投稿者: Mitsuhiro

経験知というもの

 ドキュメンタリー番組である地方の漁師は風雨の到来を山にかかる雲の色や形で予見するのだというのを知った。それが気象学的に裏付けられたとしても、漁師の判断はそれとは別に行われる。

 経験知という括りでは広すぎるが、理屈ではなく経験上の知恵として知っていることは実は多い。理論は後付けであり、幾度か修正されて現実に近づく。

 私がかつて住んでいた所では山がいつもよりはっきりと見えるときは雪が降る前兆ということだ。かなりの確率で当たり、その明瞭度が高ければ高いほど積雪が多かった。

 都会に住むようになってこうした体感的な知識の要素は著しく縮小してしまった。第一、空の様子とか、遠くの風景を眺めることが減ってしまった。人工物だけを見て毎日を過ごしている。天気はスマホの画面から確認する。現在の気温ですら肌で感じる前にスクリーンで確かめている。

 体感的な要素を失うことに不安を感じる。昨日と今日はかなり気温が高い。この時期、こういう日の後は天候が荒れて極端に寒くなりやすいということは感じている。これももはや他からの知識なのか経験知なのか分からなくなっている。でも、自ら感じ取ることはやはり大切だ。

大学受験と学びの本質を考える

 大学入試も大詰めである。私は大学受験に関しては結果的にはうまくいった。第一志望は地方の国立大学だった。運よく合格できたが、結局都内の私立大学に進んだ。親の希望もあったが、要するに一人暮らしをする覚悟が足りなかったのだろう。

 受験生のときは自分にとっては目標志向型の生活ができていた。参考書を何度も読み、自分なりにストーリーを作り覚えた。インプット重視の受験勉強には対応できたのかもしれない。高校2年生まではふるわなかった成績が受験というフレームの中ではまずまずの出来だったのだ。結果として大学に滑り込むことができた。いまから思うに受験とはいかに大学に行きたいかと思う志向性と、それを実現するために努力を続ける愚直さの合わせ技で決まる。持って生まれた賢さがある人には理解できないだろうが、凡人は自己暗示と単純な作業の継続力が大切だ。

 受験生の頃はそれがうまくはまった。しかし、その後の学生生活はそういう受信型な学習ではどうにもならないことを知る。高校までの授業のように大学進学という目標があって、それに対してすべての教師が表面上は様々なあるが結局同じ答えを導くように教えていく。対して大学の教授陣にはその意識はなく、自分の専門領域をひたすら開陳する。特に私が進んだ文学部ではそれが顕著だ。世の中の役に立つ学問は偽物だと言い切る先生もいた。勝手に講義が進み、教員によって結論に齟齬があることが普通にあった。その学派ではそうかもしれないが、実は間違っているなどと。

 大学生になってからは自分自身に目的意識がないとうまくいかない。当時の学生が講義にあまり出なかったのは怠惰だけが理由ではない。与えらた情報をとにかく記憶し、試験という決められた時間内で要領よく吐き出すことしか教えられてこなかった人たち、特にその方面では素晴らしい才能を発揮してきた人たちの多くは大学進学以外の目的意識がなかったのである。ある程度の大学を卒業すればそこそこの就職ができると信じられていた時代である。入学時点でほとんどの目標が達成され、あとは落第せずに卒業すればいい。持ち前の要領よさだけが発揮され、学問への傾倒は期待できない。

 それでは高校までの受信型学習は無意味なのかといえばもちろんそうではない。物事を考える前提となる知識や技能がなければその先の展開は期待できない。漢字の読み書きができ、語彙力があり、基本的な読解力をもち、方程式が解け、幾何の問題を解く作法を知り、過不足なく証明を書く技能は成績がどうであれ、実は現在の行動の根本にある。理科・社会で学んだ知識は丸暗記だったが、それが現実と照合したときに生きることがある。英語は話せなくとも外国語を知ることで自国語の特徴に気づく。実際に英語で仕事をする人は中等教育で受けた授業が基本になっているはずだ。

