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水はね

 雨の日に気になることの一つに走行する車の近くを歩くときの水はねがある。何度も被害にあったことがあるので、雨の日は色の薄い服は着ない。この水はねは実は道路交通法違反で罰金が規定されている。

 車から水はねの被害を受け、因果関係が証明されると普通車では6,000円の罰金ということだ。実際には証拠を残すことが難しいため、泣き寝入りになることが大半というが、街中に防犯カメラがありカメラ付きスマートフォンが普及したいまでは証拠写真や動画か撮られている可能性は高い。それ以前に道義的問題として考えるべきだ。

 JAFの実験によると、時速40kmで水溜りを通過すると身長の高さの飛沫がタイヤから2m位まで飛ぶという。時速20kmでも下半身を濡らす水はねは起きる。時速10kmまで落とすとほとんどはねないということだ。もちろん水溜りの状態や道路の形状、車種などによって状況は変わるはずだ。

 一番厄介なのは水溜りが運転手から予測できない場所にあることで、この場合減速しないで走ってくる。おおきな飛沫を上げることになる。

 歩行者としてはよく水はねが起こる場所を把握して車が接近しているときには近づかないことが肝要だ。運転者はまとまった雨が降っていて歩行者を見かけたら念のため減速する配慮がいる。道路設置者には水はけの悪い場所を改善するか警告の表示を施すことをお願いしたい。

6月

 6月には祝日がない。ある意味、規則正しい生活ができる月だ。かつて日本人は働きすぎで仕事中毒だと揶揄されたこともあった。いまはそれは当たらない。働くことに疑問を感じる人々が少しずつ増えてきている。

 長時間働いても賃金が上がらない。株式投資したほうが儲かってしまうという現実を日本国民は苦々しく感じている。金が入る喜びは刹那的なものだが、仕事の達成感は得られない。儲かった金で社会還元できるならばまだいい。投資家の多くは私腹を肥やす以外に興味がないから、結局金が回らない。これはおかしい。

 長雨の季節に私たちは何かを考え直さなくてはなるまい。自分が豊かになるためには周りの人も豊かにならなくてはならない。がむしゃらに働いても誰かを幸せにできない。何よりも自分自身が不幸に思える。

 こういうときは少し視点を変えよう。雨はこういう時にはいい間になる。

荒天予報

 台風の影響で今週は荒れる天気となりそうだ。沖縄県は台風の直接の影響を受ける。本州はこの台風がエネルギーを供給する形になる梅雨前線が長く強い雨を降らせそうだ。

 週間予報では関東は金曜日に大雨となっている。台風の速度が遅く、その影響が長期にわたって続きそうなのが不安である。今回は暴風よりも豪雨に注意すべきだと考える。

 都会に住んでいると、河川の氾濫はあまり話題には上らない。過去には一級河川の氾濫により大被害が出たこともあるので油断はできない。それよりも深刻なのは、地下階への雨水の侵入をいかに食い止めるのかであろう。過去に浸水の経験のあるところには土嚢が用意されているところもある。蟻の一穴の比喩のごとく、こまめの手当てが求められるので関係者には点検をお願いしたい。

 荒天時は無理をしないさせないことも防災の基本だ。勇気をもって防災情報を発信してほしい。

未来のインターフェース

 若い世代には信じられないだろうが、ある年代から視力が著しく低下する。次に聴力が来るのだろう。この境地は経験しないとわからないものがある。脳の回転も残念ながら鈍る。これを放置すると認知症になるのだろう。

 これを支援するシステムを完成すれば、大いに社会貢献できるだろう。場合によっては、格別の商機にもなる。だから言いたい。若者よ年寄の言葉を聞け、そこにチャンスが転がっていると。

 これからは高齢化社会になる。高齢者を引退させてはならない。それは若い世代にも不幸をもたらす。そのためには高齢者用のインターフェースを考えるべきだ。爺ちゃん婆ちゃんに現役の消費者になってもらえれば若者たちの活躍の場が確保できる。

 そして実はこの現象は世界のあちこちで起こる。その時にノウハウを輸出すれば次世代のGAFAも夢ではない。日本の若者に期待している。

翁さぶ

 古い言葉に「おきなさぶ」というのがある。万葉集には見える言葉で、老人らしく振る舞うという意味だ。古代において翁は盛りを過ぎた高齢者であるとともに何らかの特殊な能力の持ち主であることを予感させる存在であったはずだ。

