会は維持できるということだ。人口減少の未来を少しだけ予見できた。人的資源が失われても社会をどのように運用するのかを知ることができた。だから、決して慌てる必要はない。

 むしろこの自由になった空間で私たちは日常を楽しむべきだ。そしてダウンサイジングする社会をどう切り盛りするのか考えるべきだ。マスクを外したらまずはこの国の将来を考えよう。自分ためにも家族のためにも。

ブランド

 デパートはかつては特別な空間だった。いろいろなものが同じビルの中で手に入るというだけではない。少し高めの価格設定でほとんど割引もしないが、デパートで買ったというだけで満足できる何かがあった。ブロの接客や、高級感のある包装の仕方などがそれを支えていた。

 デパートにいま行くとその感覚は薄い。生活雑貨や衣料や家電の量販店が階ごとテナントとしていることろも増えた。こうなるとショッピングモールと区別はない。一つの建物に限定される分、むしろ大型のショッピングモールよりはるかに見劣りしてしまう。販売員も他とは変わらないので、デパートの優位性というか異空間性というべきものはほとんど失われている。

 デパートがデパートして生き残るにはやはり、この特別意識をいかに演出するべきなのかを考えるべきだろう。ほかにはない商品を扱うという方法もあるが、いろいろなものがコモディティ化している中では高級ブランドも実は需要が少なくなっている。必要なのは買い物空間としてのブランド化である。そこに行くと特別な購買体験ができるという経験を商品化するしかない。そのためには接客のプロや商品選びのプロが必要だ。人件費がかかり、その結果商品の価格も高額になる。でも、量販店や、ネットショップでは得られない特別な体験を演出できれば存在する価値がある。

 買い物という行為そのものに対してどれだけこだわることができるのか。世の中が安く手に入ればそれでいいと考える風潮があるなかで、あえてそれに反する商法を行うことで存在意義を見出せるかもしれない。

酪農の危機

 酪農業界が危機的状況にあるらしい。牛乳の消費量が減り、生産量と見合わないために大量の生乳が廃棄されている。乳牛も処分されつつあるという。食料自給率の低い日本としては大きな矛盾である。

Photo by Harry Nixon on Pexels.com

 コロナで需要が落ちたことや、それ以前の供給不足から乳牛の数を増加していたことなど複数の要因が重なって酪農業は今大きな危機を迎えている。円安による輸入飼料やエネルギーにかかる費用の高騰も影響しているようだ。乳牛は機械ではないので生産調整をすることは容易ではない。搾乳しなければ病気になる個体も多いという。先行投資の大きな酪農家にとって、収入の道が立たれることは廃業につながる。結果的に食料自給率は低下することになってしまう。

 脱脂粉乳や、加工製品に回すといった手は誰しも思いつくが、それも手詰まりになっているらしい。消費されない在庫が余っているというのだ。思うに、乳製品の値段を一時的に下げ、より多くの人に消費してもらう方がいい。下げすぎると採算が合わなくなるので、この辺の調整は専門家が行うべきだ。酪農家を守ることは日本の食料自給事情を保つために欠かせない。国家的な政策が必要だ。

 乳製品は様々な用途で使われているが、輸入品もかなりある。国産品の保全のために、短期的に関税率を上げるなどして調整する方法もとるべきではないだろうか。これらの方法は常に見直し、実態に合わせて運用していかねばなるまい。これから様々な方面でこうした問題が出てくるはずだ。農政は日本の重要課題であることを痛感する。

合従連衡

 日本には高い技術力や多額の資本を持っている企業はあるが、海外の超大企業に伍するだけの力はない。アメリカのような大企業を即座に作るのは難しく、国家が企業運営に容易に介入できる中国のようなやり方もできない。だとすればやるべきことは団体戦である。

 同業種が合併せず、独自のサービスを維持できるならば、質的低下を避けて協力しあえる。異業種間の連携ならばイノベーションも起こしやすい。そういうことの調整役をする専門家が必要だ。

