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書かずに覚えられるのか

 漢字のテストをフォームで出題しているうちに、この方法で果たして覚えられるのか極めて疑わしくなっています。

 字は書いて覚えるものであり、画像の中から選ぶだけでは限界があります。手書きの意味は他にもいくつもあげることができますが、それを封じ手にすることは様々な問題点を抱え込むことになります。

 リモートでもできることとできないことは切り分けて、できないことは次善の方法で効果を狙うということは様々な分野で必要になりそうです。

俳句でも

 俳句は有季定型の文学であり、情ではなく景を描くことによって、結果的に作者の感情を表現する文学です。ある景物にどのような感情を抱くかは民族性や地域性があり、それがこの文学のローカルな一面を作り出しています。

 俳句という言葉自体はグローバル化しており、haikuは世界語となっています。極めて短い形式の中で行なわれる文学表現という行為は民族を越えて広がっていることになります。

 俳句の楽しみ方の基本は句会ですが、この句会システムはデジタルとの親和性があります。無記名で提示された作品の中から気に入った作を選び、最後の披講で作者がわかるというのはとても分かりやすい。これをたとえばG-Suiteを通して生徒諸君との間でデジタル句会を行うことも可能かもしれません。

 俳句には吟行という楽しみもあるのですが、集まれない近づけないいまではせめてデジタルで句会でもなどと考えてしまうのです。

日本語のパソコン

 日本のパソコンメーカーがほとんど壊滅状態であることは素人でもわかります。日本独自の企画で作られているコンピューターはほとんど皆無といってもいい現状です。低価格のパソコンは特別な設備もいらないようで完全にコモディティが進んでいる分野です。

 ただ、今後ぜひ頑張ってほしいのが教育用の分野の国産パソコンのハード・ソフトの国産化です。生徒がつかっても壊れにくく、修理がしやすく、さらに低価格なパソコンと、日本の教育にあった教育ソフトの開発は至急行っていただきたい課題です。

 教学用のパソコンといえばChromebookがあります。安価で管理もしやすい学校用のPCとして日本でも次第に広まりつつあります。ただ、このPCはアメリカ発のものらしい側面が随所に見られます。日本の教育場面にあった工夫がもっと取り込まれなくてはそのままでは使いにくい。日本の縦書きやルビなどの特殊な書式にも対応できていません。

 コンピューターを使うことが言語技術に大きく関係している以上、日本語の言語環境と親和性が低いパソコンを使うことは、根幹から言語の優位性を下げてしまうことにもつながります。これはWindowsでもiOSでも同じであり、日本語にあったパソコンを作ることにはもっと関心を持っていいのではないでしょうか。いままでは外国産のコンピューターを模倣して作り、それに合わせた操作性に自分が慣れていくという方法でしたが、次の段階があってもいい。日本語の環境にあったかたちのコンピューターを日本語話者が造る時代にはいったのではないでしょうか。

 教育現場でつかわれるパソコンは日本語にあったものであるべきだというのが私の持論です。それならば日本のメーカーが参加するチャンスはある。というより日本のメーカーに活躍してもらわなくてはこの国の知的生活の未来は怪しくなるといえるのではないでしょうか。

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どのように考えさせるか

 一問一答式の問題への対応ではなく、予め答えが用意されていない課題に対応する能力が求められています。中等教育では従来の基礎教育が引き続き必要であるのとともに、知識を応用し自主的に考える方法を教えることも求められることになります。

 大学共通テストの記述問題は、採点を公平に行うという問題を乗り越えることができず頓挫してしまいました。解答の方向性を決めるためにさまざまな制約をつけて出題すれば、形を変えた選択問題と等しくなり、記述型でみたい思考力は十分に測定できません。いろいろ補助線を引けば解決すると考えられた採点作業も結局、公平性を保つほどの精度が期待できないということになってしまいました。大学受験者が一斉に受ける試験にこういうタイプの問題はもともとあっていなかったというのが私の意見です。やるならば各大学の個別試験でやればいい。求める文章力や論理の立て方が学部ごとに違ってもいいし、各大学ごとに個別の基準があってもいい。それが記述型試験の本来のあるべき姿であると考えるのです。

 さて、それは大学の入り口の件ですが、その影響を受ける中等教育では自分の考えをまとめ表現することに対してどのような教育を行うべきなのでしょうか。まずは問題意識を喚起させることから始めなくてはなりません。今の生徒、すくなくとも私の関わっている生徒は、教員から与えられた課題に対して答える努力をする才能はかなり高度なものがあります。その反面、自分なりの疑問点をもつことや、それを表現することはかなり苦手であり、結果として常に受動的な学習をしていることになります。

 生徒に自由な課題を選択させて論文のようなものを書かせようとすると、ネットで検索すればすぐに解決してしまうような問題をあげる者が大半です。また、どうしても解決しようもない大問題をあげる生徒もまれにはいますが、むしろそれは歓迎すべきです。答えが出そうもないことは考えないという判断停止の習慣は大人も含めて日常化しています。それを変えていかなくてはならない。

 学校は知識の伝達の場という印象があまりにも強いために、知の創生ということがおろそかになりすぎた。中高生は発展途上でインプットが中心だという考えも強すぎた。いまやらなくてはならないのは知識を伝達しながらも、いかに出力をする方法を教えていくか。そして大学教育にそれをどのようにつなげていくのかを考えていなくてはなりません。

