カテゴリー: エッセイ

青春18きっぷが変わる

 青春18きっぷはかつて一日有効の5枚つづりの回数券で、普通電車なら何度でも乗れるというありがたいものだった。学生時代はこれを使って旅をしたこともある。期間内ならばいつでも使えたので、夏に二回の旅をしたこともあった。とにかく時間がかかったが、今のように時間的な制約がなかった学生時代にはありがたいものだった。

 今年の冬期切符からは制度が変わり、連続する3日、もしくは5日間だけ使えるようになり、分割ができなくなるらしい。その期間に使い切らなければならないとなるとかなり用途は絞られてしまう。自動改札を通過できるようになったので、乗り換えのときの手間はかなり減るが、それよりも使い勝手が悪くなることの方が大きく、改悪と考える人が多い。

 青春18とは面白い命名だが実は利用者の多くは元青春の世代であり、リタイア世代も利用する人が多いらしい。私も連続する5日が自由に使える日が来たら普通電車の旅に出てみたいとも思う。逆に言えばそういう人でなければ使いにくい。奇数の切符だから3角形、もしくは5角形の旅をすることになる。そういうことをいちいち考えられるのが青春ということなのだろう。

繊細な子供たち

 繊細な子供が増えているという。打たれ弱く挫けやすい。兄弟がいないか、いても一人で幼いころから複数の大人たちに大切に育てられてきたから、怒られる経験があまりなく、ストレスに対する耐性が育たないまま年齢を重ねている。その結果、心のコントロールができないのだ。

 ドメスティックバイオレンスのような極端な挙措は言語道断だが、ある程度の愛ある緊張感は必要だった。それが何でもストレスを与えることは悪のような風潮ができ、甘やかされた子どもが、そのまま大人になる。善悪の判断も曖昧になりがちだ。

 私はこれを他人事として語っているのではない。私自身も叱られることへの耐性や反発力のようなものが損なわれている気がしてならない。両親は溺愛タイプではなかったが、それでも理不尽に叱りつけることはなかった。そのせいなのかは分からないが、些細なことにストレスを感じ、それに押しつぶされそうになる。

 昔はよかったとは思わない。ただもう少し力強く生きることも必要ではないかとも思う。何でも合理的に整備された環境で疑問を持つことなく毎日を送るのは、理想ではあるが生きる力を削ぐことにも繋がってしまう。

 その意味で部活動やその他の集団活動を大切にすることは不可欠だ。疑似的社会集団の一員として、ときには失敗や衝突を経験することで理屈だけではどうしようもならない社会の現実を知るのは無意味ではない。

 それなのにそういった活動はいまは評価が低く、学校の場合は教員のサービス残業でようやく成立している。教育は教室の中だけで行われるのではない。

 平和な時代に逞しさを涵養することはなかなか難しい。下手に規律を強要すると全体主義への扉を開くことになるかもしれず、自由を制限する可能性もある。注意深く考えること、振る舞うことが求められる。

ユリノキ

 宮前平駅からの急坂の富士見坂の街路樹はユリノキである。背の高い、葉の形に特徴がある落葉樹だ。

ユリノキの街路樹

 すでに色づき始めているが、落ち葉の季節になるとかなりダイナミックだ。高木であり、葉が大きいのと、独特の形状のために空中を舞う時間が長い気がする。

 ユリノキの名はチューリップにもユリにも見える花に由来するらしい。葉の形から命名された軍配木というのもなるほどと思わせる。黄葉し、落葉するからこそこの木は魅力的だ。ただ、落ち葉の掃除は大変だと思う。

 秋にこの坂を登るのは私の楽しみの一つだ。

中華という日本料理

 中華料理というのはとても人気がある。中国由来の料理であるとされるがその中には日本でアレンジされたり、日本で発明されたものも多いと聞く。

 ラーメンは日本に渡ってさまざまなバリエーションが生まれ、中国にはない味もたくさんあるという。和風中華の最たるものだ。餃子は中国では蒸したり煮たりするのが中心で焼きはしない。麻婆豆腐は辛味をかなり抑えて日本人向けにした。天津飯は天津にはなく、餡掛け飯は恐らくどこかの家庭料理だった筈だという。

