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大衆を相手にするならば

 韓国の女性タレントが日本で性的ハラスメントを受けたとの報道が出ている。この方の存在は全く認知していなかったし、今でもよく分からない。ただ、同胞が不愉快な思いをさせたことを申し訳なく思う。痴漢行為をした輩は速やかに罰を受けるべきだ。

 日本人は、というより男という者は理性的には行動できない。男は抑圧的に日常生活を送っているものの決して理に従っているわけではない。だから、安易に男を信じてはいけない。あなたの国と同じなのだ。ファンは大切だが距離は置いた方がいい。

 一言余計なことをいうなら、日本人は手の届きそうで届かない存在をアイドルと感じる。あなたの間合いは近すぎるのだ。日本で成功するなら、近づきすぎない方がいい。握手するのに大枚を要求するのは理不尽のようで意味がある。

 昭和時代のアイドルは基本的には一人であり、事務所の意向に服従していた。キャラクターの設定からプライベートのあり方まですべて他人任せで自主性は感じられなかった。それがいいとは全く思わない。自主性のないのはよろしくない。ただ、一人のものの見方に固執しない社会を市場と捉える方法はできていたとも言える。

 大衆を相手に商売をするためにはそれなりの方法論がある。自分の価値を保つためには距離をコントロールすべきだ。それさえできれば日本で成功することはたやすくなるだろう。

 

脇役の大切さ

 今更言うまでもないが、演劇において脇役や敵役の大切さは非常に大きい。主役が光るためにはその周囲にいる人物が個性を発揮しなくてはならない。

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 私たちの認識というものは対比という仕組みを大切にする。比較や変化を通して物事を特定するのが私たちの考え方の基本なのである。だから、ある人物のキャラクターを考えるときは、それを知るための物差しがいる。演劇などではその物差しを極端に際立たせることで、わかりやすく人物像をつかませようとするのだ。悪役はあくまで悪に徹し、恋人は魅力的でなくてはならない。ただ、それがあまりにわざとらしいと類型的になってしまうため、さまざまなオプションを加え、変化をつけるのである。

 人生を描写したものが舞台なのであるが、舞台は人生を見つめなおす鏡にもなる。私たちが物事を判断しているのはあくまでも他との比較であり、自分の存在は他者の存在を前提としてしか理解されないということを考えるべきなのだろう。私たちは主役として生きていながら誰かのわき役にもなっている。それをどちらも堂々と演じるべきなのだ。

群集心理

 人命に関わる大事故は絶対に避けなくてはならない。コロナ開けで様々なイベントが再開する中で、中断期間にリスク回避の方法がどれだけ継承されているか、人件費削除のために警備に割く人員を減らしていないか懸念される。最近の日本人の心理として人件費削減のためのサービス低下は仕方がないと諦める傾向があるが、これは譲れないものである。

花火の季節

 各地で花火大会が復活し、かなりの人を集めているという。そこで問題になるのは群集心理による事件や事故が発生しないかということだ。2001年の明石市の事故は花火大会の報道とともにいつも想起される。群衆事故として世界的にはソウルの梨泰院のハロウィンでの大惨事が思い出される。その他エンターテーメントや、スポーツイベントなどで数多くの事故が起きてきた。

 参加する側のモラルも低下していないか。世界のスポーツイベントで清掃をして帰る選手と観客に称賛が送られるのは誇りになろうが、ゴミを勝手に捨てていく近隣の人々のいる現実との齟齬が大きすぎる。恐らく私たちには二面性がある。注目されているときには礼儀正しいが、自分と無関係の人々が周囲にいると認識したとき傍若無人になる。かつて中根千枝が指摘したほどであるかはわからないが、我々は余所者に対しては無礼になりがちだ。その意味で日本人は民度が高いとかモラル意識の高い国民と評する人がいるときに疑問を感じるのだ。

 花火大会ではまずは自分だけいい場所を取ろうなどと考えないことだ。そして花火は空中に飛び散る火薬の燃焼の集合体だけでできているのではなく、それを見る人達の感動とか幸福感と複合してできているということを思い出すべきだ。その場にいる人が不愉快になるようならばそれは花火ではないということだ。その場を共有しているという思いが持てれば焦ることはない。事故も起きにくい。モラル違反も起きないだろう。

 群衆事故の悲劇は犠牲者もその周りにいる人にも大抵の場合は悪意はなかったということだ。ただ、後から考えればちょっとした配慮が欠けていたということになる。これから人が集まる行事が増えてくるが、これだけは考えなくてはなるまい。人間の脳はある程度の人数を超えてからは行動の方法が分からないようだ。対応できないという事実を知っていれば、少しは悲劇は防げる。

