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教員の仕事

 日本の教員の仕事が多忙かつ多岐にわたっていることは、その業務に就く一人として実感しています。できることはすべてやらせられるという感すらある。ただ、働き方改革の流れにコロナウイルス感染予防のための自粛の社会情勢が作用して、教員の働き方を見直すきっかけが与えられているように感じます。

 教員が授業に専念できるためには、事務的な要素の効率化と、部活動顧問などの外注が欠かせません。そのためには責任を持って児童や生徒を預かる機関なり企業なりが必要です。保護者の負担が大きくなり過ぎないように、行政の補助が必要になります。そういうことが確保できれば教員は子どもたちの教科や生活の指導に注力できるようになります。

 部活動顧問の外注化は卒業生や地域の住民の力を借りるべきです。校舎を活動場所として指導者には資格審査をして責任を持って行動していただきます。この方が結果的に活動は活性化するのではないでしょうか。

 教員が定時で帰宅できるようになれば日本の教育は復活できるのではないでしょうか。消耗ばかりで発展できる機会が限られている教員の現状は早急に改善すべきことです。

効果、過程

 実効性が重視されすぎるといろいろな矛盾が出てきます。しかし何でもやればいいというのも無理な話です。

 最近よく使われている言葉の一つに生産性があります。なんでも日本人の生産性は低いらしく、やっている割には金になっていないというのです。骨折り損のくたびれ儲けが現状という訳です。働き方改革などはこの文脈から出てきます。これは改善しなくてはなりません。

 ただし、これはあくまで労働時間と収益との関係の話であり、仕事の内容、質は別の次元に追いやられています。時間をかけてもやらなくてはならないものを考えるべきなのです。

 教育の分野では特にこのことが言えるのではないでしょうか。なんでも生産性に置き換え短期的な効果ばかりを考えるのは問題がありそうです。

説明力

 国際的に自らの立場を正当かつ適切に説明できる能力はどこから得られるのでしょうか。もちろん英語の語学力が大切なことは言うまでもありません。しかし、それだけでもなさそうです。

 私たちの協調性や礼儀正しさは均一もしくはそのように見える文化の中で育くまれてきました。説明する以前に常識という概念で自らの振る舞いが規定されてきているのです。なぜそうするのか、してはいけないのかは不文律として共有されていて、それを守らない人には軽蔑か無視の目を向け、仲間から除外されます。

 それが通用しなくなって立ち往生しているのが日本の姿です。我々の常識では卑怯もしくは不作法と思われるやり方を次々に繰り出してくる国際社会に直面して次の一歩が踏み出せないのです。

 相手に合わせることは大切です。そしてそれは日本文化が培ってきた美徳です。ただし相手に自分の意志が伝わらない場合は説明するしかありません。議論をすることも必要です。そのためには交渉力が必要になるのです。

 言い訳することは悪いことと教えられてきました。しかし、正当な言い訳まで封じてしまうと説明する力は育ちません。教員として面倒な作業ではありますが、説明する力を養うために生徒諸君に言い訳してもらおうと考えています。もちろん、それにまさる指導のための説明を私がすることになります。もし、必要は場合は。

会うこと

学校をどのように再開するのか対応に迫られています。分散登校が一つの選択肢ですが、それならば工夫が必要です。

 学校を再開することは教育を止めないためには不可欠です。社会的距離の確保が目標となり、各種産業活動が停止している中で、子どもを動かすことがそれに反する行動になることも必至です。このバランスをとらなくてはならない。

 分散登校で教育的効果がどれほど確保できるのかはきわめて怪しい。大切なのは孤立している生徒諸君に仲間の存在、社会の存在を意識させることでしょう。ならば目的は非接触でも仲間を意識させる時間を確保することです。

感染予防のために隔離することは大事ですがそれだけではなく、心の距離を縮める工夫も大切なのです。

書かずに覚えられるのか

 漢字のテストをフォームで出題しているうちに、この方法で果たして覚えられるのか極めて疑わしくなっています。

 字は書いて覚えるものであり、画像の中から選ぶだけでは限界があります。手書きの意味は他にもいくつもあげることができますが、それを封じ手にすることは様々な問題点を抱え込むことになります。