 受験生の頃は大学に進学する手段としてしか勉強を考えていなかったが、今になって考えると人生を豊かにし、他者そして社会を知るきっかけを得ていたことが分かる。いま教える側の立場になって、職業上の任務として大学合格者を多数出すという不動の命題はやはりある。いかに効率よく最短距離で成績をあげ、合格通知を生徒に受け取らせるのか。それが目的だと考えている同業者は多い。しかし、従前の自分の経験に照らすと、それに加えて学問をする目的も少しずつ考えさせた方がいい。ときに生徒を混乱させるかもしれないが、なぜ学ぶのかを考えさせた方が結局その後の彼らの人生に資することになる。

見ることの大切さ

 視力と集中力はかなり関係があるように感じる。はっきり見えるか否かで対象に対しての注意はかなり変わる。あるものだけが見えなくなるのではなく、すべてが朧々とするのだから影響は大きい。

 その意味で老眼の進行は深刻だ。脳機能の低下と、視力の衰退が一層の注意力減退に繋がる。眼鏡をかけたり外したりする生活に対応せねばなるまい。こうした身体的変化は少しずつ顕在化するので気づいたときにはかなり進んでいる。

 かけ続けている眼鏡の度を見直し、疲れやすい現実を克服しなくてはならない。

維持している人たち

 よく日本の街はきれいだというが、その際に想起しなくてはならないのはそれを維持している人がいるということだ。単純にマナーやモラルの問題だけでは片付けられない。

 ゴミが落ちていないといわれる駅前でも、やはり捨てる人はいる。意図的に捨てる人は少ないが罪の意識なしに捨ててしまう人は多い。そして、他人が落としたゴミを拾う人は少ない。最近はごみ箱を置いていないところが多いので、拾っても始末に困ることもあるが、マナーの良さは他人のゴミ拾いまでには及ばないという訳である。

 ゴミが落ちていないのは清掃する人が定期的に巡回しているからだ。彼らがゴミを集めてくれているお陰で新たなゴミを捨てにくい環境が保たれているともいえる。その役割の大切さを訴えたい。

文学的視点の復権を

効率化が大切だという人の多くは、実は人間生活を答えのある法則性の中だけで捉えている。なんでも数値化でき、その中で演算をするから効率などという数字を持ち出す。そもそも世の中の多くは定量化できず、不規則で予測不可能だ。そのような方面を注意深く無視して、数えられる現象だけを取り上げて計算する。効率化の多くが自然から乖離しており、それゆえにその矛盾に人々は苦しむ。

こうしたことに気づくためには、やはり文学のような他者の心情や行動を考えるものの考え方が必要だ。実際の社会は決して法則的ではない。外れ値だらけの現実をそのまま受け入れる感性も必要なのだ。

 昨今の風潮はこの大切な流れを忘れているように思える。なんでも方程式に当てはめようとする態度は人生の機微を無視してしまう。こんなことをいうと感情論であり無意味だというが、はたしてそうなのだろうか。不規則な毎日に無理矢理物差しを設定し、測れないものはなかったことにするという考え方自体が無意味だと反論できる。

 学校教育における文学的文章の軽視は現代社会で誕生したエリートたちの犯した大きな間違いだろう。少し後の時代の人々が21世紀始めの社会を批判することになる。あの頃は科学だけで何とかなると信じていた時代だったと。文学的な視点が軽視された不幸な時代だったと。

小学生に説明して

 私は授業の中で文中の用語や、表現を説明させるとき小学生でもわかるように説明してほしいという注文を出す。5年生くらいを想定している。何がいいたのかといえば、難しいことをいかに分かりやすく置き換えるかが大事ということだ。ただし、易しくしすぎて元の意味が分からなくなってはならない。あくまで言い換えでなくてはならないのだ。

 ご存じの通り、現代文の設問の大半は「~とはどういうことか」か「~であるのはなぜか」である。前者は文脈に沿って意味をとらえ、それを別の分かりやすい表現に言い換えよという意味である。多くの生徒は文中のことばパッチワークのように組み合わせ解答を作るが、中には出来上がったものが何を言っているのか意味不明のものもある。大半は本文の表現をそのまま切り取ってきているため、ピースを組み合わせると非常に不自然になるのである。この種の問題が求めているのは文中の語の組み合わせではなく、結局何が言いたいのかを表現を変えて説明することだ。

