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世代感覚の差

 たまたま立ち寄った食堂で従業員同士で話しているのを聞いてしまった。曰く高校生のアルバイトとは常識がなくて困る。こちらが10言っても2か3しか理解してもらえない。常識というものが通じない。全く困ったものだけれど、来てもらわないともっと大変だから仕方がない。

 要約すればその様な意味のことを数回にわたって別方向から繰り返し話している。さぞかし苦い思いをさせられたのだろう。執拗で悪意がこもっていた。そう話している男を見てみれば彼も私から見れば十分に若い。話を聞いている先輩格の男も私からすれば若手の方だと言える。彼らにとって高校生のアルバイトの振る舞いは許しがたいものらしい。

 それを言うなら、と私は思う。私という客がいる前で、業務上のトラブルを話す神経が理解できないとも言える。非常識と主張している君こそ何か間違っていませんかと言いたくなる。世代的な格差というのはこのように重層的にあるようだ。この文章をお読みなった先輩の中にはこう考える人もいるだろう。何を小さなことをこだわっているんだ。そんな胆力の小ささは理解しがたい、などと。

 学生の頃、新人類などと呼ばれ、最近の若者はと嘆かれた。いまはそれを次のもしくはその次の世代に向けて同じことを考えている。だからZ世代はとか言い方は変わっているけれども。世代による感覚の差は育ってきた環境によって変わる。時間とともに劣化しているのではない。自分に馴染み深い習慣とは異なる振る舞いをされることが耐えられないのだろう。私もそう感じる一人である。

デザインを楽しむ気持ち

 デザインの不思議というものがある。実は全く同じものでも色合いや、ちょっとした装飾があるだけで雰囲気が大きく変わる。例えばいつも使っている手帳に植物の柄のシールを貼っただけで開く回数が増えた気がする。表面的なすこしの変更でも変わるのである。

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 さらに形を変えたり、人が使いやすいような工夫を施したりすることで使い勝手は大きく変わる。このことをもう少し重視すべきだというふうに考えるようになった。

 物事の根本的技術的な改良には経験と時間とが必要だ。これはなかなか一般人が参加しにくい。しかし、出来上がったものを自分の使いやすいようにデザインすることは誰にでもできる。そういう気持ちを持っていればであるが。

 私ができるデザインとしては先程のべた装飾などの付け加える作業や、複数のものを組み合わせること、場合によってはある要素を取り除いて機能を限定してしまうこと。あるものを他のものの中に内蔵してしまうことなどがある。こういうデザインを考えることは日常を楽しく豊かにできる。

 もののデザインのことばかり書いたが、行動の仕方や考え方にもデザインができる要素がある。形はないが敢えてやり方を変えてみることだ。習慣的に行っていることを変えるのにはエネルギーが必要であり、覚悟もいる。デザインを楽しむというマインドがあればそういうことも達成できていく気がする。





背筋を意識的に伸ばす

 背筋を伸ばすことを意識しておかなくてはならない。まだ高齢者とは言えないが、それに近づいている私は様々な身体の異変を日々感じている。加齢すれば起きることであるからこれは仕方がない。どんなにうわべを飾っても身体的な変化は避けられない。

 白髪についてはずいぶん前から認知していた。今は定期的に染めているので気づかないけれども何もしなければほぼすべてが白髪のはずだ。皮膚のしわは隠せない。ただ、こちらは日々見慣れているせいで逆に注意が向くことはない。自然に抜けた歯がもっとも加齢の悲哀を感じさせる。

 なんとかできそうなのが背筋である。背筋の衰えなどから猫背になり、やがて腰が曲がる状態になる。これについても私は高齢化の悪魔からの招待状を受けているような気分になることが多い。なるべく荷物を持って歩くこと、そしてときに意識して背中や首を伸ばすこと。背筋の衰えを克服することを意識することを考えている。気がつけば曲がっている腰をその都度直すのである。

 今のような生活がいつまでできるのかわからない。なるべく健康を保ち、自分にも他人にも迷惑をかけないようにしたい。





別れの季節

 年度末が3月である日本は今が別れの季節でもある。私のような仕事をしていると実は周期的な繰り返しに過ぎないのだが、それでも端境の時期には独特の感情が起きる。

 小さな変化を区切りとして考えるのは、時間の区切りに意味をもたせることで特別な価値をもたらす一つの知恵である。ただ過ぎていくだけの時間に節目をつけ、目に見える区切りを設ける。それによって自分の現在地を確かめようとするのである。

 別れの季節は自分の新しい可能性を見出す機会でもある。親しい友人との別れは辛いが新しい自分を引き出してくれる人との出会いもある季節なのである。

 

