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譬え話の力

 古典文学に接していると、誰でも気づく違和感がある。日本の古文でも中国の古典漢文でも同じだが、譬え話が多くその内容と結論の間に隙間があるように感じることである。

 現代の文章は大抵の場合、まず問題提起がなされ、その問いに答えるように説明が続く。ここに具体例が入る。譬え話もここに含まれる。そして最後に提起された問題の答えが示される。ところが、古典の場合はいきなり譬え話から始まる。何が目的なのか示されないまま、話が始まるのである。最後の数行で短く結論をいう。読者はここまで読んでそれまでの話が何を言わんとしていたのかが分かるという仕組みだ。

 具体例と意見の結びつきは必ずしも理解可能とは限らない。かなり無理があるものもある。譬え話がうまく機能しているか分からない。極端な例を出して主張に誘導しているものもある。古典を読むことでその内容から学ぶことは多いが、逆に古典文学の段階ではできなかったことは何かを稽えることもできるのだ。

 最近、一部の人々の表現に古典文学的な論理展開をして煙に巻くものがあると感じている。いきなり極端な譬え話をして、聞き手を混乱させ、結論部で自説を強引に述べて納得させようとする。多くの人がそれに誤魔化されてしまう。古典を読んでいれば短絡する可能性は減るかもしれない。

鏡として

 コンピューターを使い始めた頃気づいたことがあった。私たちがものを考えるときにどのような手順で考えているのか、何を取り上げ、何を後回しにしているのか。それをコンピューターのプログラムはなぞっているのではないかと。

 プログラミングがほとんどできない私の印象に過ぎないが、機械にでものを行うことはまずは人間の思考法をもとにしており、そのために逆に人間のものの考え方を明らかにすることがあるということだ。私たちが無意識のうちに行っていることや考えていることは、実はある手順を踏んでいる、それはこういうことだったという気づきである。

 ならば、コンピューターを操作することは人間の言動を考える鏡として使えるかもしれない。私は国語の授業の中で、それこそ人間の普遍的な思考方法は法則化することも可能であるということを体感している。そういう言説は昔からたくさんある。文章の構成をパターンとして捉えることを教えることができれば、読解が苦手な生徒の助けになる。

 大切なのはそういう機械的な段階を超えたより深い内容であり、それらを比較分析する深層に触れる思考だ、それに辿り着く前に基本的な読解ができないのであれば大きな損失ということになる。その意味で思考の基本をある程度法則的に教えるのは意味がある。それに気づいたのはコンピューターの操作を通してだったのだ。

 パソコンばかりさわって本を読まなくなったのは事実であるが、機械から学ぶこともある。全ては繋がっている。

詩歌

 詩歌は昔から好きで今でも駄作を作り続けている。なぜかといえば、詩歌にしか表現できないものがあるからだ。

 論理で説明することは。大事だが、それだけではどうしても表現できないことがある。そんなときは俳句であったり、短歌であったり、自由詩が気持ちをすくい上げてくれることがあるのだ。

 だから、いくら下手くそでも作り続けている。その器にしかもれないものがあるのだ。

相づち

What’s up?

 一見意味のない相づちがある。うんとかああとか、そうだねとか。私はそういうのが苦手で随分相手を不快にすることがある。

 What’s up? もその類という。疑問の形を取っているが答えなくてもよく、鸚鵡返しに言うことも許される。もっとも軽い安否の確認の方法で、存在を意識させることだけで事足りるらしい。やあとかよっとか、そんなものに近いという。

 意味がないわけではない。人間関係の始まりを意識させるきっかけであり、自他を認めることの重要な役目だ。私がこれが苦手なのは、いまだに適度な人間関係における距離感が掴めていないからだろう。

 相づちは適当な量がある。やたらと打てばいいというわけでもない。多すぎるとかえって無理に聞いているような雰囲気を相手に与えてしまうそうだ。確かに聞きたくない話を遮るための相づちはある。もういいです。分かりましたと言わんばかりに首を振るのも同じ効果がある。

 相づちは重要なコミュニケーションの手段であるのにも関わらず、誰かに教えられるということはない。経験の中で適度な方法と量を獲得していく。リアルな人間関係を築く機会が減った世代はどのように相づちを覚えるのだろう。まさか安易にいいね! と言って、大きな誤解を生み出してはいないだろうか。

文語調

天下の険

 中学唱歌の「箱根八里」は私の好きな歌の一つだ。箱根を天下の険と言い放つ潔さは爽快だが、この歌を支えているのは七五調の文語詩である。

 古典文には源氏物語のような優雅な文体と、平家物語のような和漢混淆文も持つ歯切れのよい文体とがある。後者は現代日本語の礎となっており、読んでいて共感しやすいのはそのせいかもしれない。

 箱根八里の最初のフレーズでは険、函谷関などカ行の音が印象的だ。つぎの部分では万丈、千尋などザ行、聳え、支ふ、などのサ行音が際立つ。漢文由来の難解な語も一度その意味を知れば代えがたく感じる。

 文語調の歌曲を歌う機会は子どもたちの世界から急速に消えつつある。箱根八里はかつての子どもたちにも難解だったはずだ。卒業式の定番、仰げば尊しや蛍の光もその意味を説明できる高校生がどのくらいいるのだろうか。

 時代遅れと排除するのは容易だ。ただ、それによって古人の叡智を切り捨て、日本語の可能性を狭めていることに気づかなくてはなるまい。

見える化

見えるか?

