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好きなことを学ぶのは効率が高い

 想像に易いが自分の興味のあること好きなことを学ぶ効率はかなり高い。子供のころに夢中になった趣味の様々な詳細情報は瞬く間に覚え、そしてなかなか忘れない。学ぶ対象が好きなものであることはかなり大切な学習要因である。

 しかし、何もかもそうとは限らない。好きなことだけ学べればいいが、そうはいかない。好きなことだけ学べばいいのかといえばそれも困ったことに不可能だ。好きでないならば学ばなくていいというようには社会はできていない。

 ならば、今は好きではなくても次第に好きになるように自分を変えていくしかない。その方法は環境を変えたり、交友関係を変えたり、何らかの工夫が必要になる。何をやっても興味が持てないのならばその分野はあきらめるしかあるまい。たいていの場合は無理やり進めているうちに何らかの興味が湧いてくるものだ。それをが急意欲の糧にすればいい。

 最近の脳科学者の発言の中にはにわかに信じがたいものもあるが、自分の理想をあえて口にすることで自分の脳をだますことができるらしい。自分は数学が好きでたまらないと言いまくることで本当に好きになるというのだ。自分の脳を欺くというのだから、かなりの上級テクニックだ。でもこれが意外と効くらしい。

 嫌いなものは好きだと言い続けて本当に好きになってしまうこと。それがいまどきの学習方法だという。呪文を唱えると魔法が使えるといったのと近い気もするが、案外そういうこともあるらしい。不思議なものである。

日曜名作座

 NHKラジオ第一放送の日曜名作座を久しぶりに聴いた。正確には新日曜名作座で西田敏行と竹下景子がすべての配役を演じ分けるラジオ劇である。男役と女役をそれぞれの俳優が分担するわけだが、当然、男から男、女から女のセリフ渡しもあって、それを演じ分ける必要がある。ベテランの俳優ゆえ安定の演技を安心して楽しむことができた。

 この番組はもともと森繁久彌と加藤道子の二人で行っていたもので、調べてみると1957年から2008年まで放送されていたという。この二人の名演はいまでも印象に強く残っている。学生の頃は芸能人のディスクジョッキーの方をよく聴いていたが、なぜかこのラジオ劇は好きだった。俳優ゆえの独特の人物造形とテンポと間の絶妙さは今でも私が本を朗読する(職業柄)ときの手本となっている。お二人の病没のあと、後継の番組が今でも続いているのは嬉しい限りだ。西田、竹下版となったのが2008年というから、もうこれも長寿番組と言える。

 映像のないラジオ劇は演じ手の表現力がそのまま伝わる気がする。そしてそれを感じ取る聞き手側にも想像力が必要になる。時代遅れなのも知れないが、音声のみの世界がかえって雄弁であることを再認識したい。そして、それを感じる力を落とさないようにしたい。最近は聞き逃し配信なる便利なものもあるのは嬉しいことだ。

昭和のイメージ

 昭和生まれの人間にとって昭和の多様性は説明不要だ。しかし、昭和が歴史時代としか考えられない世代にとっては非常に不思議な感覚だろう。第二次世界大戦の始まりそして終戦も昭和であり、復興から発展、経済成長のすべてが昭和なのだから、近代史において最も濃密な時代と言えるだろう。

 昭和を知らない世代にとっては何とも計り知れない時代だろう。だから、どこに焦点を当てるかで全く違った時代感になる。さらに昭和生まれも何年に生まれたかによってその感覚は異なる。私のような世代と昭和晩年では同じ昭和生まれでもかなり価値観が違う。私の父も昭和生まれだったが、全く異なる価値観だったことは言うまでもない。それぞれの昭和生まれが自分の知る昭和を基準にしてものを考えるから、非昭和の世代の人がますます混乱することになるのだろう。

 昭和時代は決して理想的な時代ではないがこの国にとって大切な時代であったことは間違いない。この期間に得た成功や失敗をこれからの生かしてもらいたい。それが引退間近の世代が若い人たちに伝えたいことだ。

少ない言葉で

 先に人工知能による画像生成システムの話を書いた。画像を作成するための指定が短いフレーズでできていることは驚きだった。そして、この考え方は実は人間の認知の方法そのものであると気づいたのだ。