礼服

 この時期になると礼服を着ることが多い。日本の略礼服はネクタイの色を変えるだけで慶弔を切り替える。便利だが複雑な思いにもなる。この前これを着たときはどうだったかといった思い出が湧き上がる。そして、それはときに切ないものである。礼服をあと何度着るのだろうか。

今日から三月

今日から三月である。私の仕事にとっては年度末のいろいろある時期で無難に乗り切りたいとばかり思う。切れ目節目の時でもあり、私としても今年度で終わる小さなことを仕上げ、次に続く何かを模索していかなくてはならない。やるべきことを書き出して、優先順位をつけてと、毎年やることを今年も始めよう。今年は少々緊張感をもって。

古いコート

 寒さが復活して再び厚手のコートに戻した。このコートは実は20年近く着ていてかなり劣化が激しい。両袖の表面の生地にはいくつか亀裂があり、裏生地にもほつれがある。それでも着続けているのは私が外見に無頓着ということもあるが、それ以上に愛着があるからかもしれない。

 量販店で購入した布地のコートは特に高級なものではない。デザインも平凡であり、今どきの製品に比べれば厚手でその分重い。ダウンなどにすれば、もっと軽く温かいものもあるはずだ。ただ、この布団を着ているかのような重みに慣れてしまうとコートはこうでなくてはならないなどと勝手な思い込みが出来上がっているのである。

 また、このコートを着て出かけた数多くの場所や、そこで味わった喜怒哀楽の数々を思い出すと、これが自分の過去の確実な一部であると感じるのだ。だから、機能面とか美意識とかそういうものとは別の意味をこの古着に感じていることも、思い込みの上塗りをしている。

 東京に戻って数年後にこのコートを駅前にあったモールで購入した。当時は結構スッキリしたフォルムのように思えたし、人に褒めてもらうこともあった。それを冬になるたびに引っ張り出し、その季節は毎日来て出かけている。仕事でも休日でも着ているので利用価値は非常に高い。購入した価格を使用した日づけで割れば、一日あたりの価格はかなり安いはずだ。

 最近はさすがにほつれが気になり、別のものを買おうかなどと思うこともあるが、実際には買い替える気持ちは小さい。定年までの間はよほどのことがない限りもうこれでいいかと思う。世の中には新品をわざわざ経年加工して着る人もいるらしいが、これは天然の古着であり、その意味では味のあるものと言えるだろう。もう少し付き合ってみたいと考えている。

気温急降下

 今日の日中は汗ばむほどの陽気だった。関東地方で夏日を観測したところもあるという。2月にして夏というのは異常というしかない。ところが、明日は気温が急降下し、更に今週末にかけて低温傾向が続くという。週間予報では雪のアイコンが付いている日もある。全く激しい変化だ。最高気温が10度以上下がる地点が多いのだと聞く。

 咲き始めた梅花の勢いはもう止められないだろう。しばらく寒い日が続いても高温傾向には変わらないようで、桜もかなり早くなるのかもしれない。このところ桜は入学式の花というより卒業式の花となっている。さらに気候変動が続けば、私たちの季節感はかなり変わったものになるのだろう。

 このころは気温や天候の変動が激しいことが特徴である。季節が変わるときの身震いのようなものと考えている。

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物質的な視点

 科学の本を読んだ後は私たちが見ているものは自然現象の一過程に過ぎないと考えてしまう。いろいろな現象が重なり合って私が感じる現実が形成され、その印象から概念が形成される。こういう思考方法では、私たちの見ている世界は極めて物質的な偶然性の産物ということになる。

 それにしては私たちの経験は多種多様であり、そこに法則性は見いだせないような気がする。ある現象と、別の現象の間に因果関係があるといえばあるが、ないともいえる。それが私の考える実感である。物質的な観点に立てば、私が見ている様々な現象は本質的には一つにつながっていることになる。そうは見えないけれど。

 すべての物事が統一的な世界の中に含まれるという考えは、むしろ宗教に近い。物理学者は宗教の対局のようでありながら、実は最も宗教的な考えを持つ。私はその深みには全く近づけないが、自分の実感というものがどこまで自分のものなのかという素朴な疑問を繰り返している。

コートチェンジ

 このところ暖かい日が続いており、真冬用の外套では汗をかくようになった。少し薄いものに変えようかと考えている。

 ただ、今週後半からまた寒さが戻るようなので躊躇をしている。ただ、朝晩を耐えればもうマフラー手袋は要らないかもしれない。

 季節は確実に移ろいつつある。