投稿者: Mitsuhiro

小さな感動

 私は昔からいろいろな言い訳をしてきた。だからこれもその一つである。ただ、これから私の年齢に達する人たちには聞いていただきたい。老いの繰り言と聞き流していただければそれでいい。

 恥ずかしながら、いま私は小説や脚本を書こうと思っている。しかし、これがなかなか進まない。その原因の一つが感動できないことにある。感性の鈍化と言うのが近いのかもしれない。

 詰まらないことに感動することは若者の特権だ。ただそれがつまらないなどと誰が決めたのだろう。それこそが老いのもたらす弊害だ。感動することはいくらでもあるのに、それを予め過去の経験と照合して類型化してしまう。その結果、目の前にある出来事をそのまま受け取ることなく様々な測定値のもとに数値化してしまうのだ。

 創作にとって必要なのは小さな感動の積み重ねだと私は思う。それがあるからこそいままでにない世界が創れる。それを過去の経験にいちいち照らし合わせてマッピングするのは世の中には測定できないものはないといっているのと近い。

 私が感動できるものの範囲は年々狭まっている気がしてならない。恐らくいまの安定的な境遇が崩されるときがいい機会だと思っている。思春期ならぬ思秋期もしくは思冬期は創作の機会としては意味がある。小さな感動を敢えて過去の出来事と結びつけない。それでいろいろな創作ができそうだ。

心の瞳で君を見つめれば

 この時期になると坂本九の「心の瞳」を聞き直す。日航機の事故により、歌手としての絶頂期に急死した坂本九は、子どもの私にとっても本物と思えたエンターテイナーだった。明るく優しい人柄は歌からもトークからも感じられた。人形劇、八犬伝のナレーターとしても憧れの人物だった。

 「心の瞳」は事故の数ヶ月前に発表され、テレビ放送では歌われたことがないようだ。ただラジオ番組ではこの事故の直前に収録されたものの中で歌唱している。動画サイトでそれを聴くことができる。

心の瞳、最後の歌唱

 優しい歌詞、歌いやすくしかも感情移入しやすいメロディと、坂本九の声が見事にマッチした名曲だ。

 その後この曲は合唱曲に編曲されて中高生を中心とした世代に歌い継がれてきた。その世代が歌うと歌詞の意味が多少変わるがそれでも不自然さはない。むしろ新しい意味合いで再評価される。

 坂本さんがもう少し歌手として活躍していればもっと大きなことをなさったはずだと思うと痛切な気分になる。この歌を私も口ずさむことはあるが、様々な思いがそこには挟まってくる。

冗長を厭わず、嫌悪を嫌わず

 冗長を嫌わず、とにかく思うことを綴ること。それが私の最近の方針である。どうも昔のように整理してから発信するという芸当ができなくなってきた。昔はそういう無駄なことをする輩を嫌ってきた。しかし、今はそういういう余裕がないことに直面している。若い人にはひそかに聞いてほしいことである。

 科学的ではないが、加齢の弊害の一つに短期記憶の低下というものがある。昔は何ともなかった記憶のポケットがとても小さくなってくることを痛感する。これは少しずつ着実に進むから具合が悪い。行ってみれば短期間の記憶喪失が頻発するということなのだ。これは脳科学者ならば適切な説明ができるはずだ。

 とても残念なことにこの現象は多岐にたわって様々な問題を起こす。私たちの生活の大半は短期記憶に支えられており、それで人生の大半を乗り切っている。その最も基本的な能力を奪われてしまうと、打つ手はなくなっていくのだ。

 そんなことは例えば特殊な病に侵された人だけの話だと思う若者は多いだろう。私もそうだった。残念ながらこれはほぼすべての人が味わう老化現象なのだ。このことを伝えなくてはならない。言いたいことは本人の意思に関わらず、加齢により脳の老化は確実に起こり、その一つに短期記憶の低下があるということだ。私自身が大変悔しく感じていることの一つだが、これはどうしようもない。

