平成レトロ?

令和となって8年経つと平成も懐古されるべき過去になってゆくようだ。私のような世代にとっては平成年間は通り過ぎた通過点であり、懐古すべき対象とするには最近のことに感じてしまう。

 戦争も戦後の発展もあった昭和時代に比べると、戦争こそなかったものの阪神・淡路大震災や東日本大震災のような大規模な自然災害に見舞われ、経済的な大停滞時代だったのが平成の特徴と言える。努力すれば必ず報われると信じてきた昭和の信念は、報われることのない場面をいくつも積み重ねた。天災や人災にさらされ決して平穏ではない時代だったと言える。

 最近、平成レトロという言葉を聞くことがある。あまりに近い懐古だと思うが、それほど世の中の変化は激しく、また現状への不満があるのだろう。

所属意識

 幼い頃に何度も転居したためなのか、私には土地に関する所属意識が薄い。所属意識という概念を持つ故郷と言える場所がなく、それを切望しているのに一向に現れないのである。

 そんな私にとって、最初の職場は地方都市ながら自らの所属意識を持てそうな場所であった。いろいろ足りないことはあったが、その不足分に自らの存在意義を感じることができたのである。できればそこにいつまでも暮らしていたかった。

 それが職場の事実で中断され、再び流浪の身になる。東京での生活はかなり長くなったが、いまだに客人として生きているという感覚のままだ。先輩たちのいう「骨を埋める覚悟」が持てていない。これは多分に情緒的なもので、気の所為と言われれば反論は時間がかかる。

 ある場所に対して執着しろとか献身的に振る舞えというのは間違っていると思う。愛国心とか、郷土愛といったものは内発的なもので他者から強要されるべきではない。ただ、その内発的意識が生まれないのはやはりそれなりの問題がある。私たちは愛国心なり、郷土愛といったものと、コスモポリタンとの調和を常に意識する必要がある。現在はそれが自己愛に傾き過ぎているので分断が進行している。でも、世界を等閑視するのはやはり問題がある。

 自分の生活圏を大切にしながら、その生活圏を成立させている周辺世界への目配せも忘れないのがこれからの世界を生き抜く術となる。私はこれからも「旅の人」たる生活を続けるだろう。臨終間近にあるいはこう思うかも知れない。いたるとろろに青山ありしと。今のところはそのような境地には至らないけれども。

自転車運転手の受難

 今日から自転車に対する交通規制が変わった。身近な乗り物である自転車が車両として扱われるようになり、罰則規定も強化された。

 この規定は交通安全を促進するには帰依するだろうが、かなり理想的、もっと言えば非現実的なものであることが残念だ。自転車の走行が想定されている車道脇は路面状態が必ずしもいいとは言えない。水捌けを良くするため斜面になっていることもあり、マンホールなどが設置されていることもある。

 さらには路肩駐車がある場合はそれを回避するために中央に近づかなくてはならず、自動車やバイクとの接触や衝突の危険性が増す。自転車以外の運転者にも自転車への配慮が義務づけられ、罰則規定もあるようだがその周知はなされていない。

 恐らく警察はこの罰則を運用面で制御するつもりでいるのだろう。ただ、例外や除外事項が増えると規則の存在意義が失われる。訴訟にでもなれば、非常に厄介な事例になりそうだ。

 そもそもこの法律を成立させるためには、自転車専用レーンを整備することから始めるべきだった。私の住む街の近辺では車道の両端を塗装して、自転車道のように見せかけたものがあるが、その場所に自動車やバイクが入ってもお咎めはない。駐車も可能とあれば、自転車道とは言えない。速度も重量も走行の安定性も異なる自転車を車道で走らせることはまったく理にかなっていない。

 エネルギー問題、環境問題などを考慮すれば自転車の利用は促進されるべきなのに、そのためのインフラが間に合っていない。今回の法改正はこの事実を浮き彫りにしてしまった。

三月尽

 3月も終わり。毎年この日を迎えると自分の不甲斐なさと、それでも何とか乗り越えてきた適応力を苦しまぎれに自賛するのである。生徒のときはこれから先のことでドギマギしたが、いまはここまでの失態にハラハラする。歳をとっても悩みというのものはなくならないものである。

