投稿者: Mitsuhiro

突発的な回想

 何かをきっかけとして過去のある場面が突然想起されることがあります。それが特にこれといって何か印象的なことが起きた記憶とは限らず、場合によっては日常的な風景であったりするのです。

 どうしてこの風景が思い出されたのか分からないときには、色々な理由を考えます。ただ、そのどれもが後付けのような気がします。おそらく記憶がフラッシュバックするにはそれなりの因果関係があるのでしょうが、それは日常の論理とは少々異なっているのでしょう。

 思い浮かんだ風景に救われることもあります。忘れていた何かを思い出すことで救われた気持ちになることもあるのです。苦い経験もそれを乗り越えて今があるということを再確認させてくれます。

 少なくとも記憶という側面に関しては私たちは時間軸というもう一つの次元を持っているといえるのかもしれません。それを自在に操ることはできないのが残念ではありますが。

横向き寝

 安眠のためには横向きで寝た方がいいのだそうです。ただこれがなかなか難しい。

 横向きで寝ると気道が圧迫されるのを防ぐことができるのだそうです。睡眠中の呼吸障害が脳に及ぼす影響は意外にも大きいようです。

 そこで寝相矯正の試みを始めました。ただ、意識が切れたあとに姿勢を維持するのは至難の技です。

虚学は実学

 文学なんてやって何になる。絵を観るだけで道楽な人生を送るのは脱落者だ。そんなことが普通に言われていた時代に私は育ちましたが、いまそれは変わりつつあるのかもしれません。

 知識や技能などは実用にこそ重きを置くものであり、生産性のない教養は不要であるとの言をいくつもの見てきました。そういう人たちが行き詰まり、停滞しています。その習慣上新たなイノベーションに活路を見出そうとするものの、そういうことは容易には起きません。結果として失望の毎日を過ごすことになります。

 今日、エリートと呼ばれる人が芸術や文学に可能性を模索し始めているのはその反動ではないかと考えられます。行き詰ったら古典に変える、個々人の価値観を見つめなおすというのはこれまでも起きてきた思想史的な教訓です。現代人もまたそのことを思い出さなくてはならない事態になっているということでしょう。

 虚学と貶められていた学問が実は非常に必要であったという事実を私たちは確認する必要があります。どんなこともバランスが必要であり、一部が先鋭化すると必ずその軋みは弊害となってしまうということなのでしょう。

LEDの色合い

 講堂の照明が従来の電球方式からLEDに置き換えられました。シャープでちらつきのない光は少し違和感がありますが、いずれなれていくのでしょう。

 照明を変えただけでかなり見え方が変わるのは経験的に知っていますが、最近のLED換装の動きの中で根本的な光の効果に思い至っています。私たちはどのように視線を置くかによって違ったものを見ているのです。

 違う光のあて方をすればまた別のものが見えてくるはずだということを私たちは忘れてはなりません。自分がみたことがすべてだとは短絡しないようにしなくてはならないのです。

始動

 9月は私のような職のものにとっては再始動の時です。ここまでのことを踏まえつつも新たなことを始める月です。

 新しいことを始めるのはある意味強い圧力を感じます。それがうまくいくのか失敗するのかという不安があるからです。これまでもそのどちらをも経験してきましたので全く予想がつかない。そして、私だけではない日本人の気質として、周囲からのどのようにみられるのだろうかという位置づけについて気にしすぎてしまうという問題もあります。いろいろなことに気をまわしているうちに本当の力が出なくなります。

 新しい環境に身をさらすことが危険であることを遺伝的に受け継いでいる生命としての遺伝が緊張を発生させるという話を聞いたことがあります。同じことを繰り返している方が安全だという生物的な知恵です。しかし、それが停滞を生み、やがては立ち行かなくなることも事実です。新しいことをするためにはやはり心拍数をあげるような時間も必要なのでしょう。

 今月はその新しいことを始める時です。今に集中することを忘れずにやるべきことを重ねていきたいと考えています。

アウトプット

 脳の機能を低下させないためにはアウトプットも必要だといわれています。ただ受け入れるだけではなく、自分の言葉で表現することが大切だというのです。

 テレビを見続けるよりも読書の方がいいとは昔から言われていることです。読書の方が文字からイメージを作るまでの過程で脳がはたらく機能が多いからのようです。書いてあることから意味を構築するまでには抽象化や具体化、映像化、音声化などの作業が入っているので脳の様々な機能を使うのでしょう。