 すでに定着している見える化という言葉にはかなり抵抗がある。可視化と言わずなぜ中途半端な漢語を使うのか。見えるようにするならまだいい。ただそれだと可視化することの重要度が伝わらないのだろう。

 カシカでは意味が伝わりにくいのも確かだ。カシがそれほど市民権を得ていないから、わかりにくい。それで見える化が登場する。

 新しい概念は日本語に置き換えにくい。日本語にぴたりとはまる言葉がなかったり、そもそも概念自体存在しないときはカタカナにして外来語扱いする。コンプライアンス、アカウンタビリティ、コンピテンシーなど私が日々目にし耳にする言葉にもカタカナ語はたくさんある。

 やまと言葉も漢語も離れてしまえば意味の類推力が著しく低下する。それぞれのは語をほぼ一対一で覚えていかなくてはならないのはかなり不便だ。可視と可変、可動と類推可能なのとは大ちがいだ。

 すると私にとって多少気持ちの悪い見える化はまだマシなのかもしれない。少なくとも他国の言葉で代用するのではなく、母国語で説明しようとしているのだから。

思っています

Think は結構強い意味がありそう

 最近よく聞く表現に「〜と思っています」というのがある。これは口癖になりやすいようで何度もくり返す人もいる。別に何の問題もないが、日本語のある側面を顕在化している。

 英語のI think that とどう違うのかは詳しい方に教えていただきたい。用例から察するに確証は足りないがそのように判断しているというときに使っている感がある。日本語の思うは確信や判断よりも感情的な印象が強い。そのように受け取ると気持ちが安定するといった意味がある。

 だから、「思っています」は自分の判断を他人に押しつけるのではなく、あくまで自分の見解は示すが、そう考えると自分としてはしっくりくるという感情の報告をしている。同意するかしないかは任せる、といった印象が強い。

 相手に自分の意見を強要しないのは日本語のコミュニケーションの底流にあり、そのために様々な朧化表現が生まれては消える、その流れにあるのではないだろうか。

翻訳の営み

 日本近代文学館で開催中の翻訳に関する展示を観てきた。翻訳は文学のみならず異文化摂取の具体的な営為として大変興味深い。

 古代以来、日本は海外の文献を翻訳してきた。漢文の訓読はその中で培われた手法であり、結果的に日本語自体を変える大きな影響をもたらした。ただ私たちが翻訳というときに想起するのは、近代以降の特に欧米から伝わった書籍の日本語訳のことだ。漢字を介さないこと、基礎となる文化の差が大きいことなど、漢文とは遥かに異なる障碍を乗り越える必要があった。

 例えばベルヌの「八十日間世界一周」は漢文訓読のような訳文がつけられていた。係結びもある古文体だ。まずまだ日本語が発展途上で翻訳の方法も決まりがない中で訳をつけるのはまさに冒険のようなものであったろう。

 様々な先駆者が海外の文書を和訳し、その精神性までも伝えられるようになって、海外文化を取り入れられるようになっていく。そんな過程を伺うことができた。

詳細にこだわらず関係性を説く

 自分の思っていることを相手に伝えようとするとき、そのほとんどが伝わらないという経験をしばしばしています。それは私の話し方に問題があるのでしょう。それではどうすればいいのか。自分なりに修正を試みます。

 自分では論理を立てて説明しているつもりでも、初めてそれを聞く人にとっては非常に分かりにくいことがあります。自分にとっては一度通った道でも、始めてきた人にとってはどこに連れていかれるのかわからない探検のような雰囲気になります。分かりやすくするためには適度な道案内と、ゴールが見えているようにする可視性が必要なのでしょう。そのためには結論先出、説明後付けの方法がいいのでしょう。

 板書をするときなどは論理の筋道を文字化、図式化することを心がけます。細かい情報に拘ると全体像が見えなくなりますので、全体を見通せるようにします。最初にその地に立った人は、自分の立地点のことばかりを考えてしまいますが、あとになって考えるとその位置はあまり重要でなかったということもあります。大切なのはその地点ではなく、他の事象との相対関係であることが多いものです。まずはそのことを説明するべきです。

 個々の物事を説明するのではなく、互いの関係性をできる限り俯瞰して見せること。それがうまい説明につながるのでしょう。

終息せず収束した状態

 日本語は音韻の数が少ないため同音異義語が多数存在します。使われる文脈で大抵は意味が使い分けられるのですが、なかには判別が難しいものがあります。その一例で昨今頻繁に使われているのが「しゅうそく」です。

 収束はものごとがおさまることを意味します。混乱していたものが一定の秩序を取り戻した時に収束したと言います。コロナウイルスの流行に関して我が国では感染者数、死亡者数ともにひところよりは減っています。これを表現するには収束の語がふさわしい。

 それに対して終息は終わったことを意味する熟語です。ウイルス感染がほぼなくなった状態が終息ということになります。この終息への道はまだまだ遠い。厳密にいえば終息はありえず、ほぼ終息という状態をいう言葉ということになります。

 アメリカやブラジルなどでは感染者数がまた急増しているとか。海外での数万人の死者の報道は日本人からすると信じがたい事実なのですが、まだ日本で同様のことが起きる可能性は消えていません。あくまで収束の方向に向かっているだけで、終息には程遠いというわけです。