かなりの人口を抱える街でも意外な動物を見かけることがある。今年は蛇の脱走が話題になったが本来いないはずの動物が繁殖してしまう例は多いようだ。
先日、近隣の街角で犬でも猫でもない動物が道路を渡るのを見た。ハクビシンではないかと思ったがよくはわからなかった。住宅地の中を平然と歩いていた。
おそらく誰かに連れてこられた動物がこの列島で命をつないでいる。招かれざる客と思うなかれ。我々人類も同類も知れないのだ。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
かなりの人口を抱える街でも意外な動物を見かけることがある。今年は蛇の脱走が話題になったが本来いないはずの動物が繁殖してしまう例は多いようだ。
先日、近隣の街角で犬でも猫でもない動物が道路を渡るのを見た。ハクビシンではないかと思ったがよくはわからなかった。住宅地の中を平然と歩いていた。
おそらく誰かに連れてこられた動物がこの列島で命をつないでいる。招かれざる客と思うなかれ。我々人類も同類も知れないのだ。
今日から連休だ。オリンピックのための国家的な取り組みだが、ウイルス対策のため盛り上がらない。こんなことはめったにないことだろうから、ある意味貴重な時代を生きているといえるのかもしれない。
考え方を変えるとスポーツやイベントのあり方の変節点であるともいえる。もしかしたら今後もイベントのあり方は変わってしまうのかもしれない。多数の人が一か所に集まり観衆としてイベントを支えるということ自体が珍しい現象になってしまうかもしれないと考えるのだ。
もちろん私はこうしたイベントに意義を感じていないわけではない。むしろ、様々な立場の人が同じ空間を共有し、感動を共にすることには大きな意味があると思う。それがなければ世界はますます分断に向かい技術的にはつながっていても心が通じ合わない社会になるような気がしてならない。
その上で、さらなる変化を想像する。人が同じ場所にいなくても心を通じ合わせることができる能力を身につける段階に至るのでないだろうか。もちろん例えば3次元映像のようなテクノロジーの支援もあるはずだが、私が問題にしたいのは空間的な乖離を超越する心の交流ができる能力を人間が獲得することがあるのではないかということだ。
この夢想が現実となればイベントに人が密集しなくてもいい。巨大なスタジアムもいらなくなる。人の付き合い方もビジネスも大きく変わる。それがどんな風になるのかは分からない。そういう可能性もあるのではないかと考えるのだ。
毎朝通過する車窓からの風景の大半は住宅街だ。しかもかなり密集していてこの方面の開発が成功したことを意味する。
子供の頃もこの辺りに住んでいたがもっと緑が多かった。雑木林が点々と残り、そこにはいろいろな動植物がいたと思う。今残るのは緑地であり、管理下にある非住宅、非商業地帯である。散歩できるように頻繁に手入れが入るため、かつての禁足地的な雰囲気はない。
安全性や周囲との関係性を考えると雑木林は都合が悪いのだろう。便利とともに多くのものを失った。ビルや住宅の群れをブナやらシイやら、さまざまな雑木の幻影としてみると不思議な感慨に包まれてしまう。
東京オリンピックの開催期間に関してはパンデミック以前から疑問に思ってきた。なぜ高温多湿の日々を選ぶのかまったく理解できない。
ほぼ無観客開催となり、観客の熱中症の危険性はかなり減った。それ以上深刻なのが選手の体調だ。東京が年中熱帯なら仕方ないが、なぜわざわざこの時期にやるのだろう。
台風などの害の起きる可能性が少ないのは確かだが、何かもっと商業的要因があるに違いない。天気だけはどうしようもならないのだから、スポーツに向いた時期を選ぶべきだった。選手の皆さんには小さなコロナと巨大なコロナの両方に打ち克っていい記録を出してほしい。
通勤電車からいつも見る風景にいわゆる雑草が線路沿いに生えているものがある。あまりに当たり前の光景なので大半は視界に入っても意識には上がらない。
過酷な条件と思われる線路際にも結構いろいろな植物がある。過酷と書いたがたまに保線の際に草刈りが入ること以外は、人の出入りが禁じられており、むしろ植物にとってはサンクチュアリのようなものなのだろう。
あらゆる場所で適合し、命を伝えていく動植物の力には改めて感動せざるを得ない。
心情は形のないものであり、それをどのように表現するのかは芸術家の力量に関わる問題である。
絵画において人の感情は描かれる人物の表情や所作で表現される。歓喜も苦悩も描かれた人の姿に投影される。さらに人を描かなくても心情描写はなされる風景や静物の描写でも心理は描かれる。
さらに、色彩や線の形状だけでも感情が分かることもある。こうなると根本的な脳の機能に訴えるものなのだろう。
小説や詩歌などでも同じことがいえる。言葉の方が伝える幅は広いかもしれない。しかし、形なきものを描く難しさは変わらない。心の描写は永遠のテーマだといえる。
人工知能が何でも代替するようになればますます貴重になるのが一回限りの仕事の成果だろう。一点物の価値が重要になる。
かつてはブランド信仰があった。有名ブランドさえプリントされていれば価値があると考えられていた。しかし、ものが出回り消費者の目が肥えると、結局大量生産されたブランド品を持つことに価値があるのか疑問視する人がでてきた。ブランドの魔法が解けた人には何が残るのか。それが手仕事による一点物の価値だ。
生産者の腕がいままで以上に要求されるとともに消費者の目利きの力も大切になるはずだ。これはいい傾向ではないだろうか。
虎尾達哉『古代日本の官僚』はとても面白かった。日本人の基本的な気性は勤勉であるというのはどうも間違っているらしい。あるいはそのように思いたいという理想がそのように語らせるのかもしれない。本書によれば、古代の官僚は平気で宮廷の儀礼を欠席し、あろうことか出欠を取る際の代返システムまで用意していたという。組織的に怠惰を容認する体制が出来上がっていたことになる。
日本人は勤勉という前提は考え直した方がいいのかもしれない。もっと柔軟で臨機応変の気質があったと言うべきなのだろう。
音韻の種類が少ない日本語には数多くの同音異義語がある。漢字で書き分けることで書き言葉の体裁は保たれている。漢字廃止や制限に関する議論はいつでもあるが、この性質上安易な処置は言語の質を損なうことに繋がる。
この不自由さはときに文芸の利点となることもある。和歌に見られる掛詞や序詞には同音異義語を意図的に活用したものだ。表現の幅を広げることにつながっている。
同音異義語の言葉が関係する物語を書こうと思っている。文才はないがあくまで楽しみとして。多義語を絡めてもいい。言葉は使いようで可能性が広がる。
私にはそんな経験はないが遠い異郷のことを絵画なり文学作品なりにすることは意外に難しいかもしれないと思う。描く手がかりとなる表現が見つからないかもしれないからである。
もちろん、それまでに獲得した語彙や表現方法で、他郷を描くとこはできるはずだ。でもそれは結局は経験をそのまま表現していないのではないだろうか。比喩比況の手法で近似値を語っているに過ぎない。
都から地方官となった貴族の文学をみると大抵は都の文學そのままである。地名が詠み込まれることでようやく地方性を保っている感がある。生活圏を離れて創作することは意外にも難しい。