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教員の知り合い

知り合いに先生はいますか

 我が国では教員の知り合いを持つ人の割合が国際比較で低めであるというニュースを読んだ。自身が教員なのでこの記事の信憑性には疑問を持つが案外そうなのかも知れない。

 教員の数自体は少なくない。ただ、教員が多忙のあまり異業種の人との関わりを持たないことが、先のデータの理由の一つだと記事はまとめている。

 そう言われると同窓会にもしばらく行けていないし、保護者を除けば教育関係者以外の方と話す機会は限られている。労働時間が長めなのもあるが、そもそも異業種交流の場が少ない。

 もちろんこれは教員に限らないはずだ。コロナ禍に見舞われてからはさらにその傾向は強くなってしまった。これは教員にとってはかなり問題である。

 学校は社会のあり方を教える機関だ。その現場にいる人が社会を知らないのは自己矛盾そのものではないか。長期的に見て大きな損失といえる。

 ならば教員に研修に行かせようという発想は役人が考えて来たことだ。そしてそれは進まない。参加者にも中長期的な効果が出ない。単発のイベントでは多忙に拍車をかける残業に過ぎないからだ。

 教員の業務的な軽減を図るとか、異業種体験を業務の中に取り込むといったことをやってもいいと考える。私のような世間知らずではなく、いま何が必要とされているのか分かっている人が教えれば、授業はおもしろくなるはずだから。

理想的な第2の職

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 そろそろ第2の人生を考えなくてはならない。私の場合すでに大きな転職を経験しているので実際には第3の職かもしれないが。

 私はもし経済的な支えが担保されているならば、地方に住み、才能があるが経済的な困難を抱えている子どもに希望を与える職に就きたいと思っている。志を同じくする人がいればその配下になることも厭わない。日本は教育立国であり、それがなくなればすぐに滅びていく。現在の「先進国」気取りはすべて先輩たちの努力の賜であり、その恩恵で我々はかりそめの優越感に浸っている。

 お客様気取りでサービスばかりを要求するようになってしまったいまの日本人には教育が最後の砦だ。もちろんエリート教育も大切だ。しかし、恵まれた環境になくても学問さえ積めば現状を打開できる。利他的に生きることでみなが幸せになれる。そのリーダーを養成するということは何よりも大切ではないか。

 現在の自分は日々の生活に追われ、夢や希望を大切にせよと他者には語りながらも、自身は挫折感に日々苛まれている。まずはこれを変えたい。私には資金もないし、若くもない。これから何かを始めるにはあまりにも条件が悪い。だが、それでもできることはあるはずだ。

 そういうことを実践している方がいれば、お話をお聞きしたいと思っている。そろそろ次のことを真剣に考えなくてはならない。まだできる挑戦はある。

熟考する力

深く考える余裕がないのか

おそらく多くの人が考えているのではないか。今の教育は情報処理能力にあまりに傾きすぎているのではないかと。私もその一人だ。

例えば先日の大学共通テストはさまざまな改革の末に生まれたといいながら、センター試験以来の問題数の多さを保ち、それ以上に増えた科目もある。試されているのは時間内にいかに多くの問題を処理するかということであり、反射神経や要領のよさが測定されている。

一方で、果たしてこれが正解でいいのだろうかと思う設問もある。他の選択肢が不正解であるから問題としては成立しているのだが、その正解が絶対正しいのかと考えると疑問があるものもあった。これも過去の問題と同じだ。受験生は消去式という情報処理の方法を活用すればよいのだ。なにか腑に落ちない。

ほかの局面でもよく考えずにとりあえずの正解を見出すことに終始することが多い。忙しい現代を生き抜くには必要なスキルであることは確かだ。しかし、この方面はむしろコンピューターが得意とする分野である。人間はもっと深く考えることや、いままでにない一見間違っていると思われるものを再検討する思考力の方を鍛えるべきではないだろうか。

熟考する力をどのように育成するのかは決まったノウハウはない。個人の資質に負うところが多いとされ、一斉教育の場では省略されていると考えられる。だが、もしかしたら今後もっとも大切にされる能力になるかもしれない熟考力を中等教育で教えないのは根本的な間違いではないか。せめて時間をかけても、結果が出なくてもよく考えることには意味があるということだけでも伝える機会はあったほうがいい。

教育ロボット

先生はアンドロイド

 ロボットが教育現場に必要だとしたらどんな場面だろうか。現状で考えられることを挙げてみた。

 すでに取り入れられていることに採点作業がある。マークシートのような人間の方が機械に合わせたような仕組みはかなり早くから行われている。最近は手書き文字を判別して採点することはある程度はできる。悪筆だと誤判定するのでここでまた字は丁寧にという指導が入ることになる。結果を分析したり個々人にコメントしたりするのはコンピューターの得意分野だ。これをロボットと言えばすでに教育現場にロボットは不可欠だ。

 おそらく大半の人がロボットと言っているのは、人や動物などの形状を持ち、ある程度自律的に動く、もしくはそのように見える機械のことだろう。こうなるとまだ導入例は限られている。癒しを目的としたペット型ロボットは低学年の情操教育にある程度効果があるかもしれない。本当の動物のようにはいかないが。動物が飼える環境のある学校は少ない。

