タグ: 季節

トナカイ

Photo by Barnabas Davoti on Pexels.com

 多くの日本人にとっては直接見たことはないが、その名前を知らない人はないという動物がトナカイである。なんでもこのトナカイというのはアイヌ語で、英語圏ではCaribouというらしい。トナカイという日本語離れした響きや、その容姿も含めていろいろな謎のある動物である。

 トナカイの知名度が高いのはクリスマスのサンタクロースのそりを牽引するのがこの動物だと言われているからだろう。「赤鼻のトナカイ」という童謡が世界的に流行すると、トナカイが赤い鼻を持つ鹿のように造形されることも増えた。実物は日本の鹿とはかなり容貌も違い、鼻は赤くはない。

 立派な角が印象的だが、トナカイはこの点でもユニークだ。日本の鹿は雄しか角がないが、トナカイは雌雄とも角がある。雄の方が体格も大きいため、角も大型だ。ただ、雄の角は主に夏場に成長し冬には落としてしまうらしい。目的が秋の繁殖期の争いにあるというのだ。

 対してメスの角は秋に生え、冬に最大となる。これは子の育成をする際の防御手段、雪中から餌探すための手段になるらしい。するとクリスマスのそりを引いている角の生えたトナカイはメスではないかということになる。まあ、この辺りはうるさく言うべきではないのかもしれない。

 トナカイ自体は太古から家畜化され、食材のほか、運搬の動力としてなど多様に活用されてきた。北極圏の生活がなぜ、全世界規模に知られるようになったのか。興味深いものである。

ギアチェンジ

 今朝の天気は明らかに冬の様相だ。重い曇天に町が覆われている。マイナーの音楽が流れそうな雰囲気だ。季節がここで大きくギアチェンジしたことが感じられる。体調が思わしくない。倦怠感などはないが、多少気になる。今日は大人しく過ごして切り抜けよう。

気圧の関係

 気圧が急低下しているせいなのか。軽い頭痛に悩まされている。コロナ禍のあとはちょっとした熱にも神経質になりやすい。今のところ熱はなく、形容し難い不快感以外には症状はない。しばらくは無理をしないで過ごそう。いわゆる気象痛ならば少し待てばいい。焦りは禁物だ。

霜月尽

 今日で11月が終わる。行事が少なくやるべきことを地道にこなす月と考えていたが実際はそうたやすくはない。いつものように要領悪く、毎日を慌ただしく過ごしてしまった。

 比較的暖かい日が多かった。郊外の散歩にも何度か行った。いくつかの美術館を見学した。その都度感動し、これを明日に活かそうと考えた。いかせているのかは分からない。成果は速効か遅効かは後にならないと決められない。

 健康状態は維持できた。周囲にウイルス罹患者が少しずつ出ている。しかし、今のところ何とか切り抜けられているのは幸運というしかない。流行病はいつかは罹る。被害を最小限にすることを考えるべきだ。

 明日からは年末。やるべきことはさらに増える。状況対応型の自分に喝を入れなくてはなるまい。

木枯らし

 昼過ぎからかなり強い風が吹き始めた。雨も降り冬の訪れを予感するような天候になった。夜になっても風はやまず。むしろ強くなっている。紅葉した葉を吹き飛ばす北風になるのはまもなくだ。

 今朝は通勤の道にカラスがたくさんいて餌を求めてかなり緊迫した様子がうかがえた。鳥には天候の異変がわかるのだろうか。これから食べ物を確保するのが難しくなることを見越しているかのような動きだった。やはり野生を生き抜く動物には特殊な能力が備わっているらしい。

 私といえば特にこれといった対策もない。少々ののどの痛みを感じるのを気にしながらも結局はよく寝ることくらいしか思いつかない。野生の勘が働かない以上、愚直に生きるしかあるまい。

寒気の前の

 今日の予想最高気温は22℃、明日は20℃、そして12月1日は14℃とある。今日はまさに寒気の前の暖かさなのだ。

 天候が大きく変化するとき、何らかのサインが現れることがある。山が大きくはっきり見えるときは大抵その後大きく荒れる。これは北陸の山麓に住んでいたときに何度も経験した。気象学的に説明できるらしく、検索するといくらでも解説が載っている。