 まずは自分が興味を持ったことを記録させることをやっていこうと考えています。いきなり自分が取り組むテーマを見つけようといっても無理があります。自分がどのようなことに関心をもち、何に疑問をもっているのかを形にしていくことが大事ではないか。少しずつ形にしていくことが大事なのではないかと考えています。

ネット記事の基本型

 文章読解力の低下が懸念されています。PISAの試験は子どもに対して行われましたが大人も例外ではありません。低下した読みの力に対応するかのようにネットにあがる記事も劣化しているように感じます。

 コラム風の文章には明らかに基本型ともいうべきものがあります。まずセンセーショナルなタイトルは字数制限で途中で切れてもいいように肝心なことは後半に書きます。切れたところに何があるのか関心を惹きます。

 文章の前半は具体例です。多くの場合、筆者が目にした事例やデータを点描するもので、よく読めばいくらでも反例が上がりそうな緩い事例紹介です。これがいくつもあがり、文章の大半を占めることもあります。

 結末の少し前に識者の意見などが紹介されます。インタビューの体裁で済ませてしまうこともあります。そして「いかがだったでしょうか」などで括り、読者に注意を促すといったものです。

 こうした基本形に沿った記事はあまり集中して読まないネット読者を意識して書かれているのでしょう。型はあるので一見文章として成立しているかのように思えます。気になるのは多くの場合、内実が少なく、最後まで読んでも印象に残るものが少ないのです。結局何が言いたいのだろうとか、それならもう少し短く述べられるのではないかといいた感想を持ってしまうのです。

 ソーシャルメディアの短い文しか読まないから読解力が落ちるという人がいますが、字数制限がない文章の世界にも読解力不足の影響が出てきているような気がするのです。文章表現力と読解力は表裏のものですので、書き手側の問題も考えていいのではないでしょうか。

察し悪く

 生徒の作文を読んでいて論理的ではないと考えながらも見逃してしまうことがあります。それは読者である私が推測という行動を多めにはさんでしまっているからなのです。言葉を教える教員としては察してはならない。文章に関しては「忖度」は禁物という話です。

 今後の国語教育の課題として自己表現力を高めるというものがあります。読解に偏重していた教育のあり方を表現に変えていくのは実はそう簡単ではありません。その方法、手順、そして評価方法などが確立していないからです。これについてはこれからも考えていきたい。このブログでもその一端を紹介することがあるでしょう。ただ国語教師としてやらなくてはならない大前提は物分かりのわるい人になる必要があるということです。

 私たちがコミュニケーションをするときには、実際には言葉だけではなく身振り手振り、テンポ、間、声の調子などのノンバーバルな側面を総合的にとらえて相手の意思を判断しています。それが円滑なコミュニケーションの基本であり、特に口頭表現の技能においてはこの側面をもっと教えていくべきでしょう。ただ、文章表現に関してはあくまで文章の記述をとおして自己の意思をつたえるのが基本です。その作文のなかでは曖昧さは許されない時もあるのです。

 生徒の作文で最近目立つのは表現の不十分さです。会話では前後関係から察することができるので敢えていわないということも、文章化するときには書かなければ誤解されるということがあります。特に目立つのは体言止めなどの最後まで言い切らない表現です。それが何なのか。何を言いたいのかを最後まで書かなければ誤解を生みます。日本語は打消し表現が最後に来ますので、最後にどんでん返しが可能です。文章で説明する時には断定の助動詞を使うまで言い切らなくてはならない。

 教員が添削するときにそれを会話を聞くかのように読者側で想像してしまうのは作文教育に限ってはやめた方がいいのでしょう。誤解を生むあらゆる可能性を防ぐために物分かりの悪い読者になるべきなのです。まずはこれが生徒に表現教育をする大前提と考えています。

アウトプット

 脳の機能を低下させないためにはアウトプットも必要だといわれています。ただ受け入れるだけではなく、自分の言葉で表現することが大切だというのです。

 テレビを見続けるよりも読書の方がいいとは昔から言われていることです。読書の方が文字からイメージを作るまでの過程で脳がはたらく機能が多いからのようです。書いてあることから意味を構築するまでには抽象化や具体化、映像化、音声化などの作業が入っているので脳の様々な機能を使うのでしょう。

 自分の見たこと聞いたことを言葉にすることはさらに脳の別の機能を使います。本来ものごとは言葉ではなく個々の現象が総合的に起きているのであって、そこにある道筋を立てて表現することが言葉にするという作業です。筆舌に尽くしがたいという表現がありますが、本来すべての現象は話したり書いたりすることが難しい。それをある方法で表現していくことこそが人間の営みだといえます。

 アウトプットに力を置くことはとても重要です。そして、その過程には様々な失敗もある。言ってみたけれどうまく言えない。誤解を与えてしまう。上手に書き表せない、などといった葛藤の連続の中でも継続する習慣が必要です。それは努力もいりますし、周囲にそれを許す環境も必要なのでしょう。

 言いたいこと考えていることをとりあえず表現してみるという試みを私はこのブログを通して実践してみたいと考えています。