 私はラーメン餃子のセットを頼むことが多いがいずれも中華風日本料理ということになる。これに限らず日本は和風化の得意な国だ。ただ、その元祖への敬意を失わないことも特徴で本場中国風などという形容もよく取られる。文化の取り入れ方の特徴だろう。

秋の声

 秋の快適な1日だった。窓を開けると遠くから子どもたちが歓声を上げて遊ぶ声が聞こえた。風もなく、空気も澄んでいた。

 秋の声という季語がある。元は漢文に由来するらしいが、言い得て妙である。爽やかに澄んだ空の下にいると、普段の喧騒でさえ、趣あるものに感じてしまう。それをなんとか言葉にしたいが見つからない。まさに秋の声というしかない。

 明日から少し荒れる予報が出ている。秋の良き日ははかない。暫くすると凍える季節になってしまう。せめて穏やかな陽気の日が少しでも多いことを祈る。

日の出がこれから

 今朝の日の出は6時02分だった。だいぶん遅くなった気がする。つい先日まで日中の「残暑」が激しかったため、秋の実感がなかった。でも、日照時間は確実に減っていた。

今年の冬至は12月21日で日の出は6時47分なのだそうだ。これから約50日は日々朝の訪れの遅さ、夜が来る早さを実感することになる。秋の次に隣り合わせに冬がある。

多忙

 ここに来て超多忙のドロ沼にはまっている。こういう状況になると物事を考える余裕もなくなる。この波を乗り越えるまでの辛抱だ。

秋の雨

 午後から本格的な雨となった。これまでとは違い、肌寒い雨だ。ようやく本当の秋になったと言える。少しうれしいが、着るものをどうすればいいのだろう。秋の雨はやはり少しもの悲しい。

絵の評価

 ピカソやミロの絵をどう評価するのかはその人の価値観に大きく影響する。例えピカソが本当は写実的な絵画を描くことが出来る画家であると知っていても、それを作品の鑑賞に持ち込むことは結局は個人の価値観による。

 ところが、実際の評価基準は少し異なる。多くの人々の絵画の評価は自分ではなく、他者の評価によるところが大きい。評価史のようなものが前提としてあり、その時代の評価基準に従って絵画を鑑賞する。キュビスムならまだいい、容易に解釈できない抽象画となると、判断すらできないが、美術史の文脈でその価値を説明されるといいもののように感じてしまう。

 絵と向き合い、自分なりの見方をすればいい。そういうのは簡単だ。しかし、話はそう単純ではない。そもそも絵と向き合うということ自体が結構難しい。美術館に並べられた絵をタイトルや画家の名前が書かれた表示から見る人の多くは絵に向き合っていない可能性がある。

 ことは絵画鑑賞だけではない。対象を先入観抜きで見ることができる人は少ない。私の場合はどうしても能書きから先に見てしまう。物理的なものもあれば抽象的なものもある。ステレオタイプのものの見方をして満足することが多い。

 虚心に見るとことは意外に難しい。しかし、この経験は時々やらなくてはならないと思う。なんだか分からないが心惹かれる。もしくは説明不可能だが危険な感じがする。そういう経験をすることが、人生を豊かにするのだろう。

政権交代は夢の夢なのか

 衆議院選挙は大方の予想通り、自民党が大きく議席を減らすことになりそうだ。立憲民主党や国民民主党等がその分議席を獲得することになる。ただこれは積極的選択の結果ではなく、自民への失望が野党へ流れただけだ。

 近年の自民党のあり方からすれば政権交代もあって当然なのに、それが起きない。これはいかに野党の力が弱いかの証だろう。果たして彼らに政権運用ができるのか。その不安の方が大きい。前回の民主党政権では東日本大震災というアクシデントもあり、十分に能力を発揮できなかった。リベラル政権の宿命として、どこか中途半端になりやすい。背景の勢力からの圧力もあろうが是々非々で進めてくれなければ政権を託すことはできない。

 政権交代はその後の交代も含めた概念だ。政党が緊張感を持って政策にあたることこそ民主主義の根本だ。自民党は長期政権でその緊張感を失っているし、野党は政権を本当に取りたいのかと思われるほど、単なる反対党になっている。

 日本がこういった政治家たちでなんとかなっできたのは奇跡というしかない。どう考えても衰退の兆候が打ち消せない現状に明るい希望を与えてくれる政治をしてくれる党がほしい。