 小学生に説明してほしいとは過剰な要求かもしれない。まず述べられていることを解釈し、自分なりの表現に変換してさらに相手の語彙レベルとか認知のレベルを考えて調整しなくてはならないのである。相手が小学生ではなくて自分と同等の人に話すという前提でもよい。大切なのは自分ではない他者に自分の観察したことを適切に伝えられるかということである。

 多くの教育関係者の文章に「知ることとは何か」というテーマがある。それらを読むと単語として丸暗記し、それを試験で一気に吐き出すという行動は勉強の質としては高くないという。極論すれば意味のないことを丸暗記して、一定時間後にそれをアウトプットするだけでは知的行動にはならないということだ。個々の用語がほかの語彙と結びつき文章となったとき、そこに一定の意味を生じる。それが分かることが「分かった」という境地だというのである。小学生にも分かりやすくするというのはこの自分なりの概念を構築を求めるからである。

 難しいことを難しく語る人は実は良く分かっていないという人もいる。本当の賢人は難しいことを分かりやすく語ることができる人だという。私自身もそれを心がけていたい。

横を向く大阪の駅のベンチ

 旅行で大阪に訪れたときに気づいたことがある。駅のホームにあるベンチがホームに対して90度の向きを向いていることだ。長距離電車のボックス席のようにいくつかの組み合わせで向かい合っているものもあった。東京近郊の駅のほとんどのホームのベンチは列車の到着位置に対して正対しており、かなりの違和感を感じた。

 調べてみると、これは酔客の転落対策だという。酩酊しホームから落下する人の行動を調査すると、ベンチから立ち上がりそのまま前進してしまうことが多いというのだ。意識が朦朧となっているときは前進することしか考えられないということなのか。あらかじめホームと直角に座っていればその可能性は低減することになる。よく考えられている。

 首都圏の主要な駅ではホームドアを設置して転落を防ぐ対策としている。ただ、設置と維持にかかるコストがかかるらしく、また車両の型によって乗車位置が変わる路線では導入が難しいという。さらに理由は未調査だが、せっかくホームドアを作っても終日開放している駅もある。運用にはさまざまな問題点があるのだろう。

 ベンチの向きを変えることで事故対策にしようというアイディアは素晴らしい。このようなちょっとした工夫で現今の問題を解決もしくは軽減する方法はいろいろあるのだろう。これからの高齢化社会にふさわしい街づくりもこうした柔軟な発想から始めるべきだと痛感した。

郷土愛

 ある土地に生まれ、その地にどれくらい執着するのかは個人差がある。生まれただけのことであると割り切れるむきは特に気にしない。そもそもこの世に生を受けるか否かは本人の意志を越えており、ましてその土地がどこかなど考慮外である。

 それでも実感として故郷に対する思いの強さは揺るぎない。なぜ生誕地に拘るのか、はっきりとはわからない。郷土愛という言葉で総括されてもなぜそれがあるのか説明できる人は少ない。自分が生まれたというだけでその地が他より優れていると考えることは信仰のようなものだろう。

 そうは言っても、やはり故郷を愛する気持ちは抑え難い。理屈よりは感性の問題である。故郷は遠き彼方にて思うものという言葉はそうならざる状況に追い込まれた人の持つ感慨である。古人の残した詩句にそれを感じることができる。

 ところで、故郷の範囲をどう考えるのか。それが大問題であろう。かつては村を、そして国、今で言う都道府県をその単位と考えた。いわゆるウチと呼べる範囲はそのようなものだったはずだ。ウチの街では、ウチの県ではと言える。国際社会においてはウチの国と言えるかというと、この感覚はやや無理がある。我が国という類似表現があるが、ウチほどの密着性はない。

 さらにウチのアジアとかウチの地球というのはますます無理だ。SFの中の表現ならばいざ知らず、非現実的な表現である。こうしたことから考えると郷土愛というときの郷土の範囲はある程度限られている。

 郷土を愛することそれ自体は素晴らしいことだが、この愛には他者の郷土をも尊重する態度が含まれていなくてはなるまい。それがなければ、自己中心的な感情となってしまう。結果的に巡り巡って自分の里をも傷つける。他者にとって自分もまた他者なのだから。