新年度

 週単位の仕事をしている業者にとっては今日が新年度の始めということらしい。気温が高めで桜はほぼ満開、春というのにふさわしい日だった。

 中東の困った戦争のため、石油危機の予兆が日々色濃くなり、株式が混乱している。ただでさえ変化の激しいこの時期に要らぬ騒ぎは早く終えてほしい。

 NHKラジオが第2放送をやめてしまったのは残念だ。語学番組などはFMなどで引き継ぐようだが私のような世代にとってはかなり残念だ。インターネットでいつでも放送が再生できる時代にあっては存在意義が薄れたとも言える。AMが二波あったことによる非常時の安心感が少しなくなったのも問題だ。

 年度が変わることで何かを捨て新しいことを始めなくてはならない。社会もこの私も。

桜満開

 旅先の神社の境内の桜がほぼ満開だった。気温が上がり、一気に花開いた。このあとは落花を惜しむことになる。この境内では楠の落葉が花びらに交じり、不思議な光景であった。

耐久戦?

 アメリカとイスラエルの始めたイランへの武力介入のため世界経済は大混乱が発生している。イランは徹底抗戦を訴えており、戦争は長引きそうだ。当事国の対立は深刻だが、それ以上に世界経済は大きな影響を受けている。

 石油から精製されるガソリンや軽油を不可欠のものとする流通業者らはすでに深刻な痛手を受けている。中には業務を停止せざるを得ないところまで追い込まれているという。石油から作られるのはプラスチックも含まれ、その中には医療の現場で欠かせないものもあるらしい。そうなると人命に関わる一大事なのである。

 当事者の主張も報じられているが、もうこれは彼らの問題だけではない。世界中の多くの人を苦しめることになっているのである。耐久戦の様相だが、世界中の人々を質に取るのは止めてほしい。

 

アクアライン

 初めてアクアラインを通過した。東京湾を横断する海底トンネルと海上架橋の複合だ。よくもこのようなことができたと思う。内房への時間短縮は素晴らしいものだった。どのくらいの耐用年数があるのか。非常時はどうするのかなどいろいろ気になった。

説経節の理不尽な美意識

 俊徳丸などの説経節の収められている文庫本を読んだ。学生時代、強制的に読まされたときには何とも支離滅裂な刺激的な展開だけを追求した作品かと思っていた。この齢になって読み返すと何とも哀れ深い芸能であったと気づいた次第である。

 説経節の主人公達は理不尽な逆境におかれ、それがストーリーの中で必ずしも好転しない。むしろ残忍な結末に報われない事実を突きつけられるのである。中には死後神格化されたことをもって悲劇を回収するものもある。現代人には理解しがたいのは、人生の中で精算がなされなければ意味がないと考えるからであろう。

 説経節がジャンルとして残ったのは、当時の価値観にかなっていたからだろう。能楽や歌舞伎に展開したのは基本的な精神が共通するからであり、それこそが現代人には分かりにくいものなのだ。非常に刺激的な展開、換言すれば非論理的な話の推移は現代の価値観による判断だ。説経節をライブで聴いた時代の聴き手にとっては、同時代の多数派の考えに基づく自然なものだったのだろう。

 理不尽にして大胆な、それでいてかなり図式的な考え方は当時の人々の思想を考える材料になる。私はいまは素晴らしく過去の価値観は間違っていたとか、未発達だったとかいう判断を避けたいと思う。当時の価値観と現在の価値観どちらが優れているのかなど軽々に言えない。古典研究者の概念設定として、芸能には自分にはできないカッコ付きの理想が語られているのだ。

自転車にブレーキランプを

 単なる思いつきに過ぎないのだが、自転車にもブレーキランプをつけたほうがいいのではないか。車道を走ることが条件付きで義務付けられたいま、来月からは罰則も適用されると言うのだから後方に停止を知らせるランプはあってもいい。前方灯のように常時点灯する必要もないので、さほどの電力消費もないし、太陽電池などを活用すればセルを回すときに起こる負担もないはずだ。

 狭い道路脇を走る自転車には危険が多い。そのリスクを少しでも減らす工夫は必要だと考える。停車を手信号でやるためには片手運転となり、危険性を増やす。ブレーキランプは市販されていて、充電式やモーター連動型、ブレーキレバー起動型から加速度センサーで自動点灯するものなどいろいろある。これらをもっと普及させた方がいい。現状では数千円程度だが、命の安全に役立つものであれば出費としては大きくない。普及すれば価格は下がるはずだ。

 自転車の事故は実はかなり多い。歩道を高速で走るのは論外だが、車道を走る際にさまざまななトラブルに遭いそうだ。対策の一つとしてブレーキランプの装着を提案したい。