 リモートでもできることとできないことは切り分けて、できないことは次善の方法で効果を狙うということは様々な分野で必要になりそうです。

学校が嫌いな人たち

 コロナウイルス感染予防のための自宅待機推奨がなされる中で、学校閉鎖が続いています。この事態で学力低下を懸念する人がいる一方で、むしろこの事態を歓迎している人もいます。

 日本の学校には一定数の不登校もしくはそれに類する人がいます。その原因は一律ではないために単純に語ることはできません。そのなかに集団生活への不適合が原因という生徒がかなり多く含まれていることは確かです。彼らはクラスに溶け込めず、自らの居場所を作り出せないために学校に行くことができません。彼らの中には学力的には問題がなく、学ぶ機会さえ与えられるならば好成績を上げることが期待できる生徒もいます。

 現在はいわば全員が不登校の状況にあります。生徒は分断され、不要な同調圧力に悩まされることはありません。時間の制約もなく、狭い空間に動きを制限されることもない。こういう状況の方が能力を発揮できる人はかなりいるはずです。学校閉鎖がかえってチャンスになったということになります。

 私は教員としてこの状況を大いに反省し、考え方を変えていかなくてはならないと感じています。学校には学力とともに社会性を涵養する役割もあります。異質なものに対する寛容性や思いやりの気持ちを育てる役割もあります。学力だけならばもしかしたらパソコンを使った遠隔授業でもある程度ならばできる。しかし、それならば学校はもはやいらないのではないか。学校ができるのは何なのか。それを考え直す機会を与えられているのではないかと痛感しているのです。

疲れ目

 リモート授業が始まって生徒にとってはパソコンの画面を見続ける日が続いています。早くも疲れ目の症状を訴える者もいます。

 授業の代替としてネット配信の授業を始めています。実際の始業時間通りに課題を配信し、フィードバックも要求するという方法です。学校で購入したChromebookを活用しているのですが、早速眼精疲労を訴える生徒が出ています。この授業はあくまで代替手段として行っています。疲労感が強い時は中断しても構わないことにしています。

 いつまでこのような形の教育が続くのか分かりません。早く通常の授業が始まることを祈るばかりです。

スキルアップ

 同僚たちのスキルがここ数日で急に上がりました。必要性が結果を生み出します。

学校閉鎖の中、何とか授業を成立させるためにインターネットを使った遠隔授業を始めることになりました。そのために必要なG-Suiteの操作技能が高まったのです。特にClassroomという教育用のサービスについてはかなりできるようになりました。

 ネット授業があくまで急場しのぎであるという考え方は変わりません。ただ、今回、件でやれることが増えたのは事実であり、通常大勢に復帰した後でも活用できることが増えたことはよかったと感じます。

 そう考えないとやっていけないというのが事実ですが。

遅延する予約投稿

 遠隔授業の際に使う手に教材の予約投稿という手があります。ただ、時間帯によっては思い通りにならないこともあるようです。

 実際の授業時間に合わせて教材に取り組ませる手段として、時間割通りに予約投稿する方法を考えています。ところが、朝8時台に設定すると数分遅れて投稿されることが分かりました。おそらく通信回線の混雑が原因と考えられます。

 当面は5分前投稿で切り抜けようと考えています。リモートワークが増えている中で通信の問題は新たな悩みです。

遠隔授業開始

 私の学校では今日からインターネットを使った授業を開始します。すべてが初めての試みなので不安ばかりが募ります。やるしかありません。

 今のところは教員の出勤が許されているので学校から授業の資料や動画などを配信することができます。比較的デジタルに詳しい教員も多いので配信する作業それ自体はできそうです。

 ただ、対面なし反応なしのブロードキャストは教員にとっては苦手な分野です。対話型の授業を推進してきた昨今の状況なので余計に難しく感じるのかもしれません。もちろんビデオを使った双方向通信も可能なのですが、それには生徒の通信環境やプライバシー保護の問題があります。

 慣れていないからできないという言い訳が許されない現状ではすべてが見切り発車です。立ち止まることができないときは走りながら考えるしかありません。波乱の新学期の始まりです。