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本を読むには

 読書の推進策はいろいろあるものの、なかなかうまくいかないことが多い。おそらくそれは本を手にとるあり方が人それぞれであって一律な助言では機能しないからのようだ。

 時間がないと読めないのは事実だが、それ以上に習慣がないと読書には迎えない。習慣は始めの定着前が肝心で、それを抜け出せばある程度は成功だ。

 その方法を明文化したい。近々達成したい目標だ。

本を

 読書の習慣を身につけるのは現状ではかなり難しい。読書よりも楽しいことはいくらでもある。その断片はネットで検索できるし、要約したり、映像化したものまで溢れている。読解力を総動員して理解せねばならない読書はハードルが高い行為のようだ。

 それでもやはり読書の必要性はなくならない。むしろ、細かな知識や全体の文脈を知るためには欠かせない。私は教員として読書を推進する立場にある。押しつけではなく、自然に本を開く行動を促す工夫をしていきたいと考えている。

いろんな先生に

 小学校の高学年に教科担当制を導入することが検討されているようだ。人材確保などがうまく行くのかという疑問はあるが基本的には賛成である。

 担任との相性で多くが決まる小学校だが、この制度はいろいろな大人と接することができるのがよい。教える方も授業内容に集中することができるはずだ。

 ただ発達段階を考えれば、児童の気質や能力、家庭環境などの情報共有が一層大切になる。また学習内容や負担に対しても統一感が求められるはずだ。そういうコーディネーターがいた方がよい。

 教え方の質が問われる時代になったことを踏まえて様々な試みはなされるべきだと考える。

地域力

 コミュニティ・スクールという考え方がある。地域の住民、団体、企業が協同で学校と連携して子どもたちに有益な活動を提供するというものだ。基本的に賛成である。

 学校だけに教育を任せることには限界がある。特に多忙を極める教員の効率が低下しているのは大問題だ。教育立国と言っても過言ではない日本の教育が、いくつもの任務を兼任し、片手間で授業をしている(そうせざるを得ない)教員に委ねられているのは早急に改善すべきだ。

 教科以外の教育、例えば地域の産業や歴史に関する知識などは、訓練を受けた地域の非教員にまかせてもよい。心の悩みなどの相談相手、保護者対応なども場合によっては地域の応援で可能だ。学校を地域住民の語り合いの場にすればいろいろな問題が解決できるかもしれない。

 ただ、学校という場の特殊性も考えなければなるまい。日常の秩序から距離をおいた学びの場であることは忘れてはいけないだろう。誰にも努力すれば機会が与えられる空間を学校は用意しなくてはならない。

 少子化の中で人々が次世代の教育に関心を持つことは大切だ。地域で互助の環境が具現化すれば、子育ての不安が軽減して出生率が上がるかもしれない。地域の安全性、治安も向上するだろう。

 学校と地域の連携システムは管理監督をどうするのかといった問題を克服してぜひ実現するべきである。

失われる力

 デジタル教科書の導入を巡って議論がなされている。私は導入には賛成するが紙面の教材も併用すべきだという意見だ。どちらか一方ではよろしくない。

 デジタル教材を使ってみて思うのは、インタラクティブな利点が大きいことだ。どこが間違いやすいのかを即時把握できることは大きい。その場で指導もしやすい。

 ただ、それ以上の弊害がある。様々なことができることが生徒の集中力を奪うのだ。学習には対象と向き合わなくてはならない局面が必ずある。それをマルチな機械が気をちらしてしまうのである。すべてを捨てて、一つに向き合う時間をデジタル教材は奪う可能性が高い。

 ICTのよさは活用しつつも従来の学習方法も継続すべきだというのが私の意見だ。そのために教材の作り方や使い方について一層の工夫が必要だと考えている。

教材にデジタルを導入する際には注意も必要だ

自立のために

 主体的な行動をするためには自立が欠かせない。常に誰かにサポートされていると自分で歩くことができなくなる。自分の筋骨を使って歩くことは苦痛を伴うこともある。しかし、それが大切なのかもしれない。

