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中学生レベル

 中学生レベルという言葉に初心者、入門という意味を感じるとすれば必ずしも正しくない。義務教育の最終段階である中学校が教えることの内容は必ずしも初級のレベルにとどまっていない。おそらくすべての教科を中学生レベルでできたならばかなりの教養がある人ということになる。

 学校の勉強というのはできなくて当たり前という感じがいつの間にか出来上がっている。テストで60点しか取れませんでしたといえば、まずまずではないかということになる。中学生への励ましならばそれでいい。成長の過程はそれぞれ人によって異なるし、その時できたからといってあとまで続く知識や技能として血肉化しているのかは別問題だ。だから60点だろうが30点だろうが構わない。

 でも、どうだろう。卒業後もそれでいいのかといえば問題がある。私たちは中学生レベルを目指さなくてはならない。せめてすべての中学生向けテストで80点以上取れるように努力しなくてはならないと思う。テストなんて今さら受けるのは嫌だと思う。私もだ。受けなくてもいい。ただ、中学生の学んでいることを知らなかったり、知らないことで平気でいることはやめた方がいい。できないならできないなりに努力したいし、せめてできる人に敬意を持つべきだ。

 念のために言うが中学校で学ぶものには音楽や美術、家庭科、保健体育もある。それも含めて中学生レベルになることを私も意識しておきたい。

古典文学の文庫本

 学生時代は『万葉集』をよく読んだ。国文科の学生であったからそれは教材であり、研究材料でもあったのだが、いまは心の拠り所のようなものである。

 職が変わり日々の業務に忙殺されている間に古典文学を教材としてしか扱わなくなってしまった事に気づいた。文法やその他の知識を生徒諸君に伝達することは教員として大切な役目だ。それを効率的に行うことで仕事の評価がなされることにもなれてしまった。相当な違和感を常に感じながら。

 古典を読む意味は試験に受かるためだけではない。むしろそれは二義的なもので本道から外れる。それに気づいていない教員が多いのはとても残念だが、教員がそうなのだから世間の人々の大半は古典文学は単なる受験の一科目くらいにしか考えていない。

 しかし、古典は様々なことを考える切っ掛けであり、道標でもある。過去の人々の心の足跡に触れることで現状を捉え直すことができることがある。とても大切なことではないだろうか。最近古典文学の文庫本をもう一度開くことにしている。一部は何度も開き壊れそうになっているのでまた買い換えよう。

 相変わらず読んでもわからない部分がある。解釈できない部分さえもある。それでも何度も付きあているうちに読めてくるときが来るかもしれない。それは自分自身の読解力の向上だけではなく、精神の成長に関係するのではないかと考えるのである。


社会を知る遊び

 誹謗中傷をソーシャルメディアに書き込むことに関して、様々な問題点が指摘されている。時に命さえ奪う精神的な打撃を与えることを考えると単に言論の自由という枠組みだけで処理することはできない。本名を名乗らない、遡及不可能な発言はカットすることをやらなくてはならないと考える。

 システムとして特定の人物の発言を不可視の状態にすることはすでに可能だ。信用のおけない相手の発言はそもそも見ないという方法である。しかし、実際には自分の端末でそれを行っても周囲からその情報は入ってくる。自分がどのように評価されているのか過度に気になる状況では、単に見ないというだけでは不安は解消されないのだろう。

 それ以上に大切なのは、精神的なフィルタを確立することである。誰が何と言おうと不当な発言は相手にしないという概念そのものを身につけることだ。これは教育の分野が行わなくてはならないのかもしれない。いわゆるメディアリテラシーだ。

 ただこれも一歩間違うと独善の方向に進んでしまう。正当な反論も聞き入れることができなくなれば、個人として社会としての発展が阻害されてしまう。ネットの存在の有無にかかわらず、集団の中で様々な意見とどのように付き合い、折り合いをつけ、時に自説を述べ、主張し、間違っていれば取り下げる。こういう繰り返しをこどもの頃から身につけることがこうした状況への解決につながるはずだ。

 悪口をいう方も同様なことが言えそうだ。自分の行為がどれほどの意味があるのか分かっていない。その影響力がどこまでおよび、いつまで続くのか。そしてそれが結局自分を傷つけ、時には再起不能のしっぺ返しを受けることになるということを。

 多くの場合、こうした社会性のようなものは遊びの中で習得されると考えられる。しかし、今の子どもたち、今大人になっている世代はこの遊びをしてきていない。それが大きな問題点だ。教育のなかに社会経験を積ませる遊びを導入する必要を強く感じる。

ノート作り

中学校の教員なので、教える教材は限られている。特に教科書が変わっていない場合は数年前の授業を再演すればいいはずだ。ただ私の場合はいつもゼロから準備を繰り返す。これは非効率的だが私のこだわりでもある。

大きな声では言えないが教員用の指導書もあまり当てにしていない。教えるべき目標に関しては一致させるがそれにたどり着く方法は指導書のままというわけにはいかない。教員の方はご存知かもしれないが指導書はあくまで理想で書かれており実態にあっていない。計画通りに運ぶはずがないほど効率的な授業計画が書かれている。

私の場合、本当に伝えたいことに絞ってそれを強調するような内容に書き換えてしまう。文科省的はいかがかと思うがそのほうが結局生徒のためになるのではないかと信じるからだ。今回の目的は例えば作品の構造を考えるとか、表現技巧の工夫を考えるとかであれば、それだけに中心をあてて行くのだ。

