大器晩成を待てない社会

 マイペースをどれだけ許容できるのかがこの国の未来を変える可能性がある。最近はすぐに結果を求める傾向がある。それもなるべく努力をせず、最短距離の道を進むことがよしとされる。それを効率性というが、要するに手抜きである。

 一方でなかなか結果を出さない人を悪評価することもある。あからさまな批難をするむきもあるのは現代の醜悪な側面と見る。大器晩成という言葉は人の評価を長期にわたって行った結果である。若い頃は凡人かそれ以下だったのに、長い間の努力で常人をはるかに超える業績をあげたときにこの判断がなされる。待つこと、許すことがなければ成立しない。

 とにかくすぐに評価したがる。即戦力を求めるのはよいが、成績が伸びなければすぐに戦力外通告する。スポーツクラブならばよいが、それが社会の各所に充満すると長期的には大きな損出になる気がする。初速度だけで判断されてしまうと千里の馬も迫害対象になるのである。

 本当に大切な人材を確保することは組織の維持に絶対に絶対に必要だ。そういう余裕があることが必要なことなのである。

漫画になった自分

 自分の写真をイラストに変えるというサービスを使ってみた。人工知能によってあっという間にできる。自分を漫画にすると特徴が際立ち、さらに美化されてしまう。こんなふうではないがこんなふうならいいという感じになる。

 おそらく自分が見ている風景も脳内でこのように変換されているのだろう。都合よく見たいものを見て、それ以外を見逃している。何を捉え、何を除外しているのかを考えると、世界はまったく違うものになりそうだ。

アメリカ合衆国の失態

 アメリカによるベネズエラ大統領拘束の報道には驚いた。国家ぐるみの麻薬輸出疑惑への実力行使というが、他国の大統領を武力によって拘束するというのはテロリストの手法と変わらない。宣戦布告した訳でもないから戦争でもない。それを超大国のアメリカ合衆国がしてしまうのだから非常に大きな問題だ。

 麻薬問題は深刻であったに違いない。ただそれを武力で解決してよいのかといえば、議論は分かれるだろう。まして他国の領土内でそれを行うのなら、正義は通せない。トランプ大統領の判断は間違っている。大国が自国の利益のために対立する小国に圧倒的武力を使って圧力をかけるのが正当化されれば、アメリカ合衆国以外の国にも同様のことをする口実ができる。例えば、ロシアがウクライナを攻めるのは、ロシア側からみれば、自らの国益を損ねるウクライナを排することが目的の正義の戦いであろう。中国の台湾に対する態度も大国の論理で正当化されてしまう可能性を作り出してしまったことになる。

 同じことがほかの国に向けられたとしたらどうだろう。今のところ日本がその対象になる可能性は低い。しかし大が小を征する世界が現出してしまったならば、世界大戦はすぐ隣にあることになる。この事態を我が国が如何に処するかは我が国だけの問題ではなく、国際社会にとっても非常に重要なことになるだろう。

英会話学校

どの学校に通っていましたか ?

 高校生の時、何を間違ったのか英会話学校に通ったことがあった。10人くらいのクラスで、私の他は大学生や社会人だった。渋谷駅に近いビルの中の教室は彼ら彼女らにとっては利用しやすかったのだろう。

 彼らの目的は留学だったり、スキルアップだったりしたのだろうが、私は受験勉強でもなく、単に少しでも英語ができるようになればいいと考えていたのだろう。同級生となったお兄さんお姉さんには珍しがられ、かわいがってもらえた。有名大学の学生がほとんどで能力差は歴然としていたが、唯一愚直に暗記するとか宿題をやっておくといったことに関しては少しだけ勝っていた気がする。

 私は高校3年になった時点でやはりいわゆる受験勉強の方が必要ということで英会話学校をやめてしまった。続けていればせめて日常会話くらいには困らないようになっていたのかもと思うが後の祭りだ。大学受験は奇跡的に切り抜けられたが、結果として何とか読めても話せないいまがある。英会話学校は続けていればよかったといつも思う。

スポーツ観戦

 最近、スポーツ観戦が以前よりも注目されている。懸命に何かに取り組む姿に共鳴することが快感をもたらすのかもしれない。

 バーチャルな体験は人工知能の発展も伴い、ますます現実に近いものに近づきつつある。いまは視覚的なものが中心だが、近いうちにより五感に訴えるものへと変わっていくはずだ。するとますますリアルな体験が遠いものになる。それ故に逆に現実であることが貴重なものになるのだ。

 スポーツ観戦は現実に行われていることへ、感情移入して、脳科学的には一種の同期を起こすことでリアル体験に近い感動を味わえる。実際に試合をしているわけでもないのに、選手の肉体や精神を内面化したような錯覚を味わえるのだ。

 しかも時間が来れば試合は終わる。日常に帰還することが予め保証されている体験なのだ。最近のスポーツ観戦にはそういう精神風景があるように感じる。

みぞれ

 夜になって雨が白くなった。雪と言っていいのか霙なのか際どいところだ。寒波が南下して関東南部にも積雪の可能性があるという。もしかしたら積もるかもしれない。そんな予感がする。でも、すぐ消える雪だろう。

