投稿者: Mitsuhiro

メモリーは有限

 使っているスマートフォンの容量が底をついたとの警告が出たので、消せるアプリや一次ファイルなどをかなり削った。結果として何とか復活したものの、これからはこの繰り返しになるのだろう。エントリーモデルの機種なので過度な期待はできない。

 機械の場合はメモリーが数値で表されるので分かりやすいが、人間の場合はかなり複雑だ。いわゆる作業用記憶が加齢とともに逓減していくのは実感している。長期記憶に関してはそれよりは保たれやすいようだが、私の場合はかなり選択的で単に時間だけの問題ではない。大切なことを忘れてしまう代わりに、どうでもよいつまらないことを時々思い出す。

 何を記憶し、何を忘れるのかについて選ぶことはできるのだろうか。意志に基づいて取捨選択するのは、スマホのデーターを消すのとはかなり異なるようだ。忘れてはならないことはやはり脳以外の場所にも記録し、それに定期的に接することで保たなくてはならない。反戦の気持ちというのもまさにそれで、過去に心に結んだ強い思いも、いつの間にか日常の些事に紛れてしまう。

 思い出したくないことも場合によっては取り出し、忘れてよいことは時間の海に流してしまう。そんなこともやらなくてはならない。

やる気になれば

 やる気になれば何でもできるというのはさすがに無理があるが、若い人を励ますためには不可欠の助言である。これを言えない指導者はおそらく何かが足りないのだろう。かといってこれを真実なのかといえば、答えは否である。何でもできるということばは誰もが直感でわかるように嘘である。

ただ、やる気がなければ何もできないということは事実だろう。私たちの行動は、自然に自動的に行う行動もあるが、多くは動こうという意志に支えられている、心臓の鼓動や消化のような意志とは無関係に行う行動に関して人が悩むことは通常少ない。私たちが困惑するのはやろうと思ってもできないという意識が生まれたときである。これはやる気の問題ではない。

 私たちがやる気と結果のギャップに悩むのは、やる気次第で何とかなる範囲が自覚できるときである。やる気があるのに結果が出ないというのならばまだ何とかなりそうだが、大抵の場合やる気がでないので結果が伴わないということだ。結果的に無力感が残るので、成功例なり達成感なりが生まれにくい。今後、さらなる非人間的な意思決定が定着すれば、やる気の問題はますますわかりにくいものになる。

誰もが二刀流

 二刀流というと宮本武蔵の剣術のことだったが、今は大谷翔平選手のことを想起させる言葉になっている。プロ野球において投手と打者の両方で一流であることは難しく、大谷選手がそれをアメリカで実現していることが賞賛されている。

 二芸ある人を二刀流と呼ぶこともある。職業を掛け持ちしている人といえば、かつては兼業と呼ばれた。地方に行けば会社員でありながら農繁期は米作をするいわゆる兼業農家は普通にいる。農業が専業ではやっていけないことから生まれたスタイルだと思うが、今考えてみればまさに二刀流であり、理想的な生活スタイルだ。

 農業ではなくても、二つの仕事をこなしている人はたくさんいる。会社員でありながら、土日はスポーツ少年団などのコーチであったり、塾の講師であったりするのはこれも二刀流だ。私も前の仕事では、学生に授業をすることと、自分の研究をして論文を書くこと、社会人のための講座の講師をやることなど二刀流をやっていた。それがもしかしたら、当たり前の人生のあり方なのかもしれない。

 ここ十数年はすっかり専業体制になってしまった。それが一流であるならばいいが、私の場合はそれ以下である。誇れるのは欠勤が少ないことと、自分が至らないことを自覚できていることくらいだ。二刀流という言葉からは程遠くなってしまった。

 矛盾することを言うようだが、人は誰でも兼業で生きている。例えば運転手なら、一日中運転手という訳ではない。家に帰れば父親としての役割があるのかもしれないし、趣味の時間はそれなりのこだわりの行動をする。それらのどれもに自信をもっていれば立派な二刀流プラスアルファなのだが、多くの場合その矜持はない。でも実態は人は何役もこなしている役者なのである。

 自分がやっていることにもっと意味づけをし、それらに誇りを持たねばならないと思う。自分の生活の多面性を認めれば、何か一つの基準に縛られていらぬ劣等感にさいなまれることはない。自分の可能性をいろいろな面で生かせれば、そこに利他的な側面も現れ、結局本当の意味での社会人になれるのだろう。収入に直結することではなくでも自分はいろいろな役を演じながら、社会のためになることをしていることを実感したい。人は誰でも二刀流で、しかも一流の社会人になる可能性があるのだ。

8月始まる

 8月に入ってものっぺりと暑い日が続いている。およそこの夏は何か狂っている感じがする。子どもの頃の夏休みのことを思い出しているのだが、ここまで暑かったかどうか思い出せない。