教科書2冊配布もしくは

 義務教育の教科書は税金で賄われている。裏表紙にはこれは国民の税金で提供されているものだから大切にするようにという注記がある。しかし、この教科書が重い。

 いくつかの教育委員会では教科書を学校において帰ることを許可している。荷物を軽くするためには仕方がないという訳だ。タブレットやパソコンは持って帰れという。私は逆がいいと考える。

 教科書類が重いのは事実だが、大抵の場合、毎日の詰替ができていないことで必要以上に重くなっている。資料集などは自宅に置かせ、授業で必要なものだけを持参させるのがよい。パソコンやタブレットは学校に置いて行かせ、充電もできるようにすればいい。鍵のかかる充電器具の確保などの設備投資はいるが。

 家でネット検索をさせる必要はない。多くの家庭では子どもに貸せるパソコンを持っているかもしれないので、家庭での検索は禁止などと言っても無意味だろうが、少なくともデジタルデバイスで宿題をやらせるべきではないだろう。

 紙媒体の教科書による学習効率はやはり高い。だから、家では伝統的な学習法に集中させた方がいい。この方が成果が上がるはずだ。子どもの頃からデジタル機器になれさせるべきだ。使えないと困るという親は今のデバイスの使いやすさを知らないのかもしれない。少なくとも義務教育の間にプログラミングやデジタル処理技術は教える必要がない。余裕があり、趣味的にやりたいならば学ぶべきだが、少なくとも他の基礎的学習の時間を削ってやる必要はない。

 それでも鞄が重いというならば、検定教科書の2冊目を有償で販売してもいいと考える。価格設定は高めでもいい。1冊の教科書に書き込んで使い尽くす方がいいと思うが、必要な人には売るという方法もある。コンピューターを使って考えたふりをするよりも遥かに期待できることが多い。

ソーシャルメディアという形容矛盾

 Twitterの方針転換に関しては何度か問題になってきた。トランプ前大統領のツイートを排除するかしないか、リツートの回数を制限するとか、そういうことが最近話題になっている。

 恐らく、TwitterにしてもFacebookにしてもそれを提供する企業の事情でこれまでも強制的に方針が変更されてきた。これからもそういうことが繰り返されるはずだ。ソーシャルメディアは日本ではソーシャル・ネットワーク・システムなどと言われてるが、いずれにしても実はソーシャルではなく一企業の商品に過ぎない。ただその上に、政治家も企業も乗っかっていくのであたかも公器のようなふりをしているだけだ。

 これに頼りすぎるのは危険だし、そもそも公のものではないことを知るべきなのだ。そうでないと一部の企業経営者の思惑に踊らさることになる。ただで使わせてくれる利点だけを活用して、活用されないようにすることが市民の心得ということになるだろう。

何があるかわからない

 予測がつかないのは今に始まったことではない。未来予想のほとんどは外れてきたし、これからも外れ続ける。コンピューターの精度が上がって天気予報は外れにくくなったが全く外れないわけではない。むしろ期待値が高まった分だけ、外れた印象は大きくなっている。

 自然現象でさえそうなのだから、人間が作り出したものの行く末など分かるはずがない。自分のことなら分かるだろうなどと考えても無駄だ。自分のことがこの世の中で最もわからないことだと言える。

 何があるかわからないのなら、焦らずにその場で状況に対応するしかあるまい。その方が実はもっとも効率的だ。最低限の備えは必要だが、それ以上を持っていても結局使えない。必要なのはものではなく、冷静に対処できる判断力であり、スキルである。いらないものを捨てて、必要なものを大切にすることをもう一度考え直したい。

 私の世代は物質的欲望に踊らされすぎた。本当に必要ではないものを無理に買わされてきた。本当は価値などないものに魅力を感じるように誘導されてきたのである。それは本当にいるのか、なくてもいいのではないか。逆に他人には魅力がないものでも大切な物はあるのではないか。再評価をすることで次の段階が見えてくる気がする。

 何があるかわからないのだから、何をするかはせめて自分で決めるべきだ。

ジェンダーギャップ

 性差による待遇格差が数値化されると我が国は下位に沈む。男社会が続いているということだ。私個人の環境では上司は女ばかりなのでそのような感はない。ただ国会議員の顔ぶれなどをみれば男が優位なのは間違いない。

 女の上司を持つことに私は何の抵抗もない。感情的で一貫性がないということを感じることはあるが、これは男にも当てはまる。部下としては安心して仕事ができればそれでいい。

 女の管理書が少ないことにはいくつかの要因がある。育児などの家事負担が女性に偏っていることはその一つだ。しかし、これも変わりつつある。男が育児休暇を出すことも稀ではなくなっている。