 自分の見たこと聞いたことを言葉にすることはさらに脳の別の機能を使います。本来ものごとは言葉ではなく個々の現象が総合的に起きているのであって、そこにある道筋を立てて表現することが言葉にするという作業です。筆舌に尽くしがたいという表現がありますが、本来すべての現象は話したり書いたりすることが難しい。それをある方法で表現していくことこそが人間の営みだといえます。

 アウトプットに力を置くことはとても重要です。そして、その過程には様々な失敗もある。言ってみたけれどうまく言えない。誤解を与えてしまう。上手に書き表せない、などといった葛藤の連続の中でも継続する習慣が必要です。それは努力もいりますし、周囲にそれを許す環境も必要なのでしょう。

 言いたいこと考えていることをとりあえず表現してみるという試みを私はこのブログを通して実践してみたいと考えています。

顔のない人物像

 先日、美術館で見た展覧会の絵の人物像にはなぜか顔の表情がはっきりと描かれていないものが大半でした。全体的に幻想的な画風であり、抽象絵画の趣さえ漂う筆致のため、さほど不自然ではありませんでした。顔のない人物像の持つ可能性を考えました。

 私たちは他人の感情、精神状態を視覚を通して判断することが多いのですが、そのかなりの部分に顔の表情という情報があります。喜怒哀楽は全身に表れますが、やはり表情ほど雄弁な部分はありません。その表情という重要な要素を敢えて省略することは画家にとっては大きなハンディのはずです。微笑んでいるひとを表情なしで表現することの難しさを考えるだけでもそれが察せられます。

 しかし、その負荷を敢えて負うことで拓けてくる可能性もあります。表情がない人物像を描くためにはボディランゲージに敏感にならなくてはなりません。また人物以外の要素、背景とか構図とかその他の要素に鋭敏になる必要性があります。そこで磨かれる表現力は大きな芸術性をもたらします。

 さらに、絵を鑑賞する側にも同様の効果があるはずです。不完全な描写の中に何を感じとることができるのかは見る側の想像力によります。その裏付けとなる人生経験そのものが問われることになります。

 表情を敢えて描かないという選択は画家にも鑑賞者にも大きな挑戦であり、可能性を秘めているのです。

ふるやのもり

 昔話のふるやのもりは笑い話に属するものですが、ある意味真実の教訓でもあります。

 盗賊という人災は何とか防ごうと思えばできないこともありませんが、天災はなかなかそうもいかない。人智を超えた災禍に見舞われればどうしようもなくなる。そんなことをいっているとも解せるのです。

 そして何よりも怖いのは、そんなふるやのもりの存在を簡単に忘れてしまうことなのかもしれません。日常に潜む脅威は突然牙をむきます。老夫婦のふるやのもりほど怖いものはないという言葉を私たちも肝に銘じるべきなのです。

エスカレーター歩行改革

 都市部ではエスカレーターに乗る場合、片側を開けて立つことが慣行となっています。なぜか関東と関西では開ける側が異なるのですが、空いた側は歩行したり駆け上がる人のために開けるのです。この習慣は止めるべきでしょう。

 エスカレーターのこうした使い方については以前から批判があり、誰もそのようにしなければならないと指示している訳ではないようです。片側を歩くのは急いでいる人にはよいように見えますが、ある一定の条件を満たさない限り、一段に二人ずつ立った方が効率がよいといいます。

 なによりもエスカレーターが歩行しながら乗ることを前提に造られていないことは明らかです。また身体条件により特定の側には立ちにくい人や、荷物の形や大きさによっては片側を開けること自体に無理があります。

 私と同様に感じている人はたくさんいるはずですが、慣行となっているものを変えるには個人の力では及ばないところもあります。設置者側からの積極的な呼びかけや関係省庁の啓蒙活動をもっと積極的に行うべきです。

危機感を

 成長に必要な前提として、現状に満足できないという心の持ち方が必要です。

 私たちは何かをしようと思うときには大前提として現状を何らかの形で変えたいと考えています。現状を維持したいと考えることも実は大きな現実改変の動機です。現状を保つためには様々な働きかけが要ります。何もしなければ、現態は保たれません。

 この何とかしなければならないという気持ちが失せると、自然に衰退に向かうことになります。何もしなければ先はないという危機感が新しい局面を拓くのでしょう。そういう考えは誰にも浮かぶはずですが、すぐに忘れてしまう。それこそが現代人の課題です。