 プールで何とか泳げるようになろうと練習し、親戚のうちの近くでカブトムシやクワガタを取って貰って喜び、近くの神社の祭で金魚すくいをした。そんなことばかりでここまで暑さに苦しんでいた記憶がない。家にも学校にも冷房はなかったし、扇風機でさえ我が家には一台しかなかった。それでも何とか過ごせていたのだから、今よりましだったことになる。

今年は終戦して80年、戦争に関するさまざまな情報や、エピソードが披露されることが多いと思う。せめて、冷静に歴史を学ぶことが大事だと思う。暑さに大切な感覚を奪われていないか。それを自己点検しておかねばならない。

機械任せ

科学的に考えるとか、合理的思考とかかつてはよく言われた。まるでそうでなくてはいけないかのように繰り返された時代があった、

最近は何が科学的なのか、合理性をどこに求めるのかでさまざまな可能性が出てきた。だから何をもって正解とするのか分かりにくい。それならば判断に困るのかといえばそれも違う。判断をしなくなっている気がする。

人工知能なり何かの上位科学(と考えられてるもの)にすべてを委ねて、自分の大切な選択を機械にさせてしまっているのが現状である。

それならすべて一人でやりますかと言われれば、そうもいかない。結局何もできないという現実からは逃れられない。そんなジレンマに日々悩まされている気がする。

津波警報

 カムチャッカ半島を震源とする地震で津波が発生し、日本の各地でも津波が到達している。津波は時間をおいて何度も押し寄せ、場合によっては第二波以降の方が高くなるという。今のところ40㎝が最高位であるが、この後も油断できない。なお30㎝の津波でも人命を奪う威力があり、全く油断ができない。津波は線ではなく、面として海面が上昇することで、人間の力では耐えることができない。なるべく早く避難するしかない。被害者が出ないことを祈る。

猛暑観測点史上最多

 猛暑日となった観測点が史上最多になったという。体感的にも暑さの質が異なる気がする。このような天気はいつまで続くのか心配になる。一部地域では渇水の恐れも出ているとのことであり、再び米価の高騰につながらないか不安になる。

 遠くから台風が近づいているようで、これがまた高温傾向に拍車をかけているのかもしれない。この後の予報を見てもまだしばらく続くようだから、全く気が抜けない。

サマータイムやりませんか

 週間天気予報を見ていて衝撃を受けた。これからしばらく猛暑が続き、最高気温が36℃という日が並んでいるのである。最低気温も25℃前後で熱帯夜が続くことになる。あまりにも暑い毎日をどのようにやり過ごせばいいのだろう。

 ここまで熱くなってしまえば、さまざまな方面に弊害がもたらされる。思うに日本もサマータイムをやった方がいい。朝1時間早まれば暑さは少しだけ凌げる。退勤も明るいうちならば、無理な酔客も減ることになるはずだ。

 生活感と最近の気候との不一致、違和感は今後ますます大きくなるのかもしれない。歳時記の項目も少しずつ動かす必要がある気がする。

 

理系信仰そろそろ

 文系より理系の出身の人材の方が合理的で優れている。そういう論調はそろそろその欺瞞に気づいた方がいい。

理系の方が社会的ニーズに叶うという幻想は、いま心地よい噂として広まっている。ならば理工科目に全フリして良いかといえば、恐らくそれは大きな間違いだろう。今の日本の文理分けはあくまで受験のためであって、個々人の資質なりコンピテンシーによるものではない。文系の方が合格しやすいからということで文系学部に進んだ人も多くいるはずで、それは打算的な判断によるものだ。このことを非難するつもりは毛頭ない。逆に将来つぶしがきくとの大人の助言で理系に進んだ人も多いらしい。

理系的な論理的思考力は必要とされる場合が多いが、それはやるべき方法が決まっている場合である。頼るべき方法がない場合には価値の創造から始めなくてはならない。そのとき哲学や歴史、文学を参考にしなくてはならない。どちらも必要であり、択一という話にはならない。

理系的な知識だけで何とかなるという考えは既に過去のものになっていなければならないが、若者に過去の価値観を押し付けてしまう現実は厳然としてある。

自分以外になる方法

 自分以外になってみたいという欲望は時々起きていた。もしあの時、別の選択をしていたら違う人生を歩んでいたはずで、別の今があるはずだ。流行りの言葉で言うのなら、そういう世界線が存在すると勝手に考えることがあった。

 最近はその幻想が起きない。自分以外になるということは自分ではもはやなくなるということで、それはいまの自分を消すことに相違ない。それでは別の自分に変身するのではなく、まったく別の自分に入れ替わることになる。

随分人生に醒めてしまったのかもしれない。なるようにしかなれないし、それ以上を望むならそれなりの覚悟がいる。私の場合はその覚悟がまだ少し残っているが、果たしてどこまでいけるのだろう。

自分以外にはなれないが今とは違う自分になりたいという大きな矛盾を抱えてこの後の月日を送ることにする。