 複雑で多彩な絵を完成させるためには多くの指定が必要だ。つまり多くの語意があることで満足できる絵が描けるようになるということだった。ただし、文学にはそれに逆行する考えもある。短歌や俳句などでは使う言葉を限定することで成り立つ短詩形文学だ。先の絵画作成アプリに例えるならば、指定できる言葉の数が限定されている。その中で何らかの絵を描く必要があるということだ。

 思い通りの詳細は描けない。ならば、最低限必要な輪郭なり、色彩なりを提示することで世界を描くしかない。限られた上限で何ができるのかを追求するのが短詩形の特徴であり、それゆえに生まれる効果が短歌らしさ俳句らしさを生み出している。描くのに多くの筆を使わず、色彩も限定する。この美学は顧みるべきだろう。

 少ない言葉で表現される短詩形文学ではあるが、その世界をつかみ取るまでは過去の経験や豊富な語彙が必要になる。多彩な材料の中から枠組みに合うものだけを厳選するというのがその本質なのだろう。

賑わい

 コロナの制限が終わって様々な制限が解除されつつある。様々なイベントも復活している。イベントを整然と行うのは日本人の得意技の一つだ。楽しむためには節度が必要なことを社会生活の中で習得できているからだろう。

 祭りというのは日本の社会を維持していくための重傷な要素であると感じている。日本文化には晴と褻という対極があって、晴の場面では様々な特殊能力が発揮される。それが日常のブレイクスルーとなり、社会を変えることもある。そしてまた褻の説活に戻って何事もないように秩序を重んじる生活に戻る。これが日本の文化的な特質なのだろう。

 日本人の特性は晴の時間にどれだけ日常を逸脱できるかにある。祭りはその逸脱の場であるはずだ。日本人の能力を最大限に活用したいならば、これに対する寛容性を身につけるしかあるまい。

ハイブリッド

 日本の文化を一言で言うならば雑種と言うことなのだろう。こういうと国粋主義者には必ず批難される。だが、雑種こそ最強であることは様々な事例から明かされている。

 雑種と言わずにハイブリッドといえば少しはいいのだろう。一つの色に染め上げない選択こそ、この国の叡智である。ただ、単なるごちゃ混ぜではなく、何らかの秩序を求めるのが日本らしさだ。日本風というのは素材とか方法論ではなく、他に根源のあるものをミックスしてもそこに一定の美意識を持ち込み整然としたものに見せることなのだろう。

 だから、ほとんど日本らしい要素がないものであっても、でき上がったものは他国にはあまりないユニークなものになる。それが和風の本質なのだ。

 こうしたことは日本に限らずどの国、地域にもあるはずだ。ただ日本の場合はこの混ぜ合わせの度合いが深く細やかだということになろう。

 日本の発言力が低減しているという考えがもし当たっているとするならばこのハイブリッドの能力を発揮できていないことによるものだ。下手に他国に合わせる必要はない。しかし、つねに他国の文化を取り込む寛容さと貪欲さは必要だ。

応援の仕方

 球場に歓声が戻ったのは大変うれしいことだ。WBCの中継では久しぶりに声を出しての応援風景も見られた。鳴り物入りの応援は日本の野球の特徴であり、野球の魅力の一つになっている。

 ただ、私たちは無観客試合の中継を通して打球音や、選手たちが味方に檄をとばす声などを聞いてしまった。それは野球のもう一つの魅力を思い出させてくれた。このスポーツはかなり大きな音がするスポーツであり、またチームワークが大切でかなりメンタルな面が強いということを。

 実際に野球をしている人ならばこのことは知っているはずだ。ただこれまでテレビを通してしか試合を見たことがない多くの人たちにとって、選手の声を直接聞いたり、グラブに吸い込まれるボールの音などは知りようもなかったはずだ。

 華やかな応援と打球や捕球の音を聞く楽しみはどのように共存できるだろうか。私は新たな応援スタイルが生まれることを期待している。それは投手が投球モーションに入ったら鳴り物をとめることだ。ボールがミットに入るか打ち返されたらまた盛大に応援すればいい。

 このスタイルが定着すれば野球はもっと魅力的になる。応援する人は常に選手の動きを見ていなくてはならないし、ともに試合を盛り上げるという自覚が必要になる。単なる自己満足ではなく、選手の気持ちを盛り上げる真の応援になるはずだ。プロ野球でそれができればアマチュアの試合も変わるはずだし、海外でも模倣するリーグが現れるかもしれない。