 中国の古代戦国時代では群雄割拠の中での生き残りの方法が模索された。それが同盟の組み方である。大国と組んだ小国は結果的に滅ぼされ、小国の同盟はかなり持ちこたえた。現代であれば小よく大を制すもありうる。学ぶべきことはあるはずだ。

貧すれど

Photo by Alexander Grey on Pexels.com

 貧すれば鈍するということばがある。貧困が生活の質を下げ、モラルやマナーといった基本的に大切なものを守れない人が出てくるという意味だろう。わが国は世界的も礼節を重んじる習慣があると認められているように思うが、最近それが危うくなっている。それはやはり忍び寄る貧困と関係があるのだろうか。

 昔から社会的な問題行動を起こす人はいた。基本的な社会生活に必要な協調性が薄く、独善的ですぐに文句をいう人である。これは最近の科学では脳の機能低下と関係があるといわれている。機能低下は加齢によって誰でも起こるが、それ以外でも栄養不足や運動不足、過度のストレスなどによっても起こるらしい。これらは貧困と相関がありそうだ。ならば、貧困が進めば問題は一層大きくなっていくということになる。

 さらには社会的な風潮、世相も影響する。特に日本人の気質の一つである同調志向は、この傾向を具現化しやすい。誰かのもたらした悪影響がたちまちに広まってしまう。ソーシャルメディアの無責任な発言がそれに拍車をかける。経済的貧困と精神的貧困が負の相乗効果をもたらし、正義や礼節の感覚を鈍化させてしまう。

 残念ながら昭和期にあったような経済成長は望めない。これから起きるのはやや角度のきつい降下線であると予測されている。その中で少子高齢化は進み、活力は一層失われる。イノベーションを期待するが、おそらく現状維持ができればいいということだろう。あくまで現在の経済的価値観での話であるが。

 ならば貧すれば鈍するではなく、貧すれど鈍せずの道を歩むしかない。まずは貧困の定義を変える必要がある。十分に有り余る物資を使い捨てするのが豊かであるという価値観をやめ、今あるもの、今あるシステムを大切にして、それを改良するという方法を取り、それが達成されることに幸福感を求めるようにしていくべきだ。いわゆるブリコラージュの発想も本来日本人に備わっていた考え方だと言える。結果的にそれが環境問題や、人口減少問題の解決の糸口になることは素人にも予測できる。

 こういう発想の転換にはきっかけが必要だ。歴史的には困難な時代に偉大なる指導者や思想的なカリスマが登場して人々の考え方を変えていったように思う。それが平和的に行われず、天変地異や革命、戦争などの悲劇の時期と多くの場合に重なっていたことは注意しなくてはならない。もちろんこうしたことはあってはならない。起こしてはならない。昔の人と異なるのは私たちはかなりの人が文字が読め、話し合うことが可能だ。だから、実際に悲劇が起きなくても、それを想像し、その対処を論理的に考えることができる。端的に言えば歴史に学ぶことができる。事例学習ができる。

 徐々に衰退に向かう社会において次に起こりうることは何か。それを考えることも必要だ。そしてそれを考えさせるきっかけを作ることも必要だと思う。そのためには歴史をもっと学び、思想を学ぶことをおろそかにしてはならない。最近はテクノロジー偏重の教育がなされつつあり、また社会的なニーズもそちらに傾いている。しかし、そもそも社会を成り立たせている仕組みや、その仕組みを支えている基本的な姿勢、ものの考え方について多くの人が意識し、その重要性に気づくべきだ。

 貧すれど理想を忘れないことを多くの人が目指すことができるか否かがこの国だけではなく、現代人の命運を握っていると言えそうだ。

値上がり

 買い物をすると会計のときに値上がりを実感する。一つ一つの品物は僅かな値上がりでも、それが集まると大きくなる。当たり前だが事実だ。

 このちょっとおかしいが毎日続くとさらに大きな負担になっていく。私たちはしばらくインフレを経験していないのでこの違和感を理解するのに時間がかかる。

 収入の方は上がらない。経営者にはここで考えてほしい。金が回らなくなると結局自分の商売に返ってくる。人件費や投資をケチってはならない。