 人生の両端にあたる嬰児と老人は、この世に生きる者の中ではあの世との境界に位置する存在と考えられたのだろう。だから、老人は必ずしも人生の末端ではなく、ある意味、神の存在に近いものと考えられた可能性もある。

 だから、おきなさぶことは老いぼれを演じるという訳ではない。生きている存在にとってもっとも彼岸に近い存在として尊重されたのだろう。

 高齢者がまるで社会の負担のようにしか考えない論調が横行するが本当にそれでいいのか再考すべきだと考える。

ヘルメット

 自転車に乗る際のヘルメットが義務化されている。ただ、現状ではヘルメット未着用の人が多い。

 この件については努力義務と言う扱いで法的な拘束力が弱い。義務化という言葉との落差がある。注意はされるが罰はないということだ。

 さらに品薄も原因という。自転車店の中には在庫切れで予約待ちだという。通販には格安のものがあるが果して安全性は保てているのか。

 ヘルメット着用による事故発生時の被害の軽減については証拠があるという。気軽に利用できるような仕組みが必要だ。

伝統的な結びつき

 グローバルに人材の移動が起きる時代において、日本の優位を保つことは結構難しい。ギャラを倍出すけれどうちに来ない? と言われた有能な人が、いやあ私は日本人ですから、日本のために働きます。などと答えるのは理想としか言いようがない。

 まして我が国は愛国心には如何ともし難い軛がある。勝てない世界大戦に国民を駆り立て、多大なる犠牲者を出した歴史をもっているからだ。国を愛せよということに極めて敏感になっている。

 だから、日本のために何かをしたいなどと言ったら変わり者扱いされる可能性もある。というよりそういう発想自体が出てこない風土がある。海外の方には最も理解しにくい日本人の現実だ。

 優秀なスキルをもっている人ならは、国益と私益のバランスが分からないはずはないと思うが、それも幻想だ。自分が不利益になるのに国のために尽くすなどと考える思考回路はない。

 ならば、この国はどうすればいいのだろう。やはり健全な愛国心を育てることを再考するしかあるまい。国家というより、自分が属する共同体のために尽力することの貴さを考える機会を設けるべきだ。その意味で町内会とか青年会のような組織は実は有意義なものであったことになる。

 伝統的な人々の紐帯は因襲的になると弊害があるが本来は意味のあるものであった。そういうことを見直す機会は必要ではないだろうか。

先生はいませんか

 全国の小中学校で教員が不足しているという。なかには退職者を呼び戻したり、管理職が教壇に立ったりしている。原因は教員のなり手が少ないことや、病気や出産で抜けた穴を補えないことにあると言われている。

 恐らくこの状況はしばらく続くだろう。少子化が進む中、教育が成長産業とは認識されていないのに加え、勤務体系が不明瞭で過労死ラインを超える労働を課せられると考えられがちだからだ。これは必ずしも正確ではない。

 学校にもよるが退勤時間を強制的に早める措置で労働時間は短縮する傾向にある。満足いくまでとことんやるのが教員の基本的な気質だが、これは雇用者がそこまでやらなくていいと公的に伝達したことであり、大いに手抜きしていいのだ。ただ、そうは言っても理想を求めるならば優先順位を決めて、決めたものも合格水準をやや下げてやる他ない。教育は継続性が必要だ。一度限りの成功では結果的に失敗に繋がる。

 労働時間を割り切れば、次は業務分担もしくは委託で次の関門を乗り越えたい。部活顧問についてはすでに何度も述べたことがあるが、地域との連携がいる。責任の所在をしっかりさせて教員以外にも参画してもらう方が、質的向上も社会的影響力も高まる。生活指導や進学進路指導も専門職を設けて特化した方がいい。担任が全てをやる現状は一見効率的だが、効果的ではない。

 こうした整備ができればまず教員になりたいと思う人材が増えるだろう。新卒はもちろんだが、結婚や出産、転居などで退職した教員を呼び戻すことも容易になる。数学なら数学の授業に集中できるのだ。独善的な授業は困るので教授法に磨きをかけてほしい。その時間もできるはずだ。

