投稿者: Mitsuhiro

重陽

 新暦の9月9日である。旧暦の世界では重陽の節供であり、陽数の重なるありがたい日だ。

 一方で日本語で九は苦という音と同じであることから避けられることがある。部屋番号などで四(死)と九(苦)が忌避されるのは迷信の類によるものだが、現代でも気にする人は多い。

 9月は本来いい季節だと思う。暑さが収まり海山の幸も豊かになっていく。大きなイベントもなく、ゆったりと過ごせるはずだ。しかし、実際はそうでもないらしい。9月を自殺予防強化期間とする地域は多い。転勤や新学期などで環境が変わることが過度の緊張感を生み出すからであろうか。

 緊急事態宣言延長で9月はすべてコロナ対策に捧げることになった。9月が苦となるかはまだ分からない。

次の首相

 菅総理大臣が次回の自民党総裁選挙に出馬しないことが発表されてから、次の首相が誰になるのかが世の注目を浴びている。議院内閣制の我が国では、国民が直接首相を選ぶことはない。与党の意向で首長が決まる。

 立候補者の顔ぶれをみると、いまよりは期待できそうな気がしている。派閥の均衡より、できる人材を抜擢できるリーダーをみたい。野党のリーダーも他人事でなく、自民党を超える政策提言をしてほしい。

上着

 上着を着ずに出かけたことを少々悔いている。今日は少し気温が上がるようで、24度に達するかもしれないということだ。このところ少しあとの季節の先取りをしているだけに体感温度の調節が難しい。

 季節の変わり目は神々の往来があるというのが古代からの伝統的な考え方のようだ。様々な災禍や病患を発生しやすいことから生まれた民俗なのだろう。根拠の有無は分からないが注意するに越したことはない。

 来週からは上着をつけようかと考え出している。体温調整の準備も必要だ。

低温

 関東地方は気温が上がらない日々が続いている。今日は20度に到達しないかもしれない。あすからはまた暑さが戻ってくるようだが、どうもこれまで涼しさに慣れてしまうとこの後が辛くなりそうだ。雨や曇りの日が続いており、気持ち的にも盛り上がらない。

 天気と感情との相関関係がどれくらいあるのかわからないが、気分転換が難しい昨今の様子にあってはちょっとしたことが精神衛生に影響する。天候も緩やかであってほしい。

パラリンピックも終了

 いわゆるTOKYO2020大会が今日で終了した。メダルの数が増えたことは選手や競技関係者にとっては嬉しいことだろう。日本人にとっては非常に複雑な大会であった。すぐ近くで行われているのに見ることができない。海外からの選手団を歓迎することもできず、ウイルスの運び屋ではないかなどと勘繰る向きまである。折悪しく開催時期にコロナウイルス感染者が爆発的に増え、緊急事態宣言が出されたままであった。

 日本人は災害に慣れているのか、この状況になっても一部のデモがあっただけで、混乱はまったくない。海外でどのような報道が行わているのかわからないが、東京は極めて平穏である。人出は抑制されているが、それでも集まるところには集まっている。マスク姿の異様性ももうなれてしまっている。医療機関は大変な状態だと言うし、在宅待機を言い渡らされて後に死亡した事例なども紹介されているので事態は深刻なはずなのに、少なくも自分の近辺はほとんど変化がないのだ。

 このウイルスの罪なところはこのように一部の人に深刻な害を与え、それ以外は軽く済んでしまうということだろう。危機感を共有しにくいし、真剣な対応も取りにくい。オリンピックとパラリンピックもだから素直に受け取れない。現代人を分断しようとする悪魔の手段なのだろうか。国際大会は多様な人を結びつけるための手段であったはず。古代オリンピックは不戦の日としての役割もあったはずだ。私達はなにかとても大きな力に対しても勝利を収めなくてはならない事態に追い込まれている。

先輩面にて

 先輩面して一言言おう。今できていることがいつまでもできるとは、思わない方がいい。これは大切なことだ。

 誰もが加齢という不可逆的な流れから逃れることはできない。見た目がいかにあろうとも中身は着実に変化しているのだ。するといままでできていたことができなくなってくる。これは少しずつ自覚できるものではない。あるとき急に立ち現れ、ゆっくりと自覚を促そうとする。抗えないものと観念するには時間はかからない。

 だから後輩諸君には改めて言っておきたい。先延ばししても同じことができる保証はない。やれるときにやっておくのが賢明なのだと。

涼風

 ここ数日、気温が低めで推移している。猛暑に順応した身体にはかなり肌寒く感じられる。これが秋の始まりかというとそうでもないらしい。季節のゆきあいは波のような循環である。

 落ち着いて本でも読みたくなっている。8月は暑すぎた。比較的時間があったというのに。毎年、同じことを思うのだが夏の休みはあまり生産的ではない、私にとっては休養のときなのだ。その意味では目的を果たせたのかもしれない。

 このブログはポジティブになるために書いている。そしてこれからもそうするだろう。

命か学びか

 恐らく現在多くの教育現場で出ている話題に、通学を優先するのか安全性を重んじて在宅にするのかということがある。いま蔓延しているウイルスのように致死率が高いわけでもない、さりとて無視できない害を持っている場合、その判断はかなり難しい。

 リモート授業の設備が整ったとしてもこの問題は残る。リモート授業の学習効果に関しては様々な疑問があるからだ。発信者側のスキル未熟もしくは未発達という問題もある。それよりも大きいのが受け手側の問題なのだ。学校という特別な空間に身を置かずに学びの姿勢に切り替えるには生活習慣の改良を伴う大きな変化が必要だ。仲間との関係から醸し出される様々な感情とその対応も学校でこそ学べる。

 現状では保護者が責任を持つしかない。学校が万全を尽くしたところで感染の虞はなくならない。保護者が我が子の将来を見越して選択するしかなさそうだ。

9月

 今日から9月だ。伝統的な暦ではすでに秋は始まっているが、この月を季節の変わり目と考える人は多い。今朝も昨日と比べるとかなり気温が落ち、何かが変わったことを感じさせる。

 日本では夏休みが終わり2学期が始まるのがこの月だ。最近は地域によって様々な形があるので一概には言えなくなっている。再始動の月であることは確かだ。

 集団生活の復活に緊張する子どもがいることがこの時期の年中行事的な出来事である。今年は少し様子が違う。コロナウイルスの感染が一向に収束に向かわないので、登校を辞退するという選択肢があるのだ。行きたくないからの理由が、個人的な問題にとどまらなくなっている。

 生徒、学生諸君には早く平常の学校生活を送っていただきたい。失われた何年などと後で言われないようにやれることはやっておこう。

好ましくないたとえ

 ワクチン接種が進む中で様々な問題が生じているようだ。異物混入という深刻な問題は特に注目される。それでもワクチン接種は進めなくてはならない。

 好ましくないたとえであるが、自分の身体を全く知らない赤の他人に任せているというのがいまの日本である。世界の大半の国が日本と同等なのだが、それも大きな問題だ。ワクチンのような最新技術ゆえ仕方ないともいえるだろう。ただ、それにしても外国製しか選択できないというのは問題が大きすぎる。

 グローバルな時代に国産にこだわるのはおかしいというのが少し前までの考え方の主流だった。コロナ禍はその間違いを教えてくれた。グローバルな繋がりは何らかの理由で途切れることがある。その時どうするのか。食料やエネルギー問題も含めて再考する必要がある。