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不安軽減

 日々厳しい現実が報道されています。新型と冠する病魔の持つ底なしの不安が人々の冷静さを打ち砕いて行くことが懸念されます。まずは不安を取り除く、もしくは軽減するための具体的な行動が必要です。

 政府や自治体の要請で営業や興行を取りやめたり、削減したりした企業や団体は無数にあります。そこに一定の補償をすることは難しい。できたとしてもその後の経済活動に致命的な打撃となります。できるのは負債の返済を軽減したり、期限を先延ばしにできる制度を早急に導入することではないでしょうか。

 非常事態こそ指導者の腕の見せどころです。決断を期待します。

ごまかされる外来語

 最近の流行語は残念ながらクラスタやオーバーシュートかもしれません。コロナウイルス流行がなければ認知度が高まらなかったはずの外来語です。

 clusterは葡萄の房などを表すのが原義で小集団などの意味もあります。クラスタという長音記号を省略するのは理系出身者の外来語表記に多く見られますので、この語の出自も想像できます。ウイルス騒動が起きる前は偏狭的嗜好を持つ集団、いわゆるオタクの集まりくらいの意味として拡張利用されていた言葉でした。

 overshootは行き過ぎるとか通り過ぎるといった意味らしく、想定していた以上に数値が超過してしまったときに使われています。寡聞にして私はこの機会に初めて知りました。これも電圧や力学上の世界では日常的に使われている言葉らしく、検索するといくらでも用例が出てきます。

ある大臣がツイートしていましたがこれらの語を政治家やメディアが安易に使うのには反対です。クラスタは感染者集団とか感染の可能性が高い集団などといった方がよいし、オーバーシュートは感染者急増の方が分かりやすい。感染爆発という言葉もあります。感染者の飛躍的増加を防ぐために外出自粛をというのなら、感染爆発という言葉で注意喚起した方がいいのではないでしょうか。オーバーシュートがなんだか分からない人や、オーバーシュートくらいならなんとかなると考えた人はたくさんいるはずです。

 外来語がそのまま使われるのは日本語にそれに相当する語が存在しないときなのですが、置き換え可能な語があるのに使わないのは混乱を招きます。指導者たるもの使う言葉にもご注意いただきたいと存じます。

これが本当のclusterです

桜花爛漫

 東京のほとんどの桜は満開になりました。昨日はやや冷え込んだため、花冷えががふさわしい一日でした。今年は花見の乱痴気騒ぎもなく、かえって趣のある風景が広がっています。

 桜花は豊作の予兆という信仰もあれば、疫神の発動と関係づける考え方もあります。いずれも科学的根拠はないでしょうが、この季節に人々が何を願い、何を恐れたのかを知る手がかりにはなります。そしてこの精神的伝統が響くのが今年の桜花です。

 オリンピックの延期の可能性が濃厚になってきました。様々な弊害が発生することになりそうですが、粛々と過ごしていくしかありません。いろいろな人が述べていますが、いまは現状を振り返る機会が与えられたのであると考えるべきなのです。

応援購買

 このままでは我が国の経済が立ち行かなると言うことはコロナウイルス騒動の中で可視化されています。外資に依存する国は非常事態に弱いだけではなく、自国の経済活動を少しずつしかも確実に弱体化しているのです。

 このような事態を少しでも遅らせるためには国内の経済活動を立て直す必要があります。国内生産をしている製品を優先的に購買する基調をつくる必要があります。影響力のある人にはぜひこのことを理解してほしい。どこに金が回っているのかを考えて欲しいのです。一般市民は少々値段が高くても日本製品を買うこと。不買運動はよくありません。必要なものは買うべきですが、そうでないものは生産者をみて買うべきです。

 金が国内で流通することになれば結果的に自分の懐にも届くものが増えるはずです。日本経済のことを考えた商売をしている企業を応援するものの買い方が求められています。

寒暖差

今日は昨日より10度以上気温が低下しています。ある意味本来の早春の陽気に戻ったと言うことができるでしょう。まもなく桜が開花してしまいそうな暖かさが続いていたので、ここでごく短い休符が入ったようです。

 ウイルス蔓延の話題はまだ収まりが付きませんが、恐らく世界的に踏ん切りをつけなくてはならないときがくるはずです。特効薬よりも免疫のシェアの方が先にあるのかもしれません。そこまでには多くの犠牲が出ることも考えられます。