 定年をもう少し上げることや、教員免許更新制度という意味不明だった制度のため、免許が失効していると思われている人(していません)にも再登場していただける環境も整備するべきだろう。

 教育はこの国の要などといわれながら、教員を軽んじていたつけがきている。誇り高い職場になれば、いい人材が集まり、残念な教員たちは減るはずだ。

外そうにも

 マスクを外してもいいという社会的環境は整ったが、いまだに多くの人は止めない。これには防疫という観点だけではない要因が様々にある。

 私の結論はマスクをつけるのは個人の判断でよいというものであり、着用の有無を問題にはしない。コロナ以前からも真夏でもマスクをつけていた人はいた。一種のファッションであり、個人の自由というべきものである。ただ、パンデミックでマスク着用を強要された人々がマスクの効用を発見してしまったということが大きな要因である。

 マスクはもっとも不自然ではない変身の方法でもあった。変装すれば怪しまれるがマスク着用は簡単に群衆に埋没する手段として使われる。私たちの人物の認識方法は意外と単純であり、髪型や眼鏡の有無など一部の要素だけを取り上げる。だから、マスクの人はそれだけで一つの分類基準になるわけだ。これを逆に考えればマスクをつけることで簡単に大分類の中に組み込まれるのである。

 マスクを外すことはこの隠れ蓑を捨てることであり、その意味では身を晒すことなのであろう。だから、いきなり外してもいいと言われても困るのだ。外そうにも外せない。それがマスクは不自由と言いながらもつけ続ける人々の心理にあるのではないだろうか。

自意識

 正直に言って本当は理解できていないのが性同一性障害である。心と身体が一致していないというのだが、では心とは何か身体とは何かを考えなくてはなるまい。

 心とは自分はこういう存在であるという意識のことだろう。この意識がかなり強固で他人から見られてそう思うのではなく、自らそのように考えていることになる。一般的には自意識の形成には他者の関与が不可欠だ。誰かにあなたはこういう人だと言われていくうちにそういう人になる。

 ところがこの場合は他人から逆の扱いをされながら、それに抗う形で自意識を形成することになる。あるいは他者にとっての他者が自分という考え方自体が間違っていたのではないか。そうも考えさせられる。

 考え方を変えてみる。生まれながらに自分にもともと自意識があり、それが自分とは何かを決めているとする。この場合は心と身体が一致しているわけだから、何の問題も生じない。性的指向が多くの別の個体と違っていても、自分がそういう存在であると知って振る舞っている訳である。社会全体がこの考えなら、多様性はそのまま受け入れられて問題はない。

自意識の持ち方は多様だ。

 自意識が自然発生的にもしくは本能的に生じるものなのかと言えば、私はまだ懐疑的だ。日本に生まれ育てば、価値観や人生観はその集団に共有されるものになる。それは男女の性別や、人種などとは無関係であろう。やはり、社会の中で自我が形成されると考える方が分かりやすい。ならば、男らしく女らしくというジェンダーもそれが所属する集団の中で形成される。そのとき社会の成員は外見上の身体的特徴をもって意識付けをしていくはずだ。

 トランスジェンダーと呼ばれる人たちの意識はこうした事実と異なっているように思える。でも、よく考えるとそうでもないのかもしれない。自分が属する共同体の中で男らしくあれと有言もしくは無言で規定された人は、そのように振る舞うことで自意識を形成する。つまり演じているのである。この演じるものを何らかの事情で反対のものにした場合、別の自分を演じることになる。演じるという表現は誤解されるかもしれない。これは上辺をごまかすのではなく、自分の身体を自分の心がどのように動かすかということである。これには脳の動き方も含まれる。

 身体は男だけれど心は女という場合、この人は女を演じようとしているのに、身体がそれに合う形をしていないということだろう。

 少々複雑になったが、自意識が自分の属する集団の影響下で形成されるのは間違いではない。ただ、その中で形成される自意識とは自分が自分の身体をどのように操るか、どのように振る舞うかということであって、ここで反対の性を演じる対象として選んだ場合にトランスの状態が起こるのだろう。

 ここまで書いてきたが実は納得できていない。今のところは言語操作をしているに過ぎない。ただ、こういう試みから、自分とは何かを考えることはできるという感触は持てた。