 もっと教育内容に関係する使い方はあるか。またプログラムのレベルに戻るが、個人の習熟度に合わせて教材を提供し続けるシステムはすでに実用化されており、有料サービスとして展開している。これは人工知能が入力された解答の傾向を分析し、それぞれにあった次の教材を提供するシステムである。

 これを運用している会社は必ず指導員を配置する。機械の操作方法の支援というよりは生徒の学習態度の監視役である。叱咤激励するのは今のところ人間の砦らしい。

 教育ロボットはこの砦を必ず切り崩しに来るに違いない。感情制御のパターンを認識すれば人間の牙城は崩れることになる。人嫌いだがロボットになら話ができるという子どもが増えるのを考えるとぞっとするが、コミュニケーションが苦手な現代のニーズは高いかもしれない。

 先を述べすぎた。いまでも教室にもうひとり教員仲間がいてほしいと思う場面は多々ある。ティームティーチングを行う人材も準備時間もないならば、ロボットにもうひとりの自分を演じてもらえれば助かる。自分が二人いるというおぞましい状況は、やりよう次第では効果的な教育になる気がする。なんとか教員の地位を守りたいという願望のなせる幻影かもしれない。

音読のすすめ

昔から言われていることだが、音読には一定の効果がある。受験生の頃を思い出してほしい。頭の中で記憶しようと思ってもなかなかできないが、声に出してしかも声量をあげて読むと頭に入ることがあっただろう。これは個人的なものかと考えていたが、どうも科学的にも証明されているらしい

国語の教員の立場でいうと受験世代の古典学習にはとくに音読をお勧めしたい。古典文法は覚えるまでは結構面倒だ。なに活用のなに形かなどという試験を出されて嫌になってしまうことがあるだろう。それで古典を嫌いになってしまったならばもったいない。文化的には国家的損失だ。

声に出して読もう

文法の約束を覚えることはもちろん大切だが、その前に音読を繰り返しておけばある程度は感覚的に読むことができる。口と耳が覚えてくれるという比喩は言い過ぎではない。英語学習でも聞くことと話すことが大事だと言われる。それと変わらない。英語はその気になれば街中に溢れているし、メディアからも流れてくる。古語はどんなに探してもそれを話す人は周囲にはいないだろう。ならば自分が発声するしかない。

受験の必要がない私のような世代の方々にも日本語の文章を音読することをお勧めしたい。特に名文と評価されている文章や、古典文学の文章の音読は意識的に行っていただきたい。日本語のあり方を考える基準になるだけではなく、自分の表現方法を見つめ直し磨き上げる良い方法だ。その他、いろいろな効果があることは先に引用したサイトの情報を参照されたい。

手元に中学や高校の教科書があればそれがいいと思うが、それがなければ好きな作家の文庫本でも一冊買って音読するといいと考える。古典に関しては個人的には読みやすく面白く、平安文法でもその後の時代の文法でもなくいわゆる日本の古文の標準の文体を持つ「徒然草」がいいのではないか。細かい意味は分からなくてもいいので、声に出して読むことだ。昔の言い方で言う素読をおすすめする。

コロナの時代で声に出すことが忌避される風潮にあるが学習に関しては声出しは意味があると信じる。社会的距離を保った上で音読する学習者が増えることを望む。

環境の提供

 リモート学習の評判は概してよくない。効率、品質などあらゆる面でリアルの授業よりも劣るからである、この事実を踏まえて次の改革はなされなくてはならない。

 うまくいかない原因の一つは技術的な問題である。社員が話し合えばいいだけのリモート会議とは異なり、学校の授業は教員が伝達する場面が多い。また、1対多の局面では個人差を常に配慮しつつ進める必要があるが、現況ではそれが難しいのだ。

リモート学習は効果が上がらない?

 通信教育はリモート学習が始まる前から同じようなことをしてきた。通学困難な生徒にとっては通信教育はありがたい学習機会の場であり、勤労学生の支えでもある。そして、一定の効果をあげている。ただそれが学校の授業と置き換わったときには話が変わってくる。

 学習カリキュラムを人工知能が個人別に判断して、個個別別の授業をするというプログラムもある。こうなると現場に教員はいらず、自分にあった内容を自分のペースで進めることができる。理想的なようだが、実際に行っている人に聞くと、効果を発揮できる人とそうでない人に分かれるという。また、まったく教員がいない状況で運用すると効率が低下するらしい。

 つまり、技術的な問題が解決すればコンピュータを介した学習方法は効果的だが、単にハードとソフトを用意すれば事足りるという訳にはいかないのだ。

 学習という行為が多分に感情や情緒の影響を受けることを再確認しなくてはならない。リモート学習が嫌いだという生徒の意見には仲間がいないとやる気が起きないというものがある。至極もっともだ。仲間は仲良しとは限らずときにはライバルであるかもしれない。それも学習意欲の亢進には不可欠なのだ。

