世代感覚の差

 たまたま立ち寄った食堂で従業員同士で話しているのを聞いてしまった。曰く高校生のアルバイトとは常識がなくて困る。こちらが10言っても2か3しか理解してもらえない。常識というものが通じない。全く困ったものだけれど、来てもらわないともっと大変だから仕方がない。

 要約すればその様な意味のことを数回にわたって別方向から繰り返し話している。さぞかし苦い思いをさせられたのだろう。執拗で悪意がこもっていた。そう話している男を見てみれば彼も私から見れば十分に若い。話を聞いている先輩格の男も私からすれば若手の方だと言える。彼らにとって高校生のアルバイトの振る舞いは許しがたいものらしい。

 それを言うなら、と私は思う。私という客がいる前で、業務上のトラブルを話す神経が理解できないとも言える。非常識と主張している君こそ何か間違っていませんかと言いたくなる。世代的な格差というのはこのように重層的にあるようだ。この文章をお読みなった先輩の中にはこう考える人もいるだろう。何を小さなことをこだわっているんだ。そんな胆力の小ささは理解しがたい、などと。

 学生の頃、新人類などと呼ばれ、最近の若者はと嘆かれた。いまはそれを次のもしくはその次の世代に向けて同じことを考えている。だからZ世代はとか言い方は変わっているけれども。世代による感覚の差は育ってきた環境によって変わる。時間とともに劣化しているのではない。自分に馴染み深い習慣とは異なる振る舞いをされることが耐えられないのだろう。私もそう感じる一人である。

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