 致死率が高くなる条件を揃えている人と、一般の人との区別をしなければなりません。それができれば無駄な社会的停滞を防ぐことも可能になるかもしれないのです。冷静な行動が求められています。

 毎日の温度に私たちの身体はなんとか適応することができます。社会状況の変化にも臨機応変の対応が欠かせません。

集まるな

 コロナウイルスの流行に伴い最近は様々なイベントが中止されています。楽しみにしていた観劇も主催者側から中止の告知がありました。

 いまの社会状況は集まるなというなんとも面白くないものです。集まらなければできないことが封じられるということは人間の可能性の大半を捨て去ることに等しいのです。インターネットの普及で仮想的なつながりはできたとしても、私たちはメディアの介在を無視できるほど鈍感ではありません。

 とはいえ、この状況をなんとかしなくてはならないことは確かです。人との新しい連繋のあり方を模索していくしかありません。それを考える機会が与えられているのだと考えてみたいと思います。

パンデミック

 新型肺炎の世界規模の流行を世界保健機構がパンデミックと判断したようです。定義の有無に関わらず、この病魔の影響力の大きさは日々拡大しています。

 ただ、罹患すれば直ちに死に至る病ではなく、感染しても無発症の人までいるというウイルスです。完全なる隔離が難しいところが大きな問題でもあります。

 それ以上に厄介なのはこの度の不安感が日常生活の全般を不活性なものにしていることです。人、モノ、カネなどの交流と交換で成り立っている日々が損なわれるとうまくいかないことが増えていくことになります。すでに破綻したり、そうなりつつある企業が生まれつつあると言われています。

 単に恐れるだけではなく、守るべきものは守りながらも、やらなくてはならないことは粛々とこなしていくことが求められています。また、互助の精神も思い出さなくてはならないでしょう。

 震災復興がすまないうちに次なる災禍が訪れたことは残念ですが、立ち向かうしかありません。

9年目

 今日で東日本大震災から9年目になりました。歳月の流れること速くすでに記憶が薄れつつあります。忘れてはならない忘れたい記憶です。

 地震の発生時は職場にいて午後の仕事のめどが付き始めていたころでした。突然の大きな揺れで動揺しましたが、意外にも冷静に行動できていたと考えます。恐らく関東の地震はものを倒すほどではなかったことや、丈夫な建物の中にいたからでしょう。建造物の一部崩壊による死傷者は東京でも出ていました。

 記憶に残っているのは震災後の不安です。エネルギー不足による暗くなった照明、計画停電、原発事故による放射能汚染の恐怖など、どうしようもできない恐怖感が静かに襲いかかっていました。度重なる余震が落ちつきかけた心をかき乱しました。

 いろいろな意味で厳しい状況の中で平静を取り戻すことができてきたこの時期に、今度は世界規模のウイルス流行で再び社会不安が増大しています。震災9年目にあたって必ず立ち直るという決意を新たにしょうと考えています。

東京大空襲

 1945年3月10日に東京東部の人口密集地に連続的な空爆が行われ、少なくとも10万人以上が死亡しました。いわゆる東京大空襲です。

 戦時中とはいえ、これほど大規模な殺戮がいわゆる通常兵器で行われたことや、被害者の大半が非戦闘員であること。意図的に一般市民が狙われたことなど、人類の戦争の歴史上特筆すべき出来事でした。

 ところがこの事実をすでに知らない日本人が多い。戦争という特殊な状況がもたらしたこととはいえ、冷静に考えて許されざる事実です。このことを考えるのを止めてしまうと同様のことを繰り返してしまう。

 被害者的な立場でだけではなく、人類の叡智として非戦闘員の無差別殺人は戦時中であっても絶対に避けなくてはならないことを忘れるべきではありません。

次を考える

 積み立てNISAを始めて経済の成り行きにも関心を持つようになりました。いまはコロナウイルス流行をきっかけとする世界的な株安が発生しています。日々目減りしていくこづかいの額にため息をつく毎日です。

 ウイルス騒ぎは社会のあらゆる局面に多大な影響を及ぼすています。中には明らかに行き過ぎな点もあります。ただ、縮小する経済の未来を予見する機会を見せてくれているのだと考えるならば、この時期を体験する意味があります。事前に対策を立てるシミュレーションなのです。

 生産人口が減少し、流通の規模が縮小したり、人手不足が慢性化する状況は最近の社会の実態と似ています。そうした中で何ができるのかを予測して行くことが求められます。いまあることを前提とせず、次の状況を常に考えて生きることがこれからはますます重要になってくるのでしょう。