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1円パック

 黒部市に住んでいたいた頃、あるスーパーの卵の値段で驚いたことがある。1パック1円と言うのだ。条件があって他の買い物を500円以上することだった。低過ぎるハードルなので何度もお世話になった。

 卵は価格の優等生と呼ばれ、時代を越えて値上がりしないものの代表だ。かつては卵は高価で寿司屋に行くと玉から注文した人もいたという。卵は生食だけではなく、様々な料理に活用されている。それが安定的な流通を支え、価格が変動しにくい理由であったのだろう。

 ところが現在、鶏卵の価格が上昇している。円安や飼料の価格高騰の影響もあるが主因は鳥インフルエンザの蔓延である。予防策はなく発見されると鶏舎単位て殺処分になってしまうという。

 人間の病も一向に収まらないが、動物の疫病にも困ったことである。対処策を見つけたひとはきっと世界中から感謝されるに違いない。

 1円パックに喜んでいた昔は懐かしい。ただ、もう少し食べ物に敬意を払い、畜産業の発展に繋がる消費行動を取るべきではなかったかと考えてもいる。

賞味期限間近

 近隣の書店の一角に食料などを売るコーナーができた。賞味期限が近い商品を売ることで、食品ロスを減らす活動だという。見ると、お菓子やお茶、インスタント食品などが並んでいる。賞味期限を確かめると1~3か月後というものがあったが多くは6か月くらいはあるものだった。それらが数割引きで売られている。

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 賞味期限ということにこだわる人は一日でも過ぎたら食べられないように考える。私のような大雑把な人は数か月過ぎても大丈夫だと思って現に食べてしまう。それで食中毒になったことは一度もない。

 そもそも賞味期限とは何か。農林水産省のサイトには「袋や容器を開けないままで、書かれた保存方法を守って保存していた場合に、この「年月日」まで、「品質が変わらずにおいしく食べられる期限」のこと。」と説明されている。同じページには消費期限という分類もあり、「袋や容器を開けないままで、書かれた保存方法を守って保存していた場合に、この「年月日」まで、「安全に食べられる期限」のこと。」とあり、こちらの方は安全性が言及されている。つまり賞味期限はメーカーが味に対して責任を取る起源であり、食べられるか否かの基準ではないことになる。しかし、味の保証をしないものをメーカーや小売店が扱うことはできないため、消費期限は通常は表記されず、賞味期限が近付けば店頭から取り除かれる。

 中には賞味期限切れをセールスポイントとして商品を売る店舗もある。格安の値段で売られる商品はフードロスを大義名分とし、メーカーからは在庫処分の方法として、消費者からは割り切って安価で求めることができる手段として商売が成り立っているそうである。ネットで同じようなことをするサイトもある。

訳あり品をお得にお買い物「junijuni」

 こうした試みはいろいろなことを変えていく突破口になりそうだ。もったいない文化を世界に発信しながら、食品廃棄率の高い矛盾を解消するためにもこうした方法に注目していきたい。使えるものは使うことは日本人の伝統的な思考方法に通底するから普及するのは容易なはずだ。

循環型社会

 いわゆる鎖国状態であった江戸時代は資源が限られていたために循環型の社会になっていたという。あらゆるものが再利用され、それが何度も繰り返されていたらしい。大量生産大量廃棄を前提とする現代の価値観とは対極にあるものだったことになる。再考する価値がある。

 SDGsは現代の循環社会志向の考えだが、江戸時代の循環型社会とは根本的な違いがある。そもそもSDGsは持続可能な「開発目標」であり、開発という視点を強調する。持続することを目標に停滞するのではなく、あくまで開発が目標だ。そのためには環境保護をうたいながらもより豊か便利な社会を求める目標が設定されている。海をきれいにするために、プラスチックを使うのはやめようとは言わない。ごみを分別しよう、エコバッグを使おうというが、よく考えれば実効性はさほどない。EV(電気自動車)に変えようというが、発電エネルギーには化石燃料を使う。環境を守るためにいっそのこと流通システムを止めようとは言わない。