 富山に住んでいた頃はいわゆるぼたん雪がだんだん細い雪になり、時には雷鳴もあって激しく降り出すとまとまった積雪になった。1人ぐらしのときは覚悟のために酒を少々飲んだが酔えない。明朝は雪かきで始まり、慣れない雪道を車で走らなくてはと思うと自然と緊張してしまうのであった。いまとなっては懐かしい感触だ。

 雪の前の緊張感はなくなっているが、これから何があるかわからない毎日だ。せめて今日のような夜は気を引き締めてみたい。

初詣

 元日の今日、各地の神社では初詣の長い列ができた。日本人は宗教に関心が薄いというが、まったく当たらない。一神教的な物差しには当てはまらないが、極めて信心深い。教理に対しての信仰というより、救いに対しての素朴な思いが強いのだ。

 初詣の良いところは待たされても殆どの人は文句を言わないこと。割り込みはないが、たとえあってもそれほど目くじらを立てる人がいないことだ。いつもより寛容になっている人が多いのはこの日のよいことだ。

 初詣に何を願うのか。私の場合は結局は世界平和なのだと思う。それはいまやっていることが不可抗力で無駄にならない環境を維持したいということなのだ。戦争はそれをぶち壊す。そして、誰も責任を取らない。そうならなければ、悪あがきを続ける価値が残される。私はその環境だけは維持したい。

 初詣だけではなく時々、社寺に訪れることは意味があるのかもしれない。自分の現在地を時に客観視するためにも、自分以上の視点を持つ機会を持つことには意味がある。

2026始まる

 2026年はどんな年になるのだろう。私にとってはまもなく人生の節目を迎えることになる。最後の仕上げの一年だ。といっても、やれることは限られているし、それをとにかくやってみるしかない。毎年、年始には大風呂敷を広げ、勝手なことを抱負として述べることにしている。

 今年はこれまでにやってこなかったことを始めたい。その多くは地味で詰まらないことかもしれない。それでもいい。何もしないよりずっといい。恐らく始めた分だけ、いやそれ以上に失敗があるはずだ。その屈辱や挫折も含めて人生に彩りを加えてみよう。

 その一端はブログにも書いてみよう。恥をかき、かいたものを書く。そんな1年にできたらいい。

丙午伝説

 来年は丙午(ひのえうま)にあたる。この年に生まれた女性は気性が激しく家庭を亡ぼすという迷信があり、直前の1906年、1966年は出生率が顕著に減少している。ただこの迷信の根拠が江戸時代に起きた八百屋お七の放火事件にあるというからかなりあやしい。お七は火事で自宅が火災になったとき、非難した場所で知り合った男と恋に落ち、その後別れたが火事になればまた会えると思って自宅に放火したという。ぼやで済んだがこの罪で火あぶりの刑に処せられたという。そのお七が丙午の生まれだというのだ。お七を取り上げた井原西鶴の『好色五人女』などによればお七は丙午生まれではない。そもそもこの浮世草子自体が創作であり、史実ではないのだがどうもこの女性の人生が江戸の人々には同情を惹いたようで何度も創作化され、そのなかで丙午誕生説ができたらしい。

 この根も葉もない迷信がなぜか丙午生まれの女性を差別する伝統を作ってしまった。1966年も人口ピラミッドをみると明らかに不自然にへこんでいる。この生まれの人たちはどうかと言えば実は偏見に悩んでいるというよりは恩恵を受けていることの方が多いようだ。同級生が少ないことは入学試験や入社試験で有利に働くということである。来年はこの迷信による出産抑制は少ないといわれている。そもそも何もなくても人口減少が激しいこの国にとって、毎年が丙午のような迷信にとらわれているといっていいのかもしれない。

 国家を維持するための人口が不足しつつあるというのが専門家の意見である。丙午の迷信を気にする若い世代は少ないと考えるが、それでも多少の影響はあるのかもしれない。同級生が少ないということはデメリットもあるが、どちらかと言えばメリットの方が大きいような気がする。迷信にとらわれず、むしろそれを利用するようなたくましさが求められている気がする。

今年の衝撃的な出来事 トランプ関税

 今年の海外ニュースのなかで最も衝撃的だったのはトランプ大統領の繰り出した関税政策である。国益を守るためという理由で同盟国にも高い完全を課すことを発表し、その後の交渉によってそれを容易に変える。恐喝のような方法を超大国がしてしまうことを恐ろしく感じたものだ。そしてこれはいまだ継続している。

 冷戦終結以降、アメリカは世界をリードする国家として強大な権力を持ち続けてきた。世界中の紛争に介入し、世界の警察とも言われた時代もあった。また発展途上国への積極的な援助も行う慈善事業の支援も行っていた。それがどうやら旗色が変わってきた。他国のことを世話している余裕がなくなったようだ。支援は無駄遣いといい、移民を制限し、外国人労働者を敵のように考える。建国以来他の大陸から移民してきた新国民によって発展してきたアメリカが、その活力の源を断とうとしているのは実に皮肉に見える。

 もはやアメリカ合衆国は超大国の位置づけからランクダウンしつつあるのだろう。ロシアに変わって台頭してきた中華人民共和国も近年は国内外に大きな問題を抱えているようで、大国然としたふるまいはしていない。世界を支える存在がなくなりつつある中で、どのようにして国際平和を維持していくのかが心配になる。トランプ大統領の存在はその実に分かりやすい警鐘であり、日本もその傘下にあることを改めて考えていかなくてはならない。