 ならばなぜ女性のリーダーが少ないのか。もちろん伝統的な男社会の因襲は大きい。それ以上に人材不足が原因と言える。リーダーとすべき女性が少ないのである。

 男女均衡のために資質のない人物をトップに据えるのはリスクが大きいすぎる。だから、いまは性別など関係なく相応しい上司を選ぶべきなのだ。結果として男の数が多くてもそれは不健全ではない。逆にほとんど女になってもまた然り。今の日本に性別を選ぶ余裕はない。なるべき人になっていただく。それでいい。

他人にとっての自分

 自分のことを理解してくれる人がいると信じていたのに裏切られるということはいくらでもある。歳を重ねるほどそれが当たり前となり、受け入れることもできるようになっていくが、かつてはそれは無理だった。

 自分が特別な存在であり、かけがえのないものであることは誰にとっても同様だ。いまではそんなふうに考えることはできる。あるいはそういう考え方をとることで心理的な難局を乗り越えられる。でも、かつてはどうだったろうか。自分だけが不当に扱われているとか、いつもの不運だとか考えていたことを覚えている。

 自分は他人にとっては他人であり、その他人から見た自分がどのように見えているのかは分からない。自身が考えている自画像と一致していないことも多い。それが乖離していると不幸だと感じやすくなるのかもしれない。

 やらなくてはならないことがいくつかある。まずは自画像の描き直しだ。というより、勝手に描いた輪郭線を引き直し過去にこだわらないことだろう。また、その絵がどう見られようと気にし過ぎないことだ。それぞれの作品には素晴らしい味わいがあり、疵もある。それは他人も同じだ。

 人間が集団で生きていく以上、他者との関わりは避けられない。自分の存在と他者との関係をどのように調和させるのか。若い人にはこのことを伝えていきたい。

典型的な日本人

 国民性を語る場面は多い。日本人らしいとか、日本人の特性とかいう。スポーツの大会などで観客席やロッカールームを掃除して帰ると日本人らしいといい、周りを気にしていつまでもマスクを外せないもの日本人らしいという。あっているようであり、間違っているようでもある。

 典型的な日本人などいるのだろうか。日本人の代表を一人選ぶとしたらそれは誰だろう。恐らく誰も選べない。日本人の中の日本人などと言える人はいない。これは日本だけではなくどこの国や地域でも同じことだ。

 それなのに日本人論は書店では売れ筋であり、それがいつも絶えることがない。日本人とはどういう民族なのかは日本人が常に気にしていることなのだろう。

 そもそも、日本人とは考えることの裏側には他の民族との比較の考え方がある。自分と異質のものを見つけてそれを基準にして比べようとする。ある国の人はこうだが、日本人はこうだという形の論調になる。内田樹氏の言葉でいうならば常にきょろきょろしているのだろう。

 これは短所でもあるが長所でもある。常に相対的に自分の位置を確かめようとすれば、だいそれた失敗はすることが避けられる可能性が高い。その代わり、自分たちの個性を肯定的に捉えられず、発展を阻害することもあるだろう。ひところよく言われたガラパゴス化なることばがネガティブに捉えられたために、世界標準ではないものの多くの独自進化が止められてしまった。そのまま開発を続けていればもしかしたら、世界標準になったかもしれないものもあったはずだ。

 典型的な日本人がいないのと同じように、典型的な男も女もいない。典型的な人間もいない。合成して作られる平均顔のような本当はいない存在を実在すると信じ込みやすい現状に危惧を覚える。まとめていいものとそうでないものがある。

古典教育不要論者の気づかないこと

 古典教育に対する批判には伝統的なパターンがある。そんなことをやるならばもっと実用的なことをやったほうがいいという考えだ。これをかなりの学識者がいうから騙されてしまう。

 古典不要論者は自らの意見が古典の知識でできていることに気づかないか敢えて無視している。古典を学ばずに過ごせば実用的な人間になれるだろうか。プログラミングを教えろという人は、おそらくそのスキルを習得するのに苦労したのだろう。そして成功し、もっと早くからやっていればよかったと考えたのだ。投資などの金融スキルを子どものときから教えろという人もいる。さぞかし儲かっているのだろう。

 気をつけなくてはならないのは、プログラミングもファイナンシャルスキルも年々習得しやすくなっており、何も小中学校で教えなくても十分にものになるということだ。こういうやり方が決まっているものはコンピューターに代替されていく。

 人工知能の発展は答えのある問いの処理には人間は敵わないことを痛感せしめている。大事なのは非定型かつ意味のある情報をどれだけ持つかであろう。古典文学や歴史から学ぶことは多義性を持つ曖昧なものが多いがそれ故に大切な思考の材料となるものだ。それを学ぶのを止めようというのは自ら進んで機械の配下に降ろうと言っていることと変わらない。いい加減にこのことに気づくべきだ。