 江戸時代の循環型社会が成り立っていたことにはいくつかの条件がある。まず資源自体が限られていたという現実である。国土にあるもので何とかしなくてはならない。列島国家の性質上、他国から資源を輸入したり、暴力的に強奪したりする可能性が少ない。とにかくやるしかないという状況があったのだ。他国に侵略する悪知恵と技術は近代国家になって欧米から学んだものだった。

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 島国、さらに山岳や河川によって分断されやすい地勢や災害の多さも循環社会を成立させてきた。国土の大半が森林であり、台風や雪害の危険性があり、加えて地震も多い状況にあっては、生活を維持するための最低限の工夫が常に意識されてきたのだと言える。

 固定的な社会、つまり封建社会のシステムも持続型社会を支えていたという事実を忘れてはならない。社会的な変動が極めて少ない社会では持続型な社会システムは維持しやすい。人々の自由が社会的に制限され、その前提で生きているからこそ、循環社会が当然のように受け入れられてきたのだ。これはあまり強調されないが大切な事実である。逆に言うと江戸時代風の循環型社会を目指せば経済的な成長は期待できない。成長しないことで現状維持を果たしていたということも言えるかもしれない。だから、江戸時代に学べ、江戸に戻れという短絡は危険だ。近代的自我を確立してしまった私たちにはあまりにも窮屈で、それだけで窒息してしまいそうな社会であったことを忘れてはなるまい。

 これからの持続的社会はどのようにあるべきだろうか。SDGsの理想はそれはそれでいい。どう実現するかだ。またこの目標の裏側にある利権獲得の動きを暴き、流されないことが大切だと思う。循環を支えるシステムへの支援を考えなくてはならない。リユースにかかるコストは実は安くない。中古品は安価だという思い込みがあるが、そうでもないらしい。再利用品を積極的に使うということが消費者の立場でできることだろう。

 これには価値観の転換が必要だ。古いものを積極的に利用し、修理、修繕、改良の技術を個人のレベルで高めることが必要になってくる。壊れたものを直せる可能性が高まれば捨てられる可能性は減る。また企業も完成品を売ることばかりではなく、部品、修理用のパーツなども売る方法を展開するとよい。初めはコストがかかるかもしれないが、結果的には会社としての持続可能性を高めるだろう。

 いわゆる商品のサブスクリプション、リースなども発展させていくべきだろう。安物を個人で買いそろえてすぐに捨てる時代から、ある程度の品質と耐久性をもった商品を共有する方法への転換は持続可能社会の流通モデルとなりそうだ。

 このほかにもいろいろな方法がある。それをまずは自分で実践することで実験してみよう。などと考えている。

手数料があるので

 かつて学校で募金の担当をしたとき、集まった小銭を郵便局に持って行って振込する役をやっていた。小銭といっても集まれば結構重い。端数を自分で足した額を札で振り込んで、実際の小銭を自分で使うことにしたことがある。金銭的には間違っていない。自分からの寄付も少しだけやったので、それなりの自己満足も得られる。

 ところが今これをやってしまうと大変だ。コインをそのまま窓口に持っていくと枚数によって手数料がとられる。たとえばゆうちょ銀行の場合、500枚のコインを預けようとすると手数料が825円だ。もしすべて1円玉だとすれば、預けるだけ赤字になる。これはどう考えてもおかしい。ゆうちょ銀行はそれでも安いほうで、同じことをみずほ銀行やりそな銀行でやると手数料は1320円で大赤字になる。

 手数料の安いコインスターなどの自動両替サービスの利用で切り抜けるしかないが、募金などの善意にも手数料がかかるというのは何とも理不尽な気がする。これからの街頭募金ではスマホをかざすことになるのだろうか。キャッシュレスの世界に向かうのは時流というものだが、募金のような日常の経済活動とは異なるものに関しての対応は別に考えなくてはならない。

エネルギーの多様性

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 欧州で進める自動車のEV(電気自転車)化はさまざまな問題があることが分かってきた。EVにすれば温室効果ガスの削減につながるという単純な発想はどうも誤りのようなのだ。

 2035年までにEU圏域で販売する自動車はゼロエミッション自動車(ZEV)にすることが義務付けられる。操作時に二酸化炭素を排出しないということで、日本のプリウスなどに代表されるハイブリッドの電気自動車は認められないことになる。これらの車は確かに走行時には電気だけをつかうので温室効果ガスは発生しない。だが、いろいろ問題があることが分かる。

