投稿者: Mitsuhiro

嵐の後

 台風一過の晴天、この季節にしては暑い一日だった。今日はここまでの鬱憤を晴らすのためなのか近隣のモールにも相当な人手があった。駐車場の待機列も長く続き数年前の日常が戻ったかのような錯覚にとらわれた。

 ウイルスワクチンの接種が続けられてきたため感染者数は今後現状傾向になるはずだ。ただ、これはマクロの話であり個々人のレベルでは危険な状態は継続されている。それが難しいところだ。戻ってきた人出の顔にはマスクがあることを忘れてはならない。

 嵐の後の喜びは今日のつかの間の風景だった。本当の嵐が去ったあと、人々はもっと笑えるのだろうか。その日は近いのだろうか。

台風接近中

 台風が西から近づいている。すでに東京は雨が降っているがいまのところ暴風雨といえるものではない。ただ通勤電車は速度規制のため遅れが出ており、これからもさらに広がる可能性もある。職場にはやらねばならないことが山積しているのでやらざるを得ないが、落ち着かない一日になりそうだ。

台風の進路

 台風の進路予想が刻々と変わり、ある機関は本州横断の予報を出した。警戒すべき事態だ。

 最近の台風は大型で被害が大きく出る傾向にある。ただ私の住む関東に限れば近年接近が少なく、備えが疎かになっている可能性がある。今回のみならず、これからの台風シーズンに対策をしておかねばなるまい。

 ウイルスよりも歴史的に多くの犠牲者を出し続けている風水害を侮ってはならない。

気のせい

 台風はまだ遠くにある。いまだ発達中とのことで心配だ。ここ数年、私は大きな気圧変動があるときに調子を崩すことが多い。大半は「気のせい」だと思うが、同様の症状を直接または間接的に耳にすることがあるのでまったくの思い違いでもなさそうだ。空気とうまくつきあうこともいまの私の課題なのだ。

トラベル

 旅行はいま一番やりたいことの一つだ。コロナ禍になってからいわゆる旅はできない。近隣に行くのでさえ気遣いがいる毎日だから仕方がないのだが。

 旅の情報はいくらでも溢れているし、各種の情報サービスを使えば、一度も訪れたことがない場所でも様々な擬似的体験をすることが可能だ。場合によっては現地に住む人以上の情報を得ることも可能かもしれない。

 それでも旅の価値が変わらないのは、一回限りの体験をするために目的地に身を置くことが必要だからだろう。誰のものでもない自分だけの時間と空間を得るために旅がある。

 いまはその大事な時空を獲得する方法が損なわれている。早く旅ができる日が戻ることを切望する。

陰謀論

 コロナウイルスが実在しない社会的陰謀であるとの考えがあるようだ。中には過激な活動をする人もいて世界的な社会問題になっている。陰謀かどうかは周囲の状況をみれば明らかなはずなのだが、運よく関係者に感染者が出ていない場合にはそう考えてしまうのは仕方がないのかもしれない。

 ただ、許しがたいのは陰謀論を宣伝している個人や団体である。社会不安を掻き立てるためにソーシャルメディアなどを活用して偽の情報を流し続けている。恐らく自らの売名行為であり、アクセスと連動した収益の手段として行っているものに違いない。自らはワクチン接種を済ませている可能性も否定できない。

 この種の問題が厄介なのは事態の全体像を掴めている人がほとんどいないということだろう。陰謀論は虚偽だと主張してもその根拠はと問われれば説明しつくすことは不可能だ。そこにまたつけこまれることになる。

 メディアリテラシーの重要性が改めて注目されるべきだろう。最後の判断は自身で行うとしても、メディアで伝えられた情報の真贋を判断する方法を私たちはさらに磨く必要がある。

非常停止装置

自動車の運転手の発作によって悲劇的な事故がまた起きてしまった。運転手は文字通りの急病であったようで、健康診断に異常はなかったということである。高齢社会の日本ではこのような事故が定期的に起きている。もちろん高齢だけが問題ではなく、人間は間違った判断をしてしまったり、今回のように突然自分の身体が制御できなくなることもある。

そういうことを踏まえた自動車の設計をしていく必要があるだろう。自動運転はこれを解決する方法になるかもしれないが、その段階に至る前にもできる事あるのではないだろうか。例えばアクセルの踏み方がおかしい場合は自動的に動力を切り、制動装置を作動するといったことはAIの技術などを応用して実現することはできそうである。未来をための開発もいいが、現実に起きていることを解決する技術の開発にも期待したい。

私などの素人はまず運転席に乗ったときに即座に健康状態を測定する機器を搭載すれば、リスク回避の一助になるかと思う。制動装置の開発は少し遅れるだろうから。こうした開発の資金は国税を投入にしても十分な見返りがあると考えるがどうだろう。

類型思考

 私が対象を型にはめて考えているということは先日も書いたが、これは人物に対する評価にも当てはまる。そしてとても注意しなくてはならない事実でもある。

 個々人のあり方は多様であり、厳密には唯一無二の存在しかない。しかし、それを私は何通りかの型に分類しているような気がする。特に視力が落ちて細かいところが見えなくなったいま、外見上の特徴に関しては分類項目が減っている。よく似た人がいると認識することが増えているのはおそらくそのせいだ。本当は全く似ても似つかない。でも、判別する型が減少すれば同じ範疇に分類されてしまうのであろう。

 気質、性格、コンピテンシーに至るまで分類の方法はかなり大雑把になりつつある。あの人はこういう人だから、という時のこういう人の分かれ目の数が減っている気がするのだ。絵画に喩えてみれば使える絵の具の色とか、筆の種類とかが少しずつ減らされている感じだ。

 こうした傾向に歯止めをかけたい。どうすれば絵の具の色彩を減らさずに済むのか、摩滅した筆を捨てずに描き続けるのにはどうすればいいのか。縮小傾向のなかでもできることはあるのかもしれない。別の絵の具で色を創り出すとか、筆力を減らしても描ける方法を編み出すとか。やれることはまだあるのだろう。まだあきらめる段階は早い。

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虫の音

 ここ数日暑さが戻ったがやはり日没すると急に涼しくなる。秋の風情をかきたてるのが虫の音だ。コオロギやら名も知らぬ虫たちが一斉に鳴く。国によってはこの音をノイズとしか捉えないと聞いたことがある。私達にとっては情緒の塊なのに。

枠組みの外

 私が何かを見たり聞いたり、考えたりするとき既存の枠組みが大きく作用している。最近、特にこれを実感する場面が多い。

 枠組みを外して考えろとはいうのは易しいがなかなかできるのものではない。枠組みから外れると認識すらできないことが多いのだ。感知できないことは思考の中に取り込めない。

 私の場合、何かのはずみでいつもと違う考えが浮かんだとき、それを残しておく手段が短歌や俳句、詩といった韻文である。これも最近気がついたのだが私の作る短歌は何かおかしい。辻褄が合わない世界の表現はきっとこのフレームアウトした何かを張り込もうとする結果なのではないか。

 韻文のままでは思考に繋がらない。さらに先を追求すると新しい局面に到達するのだろう。