 郷土愛を育てる大切さを訴えるときに、まず他者の郷土も尊重することと、その先に大切にする場所の範囲を広げることが肝要だ。

 

寒さ慣れ

 寒い日々が続ているうちに身体が順応してきたのかもしれない。寒冷順化というそうだ。かつては少しでも寒いと震えが止まらなかったのに、それほどでもなくなっている気がする。

 もっともこれは今の気温が続いていることが前提であり、さらに寒くなればやはり過去と同じようになるだろうし、逆に暖かい日が数日挟まると順化の恩恵はなくなってしまいそうだ。体感とは相対的なものであり、気温ではなく気温差が感覚に大きな影響を及ぼす。

 気温だけはなく、感覚的なことの大半は変化によって感じ取るもののようだ。演劇や映画の世界では悲劇の前に必ず穏やかな場面を置く、観客はそこからの落差に感動し、時に涙を流す。緊張と緩和の組み合わせが要だというが、これも人の感覚の特性をとらえたものなのだろう。

生徒は手書き、教員は…

 先日も書いたが生徒の国語力を上げるには究極的には手書きの文章作成をいかにさせるか。そして、それを継続的に実施し、指導するための評価を行うかにあると考える。デジタル機器の教育への導入で間違っているのは、特に国語教育においては「書く」ことを疎かにしたことにあると考える。

 私たちの身の回りにはもはやスマホやキーボードがなければ文章が書けないという人が少なからずいる。紙に書くという行為が億劫だからという理由以前に、考えたことを順序だてて文字にしていくことが難しくなっているのだ。デジタルであればテンプレートがあるし、語彙レベルでは予測変換もする。また人工知能を使えば文章すら組み立ててくれる。マイクロソフトは「下書き」を手伝うという設定にしているらしいが、実際にはほぼ完成形の文書とみてそのまま使う人も増えているのではないか。そうなるとますます文章が書けなくなっていく。

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 ならばどうしてもデジタル入力をせざるを得なくなる大学生になる前に、初等中等教育では徹底的に手書き文章を作成する訓練を積むべきである。これが冒頭に述べたことである。インターネットで資料を検索したり、図表を作成したりすることは機械任せにしなければならないこともあるだろう。しかし、文書作成能力に関しては譲ってはならない人間の能力である。

 そこで問題になるのが、教員側のこの教育に対する対応である。生徒から大量に提出される紙の答案にいちいちコメントを書き入れ、改善点を指摘していくのにはかなりの労力が要る。例えばそれを学期に一度やるとか、月一度は実施するといった程度でも負担感は大きい。そこで外注するという方法が出てくる。でもこれでは返却までに時間がかかることや、家庭にさらなる出費を要求することになり問題点が大きい。

 解決案として考えているのは教員側の方はデジタル化で対応するということだ。答案をスキャンし、その上にデジタルで書き込む。コメントはある程度使いまわしも許容し、観点を決めて評価する。そして、それ以外は見ないことにする。例えば、今回は主述の一致をみると決めたら、それ以外の内容的な面は多少目をつぶって採点する。逆に、表現面の工夫については問わずに着眼点だけを採点するといったようにメリハリをつけるというやり方だ。もちろん表現と内容は相関するので結局両方を評価することになるだろう。

 また例えば400字以上の作文の添削を継続的に行うのは無理だとすれば、200字以下の文章を書かせる課題を続けることも手である。目的は文章で答えることを習慣化させることなのだから、添削の正確さは実は二の次なのである。大切なのは練習を続ければ文章作成がうまくなっていくことを実感させることで、単なる点数化ではない。

 生徒にはあくまで手書きで書かせ、教員はデジタルの利便性を使う。この方法を実現するためにはスキャナーや、タッチペンで入力できるシステムなどが必要だが、生徒の国語力向上を考えればやるべき投資ではないだろうか。生徒が端末を持っているならば、教員の添削結果をデジタルで返却するのでもいい。できれば紙に出力した方がいいが。

 ちなみに私も手書きの文章能力の衰えを実感するものとして、ブログを書く前にノートに書きたいことを殴り書きすることがある。この記事もその末に書いたものだが、原型とは全く違う内容になっている。でも、自分の脳と手だけで書くことを先行することには意味があると確信する。