 北陸で思い出したが季節の変わり目には大きな雷が鳴った。大気が入れ替わるときの儀式のようなものと勝手に解釈していた。関東では殆どない雷雨ならぬ雷雪も懐かしい。

 まもなく寒い季節だ。手袋はどこにしまったのか。探しておこう。

秋の終わり

 今日も日中はかなり暖かった。上着一枚でコートはいらない。快適な一日だったと言える。でも、この快適さは長くは続かないらしい。

 師走に入ると気温が下がり、文字通りの冬になるという。息が白くなる季節だ。肌に差し込むような冷気、関東の場合はそれに乾燥も加わる。

 寒さのなかには懐かしい感覚もある。個人的には冬は嫌いではないが、それも限度がある。寒さの中の失敗は富山で嫌というほど積んできた。でもいい思い出もある。おそらくそのほうが多い。

 東京生活が長くなりすぎて冬の恐ろしさも楽しさも随分観念的になってしまった。光太郎の詩でも口づさんで冬に備えよう。楽しみでもあり、恐ろしくもある。

落葉

 紅葉が盛りを迎えている。そしてすでに落葉が始まり、ほとんど裸木になったものも出てきた。今朝のように雨の翌日は落ち葉が湿って最後の色彩を発揮する。やがて乾燥した関東の風がその彩を奪い、箒ではかれるか風に飛ばされるかして消えてゆく。落葉はエコサイクルを回すための戦略と聞く。土に帰って他の生き物の食料となり、様々に巡って再び樹木の養分となる。そういう姿の典型を見ているのだろう。

年賀状の準備

Photo by Pixabay on Pexels.com

 年賀状の印刷の受付を知らせる広告が出始めた。印刷されたはがきもすでに店頭に並び始めている。今年はどうしようか。

 虚礼だなどといわれて減り、ネットの普及とともに年賀状は過去の遺物になりつつある。それでも実物のもつ意味は消えないはずで、本当に挨拶をしたい相手にはやはり紙のはがきがいい。本当は手紙の方がもっといいが、さしあたり安否を伝えるだけでいいのならばはがきがいいのだ。

 私はあまり多くの枚数を出さないかわりに、すべて手書きで行ってきた。しかし、今年はどうしよう。もう出さないという手もあるし、印刷してとにかく送ってしまうという手もある。日々疎くなりつつある旧知の人々に、せめてまだ生きていることを伝えることで、自分自身の存在理由を確かめられるのなら、やはり出しておこうか。

 悩んでいる。

欅紅葉

 このところ暖かい日々が続いていたが、今週からは冷え込み始めるらしい。すこし足取りを緩めていた季節の進行も紅葉は着実に進んでいる。植物ごとに紅葉の仕方もいろいろあって、それを見比べるのも楽しみの一つだ。私がその中でも注目してしまうのが欅の紅葉である。

 欅は同じ種類でも紅葉の仕方が様々だ。さらに、同じ幹でも枝によって紅葉の仕方がさまざまなのも面白い。赤くなるものもあれば黄色が濃いもの、その中間のものとバリエーションがある。

 なぜこのような複雑な紅葉の仕方をするのかは分からない。日の当たり方とか、枝ごとの遺伝子の違いとか、いろいろ想像するがよく分からない。ただ、単に鑑賞する身としてはこれほど楽しみなものはない。

 紅葉した欅の葉は日に透かすと美しさが際立つ。美しい秋の風景を演出する。このきれいな紅葉も枝を離れて落ち葉になると、急速に干からびて同じような枯葉色になってしまうのも不思議だ。あれほどきれいだったのに、落ち葉としては個性のないものになってしまう。あたかも土にかえるのに余計な色はいらないとでも言っているかのような潔さを感じる。

 今はなき卒業した中学校の校章が欅の葉をデザインしたものだった。表参道の欅並木からとったという説明を聞いたことがある。その時は欅がかくも美しいものだとは気がつかなかった。紅葉の美しさを知るには自分も歳を重ねなければならないのかもしれない。