投稿者: Mitsuhiro

堂々と間違える

 同じように情熱を傾けたつもりであつてもその成果はさまざまだ。うまくいくときと何をやってもだめなときとがある。おそらくその極端な例が記憶されていて基準のようなものになっているのだと思う。実際はその時々の状況によるものだ。たまたまうまくいったこともあれば、失敗の連続で心が萎縮してしまったこともある。

 私は何かをやるときに過去の経験から逃れることが難しい。失敗した例があると、その繰り返しを恐れて余計うまくいかない。その難易度とは別に障害となるものが出来してしまうのである。そもそもやることを回避してしまうこともあるから、余計に克服できなくなっていく。

 その都度気持ちを切り替えて、過去の経験にとらわれないようにすべきなのだろう。これは言うは易し、行うは難し。今の私にできるのは堂々と失敗することに慣れるのに越したことはない。間違えることが決してものごとの末端ではないことを認識すべきなのだろう。

 

生産の儀式

 生産の儀式というのは正しい表現ではないが、私の場合は結構大切なルーティンである。それをすることで非日常の時空を無視やり現出する。それが今の私の必須の日課だ。

 日常の中に無理やりあやをつける。その人為的な所為によって私は安楽な平凡から少しだけ抜け出せる。だから時間があれば何かが出来るという訳ではない。むしろ暇な時間は限りなく空白の何しない時間になってしまう。何かをなすためには意図的にそれを行う準備をして、かなり意識して始める。

 いまの私にとっては何かをすることはこのように大げさな企てが必要だ。そのための方策をいろいろ考えいる。もっと自然に始められたらいい。かつてはそうだったが、懐古は止そう。面倒だが今は儀式あってのことなのである。

 

家族を戦場に送るな

 おそらくこんなことを言えば多くの人に非難されるはずだ。糾弾というレベルではない。存在自身を否定される可能性が高い。でも敢て言いたい。「あなたの家族を、大切な人を戦場に行かせるな」と。そんなことを言えるのは戦後の日本人だからだと批判されるのは必至だ。私の2代前の人の多くは戦場で死んだが、父母の代からは徴兵すらない。私も戦場を全く知らない。

 それでもやはり言い続けなくてはならない。家族を戦場に送るな、と。現在、世界の各地で紛争が起き、解決策を得られないでいる。かつて理想とされたグローバリズムは、画餅に帰して分断が進み、そのための紛争も絶えない。世界中のあらゆるところで戦いが始まる気配が横溢していると言える。

 先の戦争では家族を戦場に送ることは名誉とされた。万歳で見送ることが国民の義務とみなされていたのである。今後もし我が国が戦闘状態に入ったときには同じような気風が世間に横溢するはずだ。そのとき否と言える家族はどのくらいいるのだろう。私の生きている時代にもしそれがあるとすれば投獄を覚悟の行動をとる必要があると考えている。

 家族を戦場に行かせるな。それがささやかなしかし確実な反戦運動になるはずだ。

食べなれたものはおいしい

 私たちは日常的に食べなれたものをおいしいと感じる。これは食文化に大きくかかわる事実であり、幼いころから蓄積された味覚によるものだから理屈を超えたものといえる。

 東京から地方に行った人の中には、ここの料理は甘い、少し口に合わないということがある。味噌や醤油などの料理の基本調味料であり、かつ地域差のあるものがその原因になる。たしかに関東や東北地方の料理は概して塩味が強い。さらにそばなどのつゆは印象的だ。関東風はかつおだしにかなり濃口醬油を効かせて濃い味に仕上げる。関西風は昆布だしが主体で、薄口醬油を味の調整として使っているようだ。簡単なまとめをすると醤油で味をつける関東に対して、昆布だしでうまみを強調する関西風ということになる。私自身はどちらも好きなのだが、食べなれていないものを出されたときに違和感を覚える人も多い。

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 国内ですらそうなのだから、他国の人にとっては余計そうだろう。日本料理はおいしいと絶賛する外国人の姿がメディアにはいくらでもあるが、そうは思はない人が多数いることは確かだ。日本に来ている時点で日本文化に関心を持っているわけだから好感度を持っているのは当然なのだ。味の濃い料理、辛い料理を常食している人々にとっては日本の料理は味は薄く、淡白に感じるだろう。だしのもたらすうまみも感覚することが少ない人にとっては認識できないかもしれない。ゴボウや生ノリといった独自の素材は消化することも困難かもしれない。

 食べなれたものはおいしい。そうでないものは苦手である。当たり前のことだが、時々それがわからなくなる。食文化だけではない。自分にとって親しいものはよく見え、そうでないものは邪悪に見える。それが私たちの現実なのだ。

電車のワンオペ運転

 頻繁に利用する横浜線はこの春からワンマン運転が始まっている。運転だけではなく扉の開閉も運転手が行うもので、いまのところ大きなトラブルは出ていないようだ。

 このシステムの運用にはホームドアの設置や高度な自動列車制御装置が施されている必要がある。運転手の異常時にはセンターからブレーキをかけることができるらしい。自動列車制御装置の監督として運転手が乗車しているとまではいかないものの、それを目ざしたものになっているようだ。

 平常時には効率的で安全対策もなされているが、予測不可能な事態においてワンオペにはやはり不安が残る。天災などで列車が止まったり、乗客に異常事態が発生したとき、どのように対応するのかの説明は予めしておいた方がいい。車掌がいたとしても、多くの乗客に対応することは無理なのだが、それでも何らかの措置は取れる。それがないのなら、乗客に心得を知ってもらうしかないだろう。