 前置きが非常に長くなったが、短期記憶衰退のわかりやすい現象の一つとして話の冗長性がある。さっき同じ話をしただろうと聞き手は思うかもしれない。しかし、高齢の話し手はすでにさっき話したことは忘れているのだ。そのことを若い世代は理解できないかもしれない。単に耳が痛い話を永遠に繰り返す嫌味な奴だと思うかもしれない。

 高齢の助言者は無視していいのか。少なくてもこの国で生きていく以上は先輩の発言は無視しえない。科学的根拠は劣ることがあっても、経験的な正当性は高く。それを参考にしない手はない。先輩はやはり立てるべきなのだ。ただ。盲従する必要はない。皆さんが手本としている先輩は日本の歴史という尺度で考えれば、ごく最近の学習者に過ぎない。そこから役に立つすべての情報を引き出せるはずがない。

 その上で言いたい。あなたの近くにいる目標とすべき先輩の存在が無意味なのかといえば、それは違うといいたい。人生は思った通りには全くいかない。様々な条件がそろっていてもうまくいくとは限らない。私たちの人生が偶然に満ちたものであることは過去の歴史から容易に推測できる。

結果よりエピソードを

 

 オリンピックでも他の試合でもそうだが、私の場合は結果よりそこに至るまでのエピソードの方が気になる。求めているのはいかに試合にたどり着いたかであり、結果はその経過には及ばないと考えてしまう。

 スポーツを見せるときには、このことを考えた方がいい。テクノロジーでよりわかりやすい映像を作成するのはそれはそれで大事だが、選手の内面に迫るエピソードを紹介するともっといい報道になるかもしれない。

 こう考えると私はスポーツに人間らしい何かを見つけ出そうとしているのかもしれない。

怪獣はいないから

 台風、猛暑、地震と避けられない天災が連日のように襲いかかる。日本と言う国の宿命だが、なんとかならないものかと思う。

 子どもの頃、ウルトラマンの退治した怪獣を平和利用するというような話があった。その中で本当にあればいいと思ったのは冷気を吐く怪獣たちに台風の進路を変えたり、減衰させるというのがあった。本当にそのようなことができたとしたら、さぞかし有益なことだろう。

 怪獣がいない以上、夏は人間の方が身を引くしかない。8月の日中に屋外のスポーツをするのは控えたほうが良い。甲子園も朝夕の時間に分けたようだが、他の競技もなるべくそのようにするべきである。

 これからも酷暑が続くようだ。暑さによる疲労が毎日蓄積している。体調を気にしながら、なんとか凌ごうと考えている。

巨大地震注意

 日向灘沖で2024年8月8日に発生した震源の深さ30Km、最大震度6弱、マグニチュード7.1の地震は、南海トラフ巨大地震と関連付けられて気象庁がこれまでとは違う発表をした。記者会見を聞く限り、まだ完全な関係性があるというわけではなさそうだ。ただ、巨大地震への注意喚起という異例の発表は注目に値する。

 今年の元日に能登半島沖で大きな地震があったばかりであり、この国は地震を免れることができない宿命にあることを再認識させられた。2011年の東日本大震災でもそうであったが、私たちはそれを忘れることにも長けている。この国で生きる者の知恵であろうか。過度に恐れずに、なるべく日常生活を損なわないようにする。そのようにして多くの災害を乗り越えてきた。

 今回の発表は科学の成果の結果だといえる。少なくとも1週間は注意が必要であり、警戒がいらなくなる時はない。私たちはパニックを起こさないように、災害の発生時の被害を最小限に抑えるための努力を続けるしかないのだ。

冷房風邪

 少し咳が出る。冷房した室内と外気の温度差があまりに酷いために体力が落ちているのが原因かもしれない。今のところ乾燥がよくないことだけは分かった。のど飴とこまめな給水とで凌ぐしかない。

古典の読み方

 かつて古典研究の真似事をしていた身にとって、古典は学問の対象であり、しかるべき手続きを読まなければ触れてはならないものという考えがあった。しかし、いまはその考えは間違っていると思う。

