投稿者: Mitsuhiro

万葉集の歌

私にとっては万葉集の歌は何かを考えるときの原点になっている。日本以外の国からこのブログを読んでいらっしゃる方のために申し上げると、「万葉集」は日本のかなり古い古典である。8世紀くらいまでの日本の歌、短詩を集めたものである。

私は学生時代この歌集を研究していたのだが、今でも実に魅力的な古典だ。最近は文庫本で読み返すことが多いが、開くページごとにさまざまな発見がある。わたしたちの考える和風というのはだいたい室町時代以降、もっと言えば江戸時代のそれを指すことが多い。それ以前の鎌倉時代、平安時代は陸続きではあるものの今とはかなり違う。それ以前の奈良時代になると日本文化の常識が通用しない。畳、茶、日本酒そのいずれもないのが奈良時代なのだから。

それでも万葉集の作品は胸に響く。特に何かに行き詰まったときにこの作品を開くと良いヒントがあるような気がする。大昔の人が考えていたことが今の時代を動かすこともあるのだ。

人のため

 人のために何かをすることは自己実現の大切な方法だ。自分の利益を考えているだけでは行き詰まる。他者の幸せに貢献することが結局は自分の心身を豊かにすることにつながる。

 利他的な行為は義務感や責任感がはりついている。そこに息苦しさとか胡散臭さを覚えてしまうと次に進めなくなることも多い。身近なことの繰り返しが何よりも大事なのだろう。日常的に感謝したりされたりする流れがあれば継続しやすい。

 だから、ありがとうは意識して発するべき言葉なのだ。自他を幸せにする呪文のようなものなのかもしれない。

バブル

 感染予防の用語はいわゆる流行語の上位を占めている。スティホームやゴートゥートラベルなど文法的にどうなのか心配なものや、オーバーシュートの様に最近聞かなくなったものもある。最近の用語としてはバブルが印象的だ。

 感染の範囲を限定するために生まれたバブルの概念は、ウイルス感染に対して運命共同体を形成しようとするものらしい。どうしても協働しなければならないときの策である。オリンピックの運営で使われたのをきっかけに普及した。

 その意味では家族は究極のバブルだ私にとっても家族はかけがえのないパートナーであり、まさに運命共同体だ。にもかかわらず、ついそのことを疎かにしてしまう。もっとも大事なのはいつも近くにいる家族に他ならない。私は表現ベタであり、思っていることを軽々しく話すべきではないという美学を持っている。しかし、それ故に感謝の気持ちを伝えられていない。

 もっとも近くにいるバブルを大切にしたいと考えている。

先取り

 少し後のことを予見することは確かにあると考えている。次はこうなるという直感だ。多くは単なる妄想と片付けられてすぐに忘れてしまう。あとから考えるとあの時見た風景はこれだったのかと思うのだ。

 答え合わせがいつも後になるという点においてこの予感はエビデンスを持たない。でも、ある程度の確率でそうなることが実現するのだから、これは前もって記録でもして置くことにしたいと考えてしまう。

 私の場合はショートショートにまとめられるときにはまとめている。小説の卵みたいなものにも見える。もっともかなり脚色してそうなっているのだが。根拠のない妄想もきっといつかなにかの役に立つと信じて。

寒気予報

 長期予報によると今年の寒気は早めに訪れるらしい。昨日まで真夏日だったことを思うとかなり急だ。

 去年の冬はどうだったろうか。このところ一年中マスク生活なので季節感が崩壊している。冬は寒い方がいい気もする。何もかも曖昧だ。

 どんなに情報機器が発達しても私自身は目先のことしか考えられない。だから同じ失敗を何度も繰り返すことになる。

最後の真夏日か

 私の住む地域の予想最高気温は30度である。今期最後の真夏日かもしれない。週間予報では来月はじめにも高温予報は出ているが。

 気温は上がっても湿度が夏のそれとは異なる。光の色も違う気がする。通勤電車の線路脇のどこまでも続くすすきの列が風になびいているのを見るとさらに移ろいを実感する。

 今日は上着を置いてきた。これも今日までかもしれない。

秋分

今日が秋分の日ということはこれからは夜の長さのほうが長くなることを意味する。今日は真夏の陽気でとても秋とは言えないが、それでも空気は乾燥していてさすがに8月とはちがう。昔から暑さ寒さも彼岸までというからこれから急に季節は変わっていくのだろう。

先程、散歩をしていたらすすきの穂が風に揺れているのを見た。それもかなりの群生だ。目にはさやかに見えねども、確実に季節は変わりつつある。緊急事態宣言の取り下げはタイミングが難しいが来月はランクを下げざるを得ないだろう。いわゆる「人流」も復活し、ワクチンの効果がどれほどなのかが試される。

実りの秋はどこにあるのか。見定めていかなくてはならない。

逆境こそ

 コロナ禍の最近の大流行はピークアウトしたようだ。これからも繰り返すかもしれないし、次第に収束していくのかもしれない。いまのところはなんともいえない。病魔が影をひそめたと思ったら、今度は中国の不動産バブルが世界経済を撹乱しつつある。この影響もどこまでいつまで続くのか分からない。

 いまは恐らく逆境の中にあるのだろう。これ以外にも身辺を取り巻く状況に厳しいものが多い。私的問題もある。そうした逆境を悲運として受け取るか、別の兆候と考えるか。私は岐路に立っている。

 変化の多い現状では損失が多く、それ故の心身の打撃も大きい。それだけで疲弊していく何かがある。その一方で、変化に対して寛容になる環境が整っているともいえる。繰り返す転身が単なる逃げには映らない。

 こういう状況は自己変革の絶好の機会なのかもしれない。そう考えるといまの状況もまんざらでもない。

日較差

 最低気温と最高気温の差が11度もある。着るものに迷う時期だ。今日は上着を置いてくることにした。それは暑さに備えるからというよりは上着を着ないでいられる期間が終わろうとしていることへの名残惜しさのようなものだ。昼間はよかったと思い、帰りには後悔するはずなのだ。それもいまの時期の大切な経験なのかのしれない。

ノート作り

中学校の教員なので、教える教材は限られている。特に教科書が変わっていない場合は数年前の授業を再演すればいいはずだ。ただ私の場合はいつもゼロから準備を繰り返す。これは非効率的だが私のこだわりでもある。

大きな声では言えないが教員用の指導書もあまり当てにしていない。教えるべき目標に関しては一致させるがそれにたどり着く方法は指導書のままというわけにはいかない。教員の方はご存知かもしれないが指導書はあくまで理想で書かれており実態にあっていない。計画通りに運ぶはずがないほど効率的な授業計画が書かれている。

私の場合、本当に伝えたいことに絞ってそれを強調するような内容に書き換えてしまう。文科省的はいかがかと思うがそのほうが結局生徒のためになるのではないかと信じるからだ。今回の目的は例えば作品の構造を考えるとか、表現技巧の工夫を考えるとかであれば、それだけに中心をあてて行くのだ。

そのためにはリハーサルをしておく必要がある。私の場合、それがノート作りである。いうべきことを書いておくネタ帳だ。前回同じ教材を扱ったときとは目的が違うこともあるのでノートはその都度作る。同じことをやれば楽なのにとも思うが、やらずはおられない。