 例えば車内広告、動画などにそういうものを入れておくだけでもかなり効果があるはずだ。

雨が多い春

 雨がよく降るこの頃だ。菜種梅雨というには少し遅い気もする。天気の常識はこの頃通用しないことが多く、更新しなければならないのだろう。春に3日の晴れなしなどというが、最近はもっとサイクルが短く感じる。

 桜はほぼ散って、ツツジが咲きだした。鉢植えのチューリップの中には花をつけたものもある。ハナミズキは順次咲き始め、花の季節なのだが、この雨がなんとも気分を削いでいる。

 この後また暑い季節になるのだろうか。やせていく春の先にあるやけに暑い季節に備えなくてはならない。

ラジオ

 今月からNHKラジオが一波減った。ラジオの大切さは身にしみている。前は小型ラジオを持って歩いていたが、それも電波の届かない場所も多い都会では不便ということで、スマートフォンのアプリを通して聴く方法になった。

 この方式を知ってからはかなり頻繁に利用していたのだが、私の使うスマートフォンにミニプラグがなくなってからは遠ざかっていた。数年前に変換プラグがいわゆる百均でも手にはいることを知り、今回の停波のこともあって久しぶりに有線イヤホンでラジオを聴き始めた。周囲にはあまり見かけないオールドスタイルである。

 ソーシャルメディアのショート動画を見るよりよほど価値があると私は感じている。

文明を滅ぼすなどという元首は

 トランプ大統領のイランの基盤インフラへの攻撃はとりあえず回避されたようだ。彼の発言はいわゆるハッタリであり、信用するに足りないが米国大統領の発言となれば冗談にはならない。そのために命を奪われている人が多数いることを思えばすでに戦争犯罪を犯しているという解釈も成立する。

 文明を破壊するという発言は過去にも例があるらしい。ただそれを発言した人の顔ぶれを見ると、多くはポピュリズムの権化であるか、一種のアナーキストばかりである。それを現代のアメリカの大統領が国会ではなく、牽制されることのないソーシャルメディアに連投してしまうことが大問題だ。これまでの振る舞いにTACOという命名がなされるほど、信用性は低い。単なる金持ちの戯言ならぎりぎり我慢できるが、そこに権力が加わっている。

 アメリカでもトランプ氏の支持率は下がっているが、それでも強力な支持者がいる。その中には大統領の政策によって生活のレベルが低下している人も含まれているようだ。その詳細は分からないが、民主主義国家の機能が果たされることを祈らずを得ない。ころころ変わる日本の首相も問題が多いが、一度選ばれたらなかなか更迭できないアメリカの制度も深刻だ。アメリカファーストのはずが、国際的信頼度の低下という深刻な問題を引き起こしている。

 日本の政府はかの老人とうまく付き合わなくてはならない。機嫌を取りつつ、できないことはできないといい続けなくてはならない。現場の政治家や外交官は大変だろう。ただいまの状況は誰も敵にしないことが何よりも大切だ。それができるリーダーを私たちは求めている。

ハナミズキが咲きだした

 桜も散り急ぐ時期になりつつある。早くもツツジの早咲きの花が咲き始め、通勤途中の街路樹のハナミズキも開花し始めている。アメリカヤマボウシはソメイヨシノと交換された日米友好関係の印である。

 ハナミズキを見るとどうしても今のアメリカ合衆国の迷走が気になって仕方ない。超大国の誇りはどうなったのだろう。再び偉大なアメリカにするという大統領のスローガン自体がすでに凋落していることを自認している。せめて、品格を保ちリードしていけばいいのだが、どうも小狡いディールで世界を振り回す国になってしまった。

 ハナミズキが初夏を彩る花であるように、アメリカにも世界平和と秩序の中心になっていてほしかった。どうも覇権は移ろいつつある。混乱の時代にならないように、国際社会ほ叡智を絞らなくてはならない。

すぐ辞める新入社員

 すぐに辞める新入社員が増えているという。入れてしまえば支配下におけるという過去の通念は今の世代には通用しない。

 新入社員がすぐに退社してしまうというニュースに接した。私の世代では無理をでも企業の風土に順応し、できるだけ長く雇用してもらうことが何よりも優先された。終身雇用がほぼ標準であった世代にとって、入社直後は忍耐の時期であったのだ。

 ところが、最近は理不尽な新人待遇は論外だが、入社前の雇用条件が守られない場合は退職するという選択肢を取る人もいる。退職に関する事務手続きを代行する業者もいるからハードルも低い。

 企業側としては人材確保は経営の生命線であり、代替の人材をリクルートするための労力と経費を考えるならば、流出は防がなくてはならない。職場の魅力、労働の価値をアピールしなくてはならないのである。「お前の変わりはいくらでもいる」と豪語できる企業は意外に少ない。

 ならば、経営者は労働環境の改善に努めるべきだ。そのための資本投入は欠かせない。さらに金では解決できない社員への精神的な働きかけももとめられる。日本の企業はこの方面では優れていたはずだ。効率性ばかり追求したあまり、情の要素がやせ細ってしまっているように思える。

 辞めていく新入社員を止めることはおそらくできない。彼らは外部の現状をすぐに知り得る。自分の毎日が世界の常識だとなど思うことはないのである。不当な扱いには、すぐに法的な手続きをとって対抗する用意ができている。

 私が今の時代に新人だつとしたら、やはり少し違った職業意識を持ったかもしれない。