哲学の重み

 翻訳アプリの精度が上がってきたので非英語の外国ブログを読むことが増えている。最近はスペイン語とアラビア語のブログを読んだ。さすがに機械翻訳の限界と思われる不自然な訳もあり、完全には理解できないが、それでも概要は想像することができる水準までにはなっている。

 それらのブログを読んでいて思うのは哲学の知識がかなりふんだんに使われているということだ。西洋や中東の人々はどうも哲学的な話をするのが好きらしい。自分たちの考え方の尺度、もしくは基準として先哲の考えを引用しながら論を展開することが多いように思える。

 日本の思想家の多くは西洋哲学を熟知しながらも、どこかで日本なり東洋なりの思想背景を感じさせる何かがある。それは自然を包み込むような包容力のようなものかもしれない。西洋の場合は異論に関しては絶対に許さないという感覚がある。こうした違いがブログのレベルでもうかがえるのは面白い。

 私の記事はそこまで深く考えられていないのは恥ずかしい限りだ。せめて日本らしいものの考え方を分かりやすく示せればと考えている。

みんなマスクをしています

 今日は翻訳ソフトを使って読んでいる方にも誤解なく伝えるために易しい日本語で書くことにした。

 日本の政府の方針で昨日からは多くの場所でマスクをつけなくてよくなった。これまではほとんどの場所でマスクをつける義務があった。これを怠ると、その施設の従業員から注意をされることもあった。それがなくなったのだ。

 2020年ごろ、日本ではコロナウイルスに感染する人は他国と比較すると極めて少なかった。それが、2022年ごろからは感染者数が増えていった。日本人はマスクをつけ続けていた。ワクチン接種する人の割合は国際比較すれば恐らく高かっただろう。しかし、感染者は増え続けてしまった。だから多くの国民はマスクをつけ続けた。理由はよく分からないが、つけている方が安心と言われていた。その結果、ちょっとした問題も起きた。マスクをしていない人への行き過ぎた叱責だ。

 日本人がマスクをつけ続けたのにはいくつかの要因がある。その一つが厳しい自主規制である。法的に刑罰の対象になることはないが、マスクを着けていないという理由で注意されるという場所はかなり多かった。それは国民性の影響もある。

 日本人は周囲との調和を重んじる。だから、自分だけ他人とは違うことをすることは避けようとする。自己の主義を貫くことはしばしばわがままとされるのだ。だから、マスクは明らかに要らない場所でも外すことはない。昨日近くを歩いた公園でマスクを着けていないのは幼い子どもだけだった。

 もちろんこの時期にマスクをする理由はコロナウイルスだけではない。大量に植林されたスギやヒノキの花粉が飛散してアレルギー反応をもたらす。学者によっては日本人の大半がこの手のアレルギーを起こしやすい遺伝子を持っているらしい。だから、マスクを外すのはこのピークが終わる来月ごろからという人が多いはずだ。私もその一人だ。

 日本に訪れる方やニュースなどで日本の街角の映像が放映されるのを見た方はいまだマスクの集団が大半であることを不思議に思うかもしれない。だが、このような事情があるからであり、危険な訳ではない。念のため不織布マスクを一つ鞄に入れておくといい。何かと役に立つだろう。

話の展開

 あまりに忙しい毎日に慣れすぎてしまっているのか、現代人はゆったりとした展開の話をつまらないと感じる人が増えているように思う。

 韓流や華流ドラマを見始めた頃には筋の飛躍や人物設定の荒さについていけなかった。しかし、これに慣れると今度は日本や欧州の一部の映画などに見られる心理描写を丹念に行うストーリーがまどろっこしいと感じることがある。要するに、とまとめたくなってしまう。これは芸術の鑑賞としては残念なことなのかもしれない。

 明快なストーリーは娯楽作品ならばいい。でも、作品を通して人間とは何かを考えるにはやはりそれなりの順序と手順がいる。それを無視すると世界はかなり単調なものとなる。

 話の展開をじっくりと楽しむには受け手側の解釈力も要求される。そういう作品は理解されない可能性もあるので作られなくなっていくのだろう。でもかつての漫画の世界のような明快さばかりで奥深さにかける作品ばかりがもてはやされる現象はあまりいいものとは思えない。