そのためにはリハーサルをしておく必要がある。私の場合、それがノート作りである。いうべきことを書いておくネタ帳だ。前回同じ教材を扱ったときとは目的が違うこともあるのでノートはその都度作る。同じことをやれば楽なのにとも思うが、やらずはおられない。

プレゼン資料

 プレゼンテーションのスライドを作っているとついそれだけが目的のようになってしまう。スライドが主ではなく、発表が主だということを忘れてしまう。

 プレゼンテーションのスライドを作るのはかつては結構ハードルが高かった。ところが、いまはかなり簡単にできる。画像を貼ることも簡単で、動画も付けられる。だから、どうしても作りすぎてしまう。

 大切なのはメッセージを伝えることであり、プレゼンテーションの資料に余計な装飾はない方がいいこともある。聞き手が話の内容に集中できるようにしなくてはならないのだ。

 最近は学校の授業でもスライドを多用しているが、いつも思う。メモできる程度を超える情報は出してはならない。記録ではなく、記憶に残すものにしなくてはと。

リモートクラス

 感染拡大が止まらないまま9月を迎えることになりそうだ。さらなる爆発があれば学校も止めるという議論になりかねない。学校を止めることとと感染予防とがどの程度関係するのかは専門家の意見が聞きたい。

 中等教育課程までの学校の役割に、他者との協同、協調性を養うということがある。過度な同調圧力はあるべきではないが、やはり他人と折り合いをつける力は必要だ。それは学校でなくてもよいのだか、多くの生徒にとって学校以外でそういう能力を養えるところはない。

 2年も隔離生活を強いられている世代の未来が心配になってきている。学校は止めない方がいい。通学のピークアウトや行事の変更は仕方がないにしても、リモートクラスは子どもには課さない方がいい。

学問とは楽しむもの

 高名な科学者の話を伺う機会を得た。後世まで称えられるべき発見をした方である。その方のお話は身近なところから疑問点を見つけ、それを追究することの重要性を説くものだった。大変参考になった。

 詳細な話はいろいろあったが、専門的なことになると分からない。ただ、その大学者が論語などの古典を引いて学問とは楽しむものであり、そこに至らないうちは本物ではないとおっしゃっていたのが印象的だった。綿密な科学の研究をしている人は、逆に人間的な感性というものを身につけるらしい。学びの基本を思い出すきっかけを与えていただいた。

 宿題を出し、試験を課し、点数の悪いものを注意する。そういう教育の仕方は一般的だ。試験に合格しなければ意味がないとでもいうような教育の仕方を私自身もいつの間にか毎日の仕事としてしまっている。でも、思えば私が学生だった頃、何かの役に立つこと目指して学習していただろうか。褒められたり、賞金が出るから学問をしていたのではない。単純に学ぶことが面白く、知ることで新しい世界が見えるような感覚になることが楽しかったのではないか。そういう大切な感動というものを最近は失っている気がする。

 ならば、学ぶことの楽しさをどのように伝えればいいだろう。今はそれを考えるべきだ。

考え方

 検索するのにも高度な方法があるようだ。知っている人には当たり前のことなのだろうが、私を含めて多くの人は知らない。どんなことにもその道の先達がいるものだ。

 ネットの普及で情報を探すことは誰にでもできるもののような錯覚が生まれている。実は精査することなく最初に見つかった項目を正解と思い込んでいることが多い。これが積み重なると大きな誤解が形成されていくことになる。虚像が見えると、そこにさらなる装飾が施され、本物そっくりの贋物が完成する。

 考え方の根本から間違っていれば修正は困難になる。適切な考え方を学ぶべきなのだろう。それを教えるのが学校であり家庭であり、社会であるはずなのだ。安易に答えだけを求めることは百害しかない。

誇りある国

 国際問題に関して今の日本人は切羽詰まっている気がする。日本は東洋の辺境地帯で資源のない島国であるという現実をどこかに忘れてしまったのではないか。この国が繁栄するための最低限条件は他国、他地域との共生だ。それが近年の経済的成長でわからなくなってしまっているとしか言いようがない。

 日本が先進国に序せられるのは偶然の積み重ねに過ぎない。私達の先祖もそれを望んでいたわけではない。むしろ毎日を平穏に過ごすことだけを願っていたに過ぎないのであり、他国より有利に過ごそうなどという野望は持っていなかったはずだ。それが明治維新を経過し、戦争の勝利と敗北、経済的な成長ですっかり分からなくなっている。私達がはじめから優秀な国民であるかのようなプロパガンダをすんなりと受け入れてしまう思考停止が今の日本人の現状だ。

 私は国としての誇りを捨てることは好まない。しかし、誇りある国は他の国にも誇りがあることはわかるはずなのだ。それがどうも隣国を見下したり、無条件に自国が優れていると考えることが蔓延しているようで仕方がない。私はその意味で愛国心を育てることには意味があると考えている。それが自国優先主義にならないことを注意深く見守ることが必要であることは自覚している。

伝達

 教育とは何かを考えるときいつも考えることがある。伝えることの方法は多様であるということだ。

 私自身の体験からすると学びの基礎は学校にあったとしても、主体的な学びの発動は自己の中にあったように感じる。何かを学びたいと思ったとき学びは効果を発揮する。

 教育とは何か。知識の伝達はもちろんだが、それは本当の目的ではない。大切なのは学ぶことの意味を気づかせてその行動を発動させることだ。人によりそのきっかけは異なる。それを注意深く探し、ボタンを押していく。教員の役割はそれかもしれない。