 私たちは効率化ということに執心しすぎている。生産性と表現することもある。これらは確かにとても大切だが、それだけではない。効率性を築くにはたくさんの無駄が経験される必要がある。その中で飛躍が生まれることがある。始めから最短距離を走ることばかりを考えるようではうまくいかない。

 教育現場にいる私にとっては失敗をさせず、好成績を取らせることが評価基準になっている。果たしてそうなのだろうか。もしかしたら、これは間違っているのかもしれない。安全網を用意しながら、生徒諸君にいろいろな失敗体験をさせることが、本当の教育なのではないか。最近はそのように考えている。

対話型をどうするのか

 新しい学力観の目標を達成するためには自主的な表現力の養成が欠かせない。自主性を育てることは難しいが、表現力はある程度ならば短期的な教育でも伸びる。大切なのは表現する機会を与えることだ。

 授業の中で主体的な表現をさせる機会に対話や討論がある。それが今できない状況にあることは深刻だ。工夫がいる。よく考えるとこれまでやってきた話し合いは効果もあったが無駄も多かった。この機会にそれを考え直すのもいい。対面して話し合えないのなら、離れてやるか、いっそのことマイムにしてしまうのもいい。言葉がいかに大切なのかを実感させる契機にはなる。

 対話することの意味を今ほど考えさせられる日々はない。イノベーションを起こすならばいまだ。

 

師に出会うなら

 教育において師匠の模倣が大切だということは日本の教育に根強く残っている考え方である。ただ、この基底には弟子の師匠に対する無批判かつ無根拠の信用が欠かせない。よく分からないがなんだか素晴らしいと思う人物に出会ったとき、学びの効果は最大限に発揮される。これは伝統的な武道や芸事の世界では普通に見られることだ。

 ところが、今日の学校教育ではそれが通用しない。教師が生徒を評価するのと同様に教員も常にだれかに評価されている。教員としての自尊心は早くから傷つけられ、産業的効率性の中に位置づけられ数値化される。教え方がうまいか下手かが例えば、教えた生徒の受けた数回の試験で計測されていく。これでは伝統的な師は生まれない。学校にいるのは常に自らが淘汰されないかをうかがう労働者に過ぎない。

 伝統的な学びの発動をもたらしたいのなら学校はやめた方がいいのかもしれない。むしろ私塾のような場所で自分の習いたいことを習える環境を作った方がいいのかもしれないのだ。自分にとっていい師を見つけるのは実はとても大変だ。たいていはまやかしかも知れない。でも本当の師匠を見つけた弟子はきっと師を超えることができる。これが東洋的な教育なのだと思う。わずかに大学院の研究室などにそれが残っていると信じたいが、どうなのだろう。

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やる気を喚起

 教員の評価の仕方は決して一様ではない。人間の評価を一つのものさしで測れないのと同様に、教員の評価も多角的に行われるべきだ。最近は何でも経済的効率性に換算してそれが正しいかのようにいう向きもあるが、それはその尺度をもってしても間違いといえる。そう信じている人は経済的効率性がない人そのものだ。

 教員の評価の方法の一つに、相手をやる気にさせる力がある。これは特に中等教育の段階では必要なスキルとなる。というと再びあるイメージをもとに尺度を設定するかもしれない。しかし、話はそうかんたんではない。人のやる気を喚起する方法は決して一つではないし、個々人に向いた、向かないやり方がある。それを知り対処できるのが教員の技能の一つだ。

 これは数値化し難い。それゆえに評価基準から外されている。しかし、これこそがこれからの教員に求められる能力の一つなのだ。

フォント

 どの言語でも同じことが言えると思うのですが、特に日本語は文字の種類が多く多彩なため、それをどのように表記するのかが重要な要素となります。デジタル表記においては字体(フォント)の選択もメッセージの一部と言って構いません。

 最近、難読症の人にも読みやすいフォントが開発され、普及し始めています。字画が適度に太く交差する画が互いを打ち消さないように工夫されています。伝統的な風格は足りないのですが、確かに読みやすい。

 私は今年度から生徒諸君への配布物をこの書体にすることにしました。今までの明朝体やゴシック、教科書体よりも圧迫感や印刷時のかすれが少ない気がします。少し手書きにも似た書体をしばらくは愛用することになりそうです。