 まずは性能の問題である。現状ではEVの走行距離はガソリン車より短く、こまめな充電が必要になる。自家用車の場合は自宅に停車しているときに充電するのが当たり前になるだろう。契約駐車場も充電器付きの設定が現れるはずだ。商用車になると困ったことが起きる。長距離を走るトラックなどは明らかにEVには向かない。充電にも時間がかかる。急速充電でも30分以上かかるというから、給油所ならぬ充電所は渋滞が予想される。

 そもそも電力をどのように賄うのかという問題がある。日本の場合、原子力発電は様々な問題がありこれ以上拡大できない。むしろ縮小しようというのが世論だ。すると電力は火力頼みにならざるを得ない。するとEV化のために発電量が増え、かえって二酸化炭素の排出量がふえてしまう。

 もっと深刻なのがエネルギーの一元化による弊害だ。今、豪雪地帯で起きている停電は、電力が停止するとインフラのほとんどが機能しなくなることを示している。電力に頼りすぎるとそれが止まったときにすべてが停止するという危険をはらむことになる。おそらく2030年代のヨーロッパではこの停電パニックが発生する可能性がある。

 技術者によるとEVは製造や廃棄の過程でガソリン車より温室効果ガスの発生量が増えるのだという。すると、走っているときはよいが、走る前と後のEVは環境問題に適合しないことになる。この点も考慮しなくてはならない。

 日本は欧州などの世界の流れを踏まえていかなくてはならないが、事情が異なる他地域の方法をそのまま取り入れるのは危険だということになる。再生可能エネルギーの開発は今も行われている。日本では豊富な水資源があることから水力発電が中心で、太陽光や風力の発電がある。これらは発電効率が低く、なおかつ環境を破壊する側面をもっていることから解決策とはなっていない。さらに注目されているのが水素をエネルギー化する技術である。水素からエネルギーを作る時点で電力がいるので、いまのところは完全に化石燃料から離脱することはできない。しかし、石油や天然ガスよりも温室効果ガスは削減できるとされている。発電を再生可能エネルギーに任せればさらに脱化石燃料に近づくらしい。

 いずれにしても今の科学技術では何か一つの手段にゆだねることは極めて危険な賭けとなる。欧州のような政策は理想としてはよいが、現実を考えるとかえって環境負荷を増やし、最悪の場合は全停止につながる。これは避けなくてはならない選択肢だ。日本のようなエネルギー資源がない国だからこそ気がつくこともあるはずだ。エネルギーの多様性を確保することは人類の未来にとって不可欠と考える。

支払いのデジタル化

 バーコードを出して買い物をする機会が増えた。ポイントをつけるものと支払いのものとか別のアプリになっているものもある。また、統合して一回の読み取りで済むものもある。

 会計のデジタル化の最終段階は顔や指紋などの認証と会計システムとを組み合わせることだろう。非常に便利だが、非常に気味が悪い。監視されていることを自ら許すことになるからだ。それでも最後はここにたどり着くであろう。

 現時点でもバーコードを出すことだけで時間がかかり手間取ることが多い。支払いのデジタル化は段階を踏むべきだが、今のままではいかにも中途半端だと言える。

まず景気回復

 防衛費の増強などを目的として増税が論議されている。国債頼みにしないというのは一つの見識だとは思うが、このタイミングで増税など無理というものである。なぜそういう感覚がないのか。

 まず賃金をあげることを優先すべきだ。税収はそのあとで考えるべきである。金を循環させる方法を考えるならば、税金を上げるより、むしろ減税の方がいい。ただ、財源の確保が必要ならばそのあとの動向で判断していけばいいのだ。いまは何よりも景気回復と個人の賃金を上げ、消費者の気持ちを向上させる方が優先事項だろう。

 安物買いの銭失いの国民病にかかっていると思われる今、少し高くても長く使えるものを求める心の余裕がいる。そのためにも賃金を上げよう。給与を積極的に上げた企業に補助金を出すなどの方策も面白いのではないか。