 古典作品をどう読むかは読者の自由だ。ただ、それが書かれた時代の言葉や価値観を知らずに読むと、作品の伝えたいメッセージを見誤る可能性がある。だから、古典の言葉を学び、文法を学習し、背景の歴史を習得する。それはしないよりした方がいい。

 でも、それをしなければ古典は読めないわけではない。思い切り現代風に解釈し、恐らく作者の意図とはまるで異なる読みをしたとしても、本当の古典作品は耐えられるはずだ。

 もちろん、従来の文学研究は大切であり、これからもさらに継続し、深めて行く必要がある。近年、この方面が疎かになりつつあるのではないかという危惧が、私にはある。

 しかし、過去の作品を新しい視点で捉え直すことはそれと同じくらい必要だ。古典を埃の下に眠らせない。それがこの国の持つ潜在力に繋がる。古典には多様な読みがあってしかるべきだ。

オリンピックは分散開催でもいいのでは

 パリオリンピックは運営上の様々な問題を指摘されている。前回、東京大会では無観客だったために表面化しなかったが、国際試合を短期に同じ都市でやることには無理がある。オリンピックは競技を減らして、行うべきだと言うのが私の考えだ。

 伝統的な陸上競技などの競技のほかは敢えて同時期に開催する必要はない。むしろ競技ごとの特性を活かして独自の運営をすべきなのではないだろうか。

 そのように考えたもっとも大きな理由は、オリンピック開催中の停戦という不文律が全く機能していないことにある。オリンピック開催中はあらゆる戦闘を自粛しよう。そういうメッセージが発信されていない。しているのかもしれないが、成功していない。オリンピックの唯一無二の存在意義が果たされない以上、高額の経費を費やしてオリンピックを行う意味がない。

 むしろ、競技ごとに世界各地域を巡回する大会をした方がいいのではないか。スポンサーの獲得とか運営団体の経営手腕の強化など、克服すべき点は多い。でも、その方が結果的に競技のためになるのではないかと考える。

 東京大会はコロナウイルスのために限定的なサービスしかできなかった。でも、運営上の問題点は概ね解消され、他国選手にも評判がよかったと聞く。ただ、閉式後、数々の不正取引が発覚し、この大会を国民として称賛することはできない。残念だが事実である。

 様々な方面で現代オリンピックはすでに限界を超えていると言える。後付けでスポーツマンシップを付け足してもコマーシャリズムの流れからは逃れられない。ならばこの形のオリンピックは止めてもいい。

 よく言われているように、参加国が相応の参加料を支払って競技を行うにとりあえずギリシアを会場とすればいい。ギリシア国家はこの方面の負担はいらない。スタジアムの建設は参加国と寄付金の供託金で行ない、それ以上のことはしない。ギリシア以外に開催を希望する国があればそこでやるのもいい。

 いわゆるマイナースポーツだけ開催されるオリンピックには商業的な旨味はないかもしれない。でも、スポーツにとってはその方がはるかにいい。そして忘れてはならないのは平和へのメッセージだ。オリンピック開催中はあらゆる戦争、紛争を中断すること。それが発信されなくてはそもそもオリンピックをする価値はない。

死という言葉の意味

 タレントがソーシャルメディアで不用意に使った死という言葉が話題になっている。他人に死を促すこと、しかも公然とそれを発言することにどんな意味があるのかを再考させられる。

 言霊を信じていた時代、死ねということは一種の呪いであった。和歌を読むと死ぬほど愛しているといった恋愛の表現はあるが、本当の人の死は婉曲的に表現されている。それほど気を使う言葉だった。

 それがいま、人に平気で死ねという人がいる。それだけ言葉の価値が暴落してしまったということなのだろう。誰かに死ねということは、自分の存在が社会に不適合の状態にあることを漏らすようなものだ。そう言わなければいかんともしがたい現実が立ちはだかっているのだ。

 死という言葉の意味を考え直したい。身近に亡くなつた人が増え、さらに自分自身もその候補にカウントされる年齢になると、死という言葉の重みはかなり変わって感じられるのである。