 すると学校の役割は学習意欲を掻き立てる環境を提供することになる。環境といってもものだけではない。雰囲気であったり行事であったりする。一人では決してできない集団の行動を用意することが学校の役割なのだろう。

 いわゆる一流校と呼ばれるものは、それが備わっている。授業は実は他校とそれほど変わらないか、場合によってはいい加減であったりする。それでも結果を出すのは学習行為を発動する要素があるからなのだろう。

 学校関係者はこのポイントを外せないし、受験生も偏差値ばかりに気を取られるべきではない。

教員不足

 一部の地域で教員不足が深刻化しているという。この問題はかなり以前から予測されていて新しい問題ではない。表面化してきただけだ。

 結局、ほとんどなんの効果もなく結局廃止してしまった教員免許更新制度は多くの潜在的人材を無にしてしまった。何よりも教員という職業に魅力がなくなってしまったということが第一の問題だ。他にもいろいろな要因が絡んでいる。

 私も教員だが、確かに楽な仕事ではない。しかし、世間で言われるほどブラックでもない。極端な事例はどこにでもある。だから惑わされてはいけない。教育立国にとって教員は不可欠なのだから。

教員不足の今こそ優秀な人材を求む

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紙芝居

 自宅のWindowsパソコンが急に壊れてしまった。どうも物理的な損壊らしく修理に出せば直るかもしれない。恐らく原価以上の請求になりそうなので諦めざるを得ない。最近は授業もPowerPointで行っており、少なからず家で作っていたところもあるので大いに困ってしまった。

 もちろんかつてのようなチョークアンドトークに戻ることも可能だ。ただこれは色々な意味で非効果非効率だ。書くことに生徒も教員も集中してしまうと、大切なものがぼけてしまう。見ればいいことだけは映写で済ませ、大切なことだけをメモさせたい。

 自宅には更新期限切れのChromebookがある。使えるには使えるが国語教員としては致命的不足がある。縦書き編集ができないのだ。裏技で縦書き風に見せることはできてもそれをいちいち作ることは無駄な時間を費やす。

 そこで割り切って、自筆のノートをスキャナーで読み取り、それを映写することにした。ノートづくりはアナログとデジタルの両生類の私がこれまでもやってきたことで苦はない。職場でスキャンしてPDFにしてそのまま映写すればいい。

 手書きだと自由にレイアウトや図案化も可能だ。ただやはり書くのには時間がかかる。コピーやペーストはリアルに行えばいいと考えた。実物を残す必要がないので切り貼りして再利用すればいい。

 気をつけなくてはならないのは字の大きさだ。普通のノートのように書いていたら細かくて読めない。だから少々大げさなほど大きな字で書けばいい。

 これで暫く試してみようデジアナ両生類にはもしかしたらベストな選択かもしれない。

エッセンシャルワーカー

 コロナウイルス感染者が急増して再び世間は自粛モードに戻ろうとしている。オミクロン株の影響なのか今回は感染力が強いらしく、医療機関従事者の感染も多いと報じられている。最近のキーワードにエッセンシャルワーカーというのがある。どうも社会インフラの基盤を動かす人たちのことをいうらしい。

 医療や福祉、衛生関係の仕事についてはこの定義があてはめやすい。警察、消防なども同様だ。他にも運輸、流通なども含まれる。世の中は相互依存の関係にあるので何がエッセンシャルなのかは実は分かりにくい。

 教員も含まれるらしい。確かに教員の罹患はいろいろ面倒なことになる。特に真面目に教育している教員ほど他に替えがたい。学校が止まれば、家庭にも影響するから、社会にも多大な影響がある。

 誰もがエッセンシャルワーカーだとは思うが、教育関係者である以上、健康管理には留意しようと考えている。

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自分で考える面倒な作業

 AIがより実用的なものになった時点で私たちの能力はどうなっているのだろうか。様々な無駄を省き、効率的に物事を進められるようにプログラムされるはずの人工知能に我々はただ従うだけになるのだろうか。

 便利なのものができると得られることと失われることがある。例えば私たちは火を使う際に苦労することはない。ガスコンロをひねればすぐに加熱は出来る。電気式なら炎さえいらない。その代わりガスや電気がなければ火をおこすことは難しい。かつては誰もができたことが誰にもできなくなっている。

 AIが完成しなくてもすでに私は初めて訪れる場所にナビゲーションなしで行くことは困難だ。私だけではなく多くの人たちに共通するはずだ。地図を読む力も落ちている。

 何も考えず、面倒な作業をしないで済むことは幸せなのだろうか。恐らく数知れない利益を齎す一方で、痛切な重大事を見失う可能性がある。先のカーナビの譬えでいえば、ナビに従うあまり、閑静な住宅街に迷い込む経験は何度かあった。確かに近道なのだが、果たして進路としてふさわしかったのだろうかと考えると疑問が残る。近道を選べばいいのではないという選択は今のカーナビにはできないようなのだ。

 どんな時代になっても自分の行動に自分で責任を取ることができる能力を持つこと。取れなくてもせめて自らの判断が幾ばくかの影響があったと考えられるほどにしておくことは大事であり、これからの教育関係従事者の目標となるはずだ。