心に残るものとモノとして残るもの

 思い出を作りたいとき、それが最終的に物質的なモノとしてのこすか、無形のサービスなり出会いなり、いわゆるコトとして充実することを重視するか。そのあたりの価値観が変わってきているかもしれないという。どちらかを選べと言われたらあなたはどちらだろうか。

 もちろん両方とも充実していれば文句はない。ただ、どちらかといえば昭和世代の私にとってはモノ重視かもしれない。最初に土産を買うという発想は、モノとしての思い出を残したいということだし、やたらと写真を撮りまくるのは、デジタル化した今はいわゆるモノではないが、形を残そうという点において共通する発想である。

 もし、土産物はなく、写真撮影も禁止な場所があるとする。ただし、その場所に行くとサービスや雰囲気、接待などがすばらしく幸せになれるものとする。こういう場所はいかがだろう。最近の若い世代はモノにはこだわらない人も増えている。土産が大量生産されるものであり、限定品といっても似たようなものがたくさんある。それに実際の価値以上の金を払う必要はあるのかという発想があるらしい。もし、本当にものが欲しければネットで転売している。いつでも手に入る(かもしれない)という基本的な考えの構えができているからなのだ。

 彼らにとっては家に持って帰ればきっと色あせて見えるおみやげよりも、その場で味わえる体験の方に投資をしたいと思うのだろう。最近は私もその方に傾いてきている。土産物を分かち思い出を語る仲間が少なくなっているのも原因にあるかもしれない。同級生に先輩に後輩に上司になどと言い訳をいって買ってきた土産は受け取る人が少なくなっている可能性があるという仮説である。

 観光立国をめざすなら、この点を抑えておく必要があるだろう。そこにいなければできない体験を売りにすれば、安定的な集客が期待できるかもしれない。

間違った時短

 最近は時短の名のもと強制的に仕事を終わらせられる。それはいいことでもあるし悪影響も大きい。

 時間が来るとオフィスが閉まるのは当たり前という人もいる。しかしよく考えてほしい。それではアイデアは生まれない。与えられた仕事をこなすだけの仕事ならばそれでいい。でも、いま日本の企業の多くが求めているのはブレークスルーのはずだ。その可能性自ら摘み取っている。

 思考を時間で区切るのは大事だ。でも、もっと考えたいという人がいた場合、それを追い出すのはいかがなものか。数字上の生産性は向上しても、用意に他社他国に凌駕される仕事をしていていいのか。いまの日本の労働環境には極めて深刻な危惧を禁じえない。

値上がり続々

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 このところいろいろな物の値段が上がっている。資本主義経済の中では値上がりは避けられないが、その前提として収入も上がらなくてはならない。ところが、我が国の労働者の賃金は世界的にも特異なほど低迷している。入る金は少なく、出る金は多い。それがいいはずがない。

 日銀の目指していた2パーセントのインフレは奇しくも外圧によって達成されてしまった。むしろ今までの利下げは日本の経済を弱体化させるだけで効果は少なかった。大きな変化が起きなかった分、国民は安心してしまったが、成長やイノベーションの努力を怠ることとなり、国際的経済力が低下してしまっている。

 今後の厳しい時代の中で、日本の経済がかつての勢いを取り戻すのは極めて難しい。せめて、働いたものが損をすることがないようにするべきだ。非正規雇用という極めて巧妙な格差階級を作って経済を回してきたやり方が、もう機能しなくなっていることを考えなくてはならない。今後は大半の労働者が非正規雇用になる可能性があり、それでも混乱が起きないような社会の仕組みを作らなくてはならないだろう。

 まずはそのためにも労働者の賃金をあげることを考えなくてはならない。金を回すことで経済は活性化する。経営者はまずは人に投資をすべきだ。それができれば結果的に収益があがる。今後は人材確保も容易ではなくなる。優秀な人材を確保するためには人的投資を惜しむべきではない。

 国民も自分の価値を高めることを考えるべきだ。学歴を持つことだけがその方法ではない。それぞれの職の専門知識や経験を言語化し、説明できるようにするべきだ。実務面で優れている人にも高収入を保証すべきである。

 このような社会的な問題になると、日本の風土では横並びを重んじる。突出したことをすると周囲から非難されると考える。しかし、この問題に関しては先を進む人や企業が出てほしい。彼らが成功すれば後に続く存在が現れる。