投稿者: Mitsuhiro

地震

 昨夜、関東地方で大きな地震があった。緊急地震速報が鳴動し、かなり長い時間揺れが続いた。私の住む地域は震度4だったらしいがもっと強く感じた。家財で崩れたものはなく、周囲に変化はない。

 ただ、東京東部や埼玉、千葉の一部ではかなり大きかったようでけが人が出たそうだ。震源が深く、広範囲で揺れている。このところ全国でやや強い地震が相次いでいる。東日本大震災から10年過ぎてなにか変化があるのだろうか。

 白状しよう。あんなに大きな地震があったというのに、その後私は寝てしまった。震源の位置と深さ、津波の有無を確認すると根拠のない安心感が出てしまう。震源はかなり近いが直下型ではなく、海底地震ではない。それだけで安堵してしまう自分は明らかにおかしい。

 恐らく私たちは地震のない国の人々からすると信じがたい精神構造を持っている。天災に関する諦念は説明しにくい。それがいいように働くときはよいが、そうでないこともしばしばある。気をつけなくてはならない。

本物を

 外出自粛でネットのサービス利用法はかなり上達してきた。コロナ禍の前と比べると格段の進歩だ。ほぼ毎日テレビ会議をする教員になるとは予想だにしなかった。

 ただ、リモートで何かができるといっても、それはディスプレイの画面上の出来事に過ぎない。リアルな経験のないものだ。

 仕事はそれでできるものはしたほうがいい。時短になれば益がある。対して実感を大切にしたい場面では害になることもある。

 これからは本物に会うことを大切にしたい。それが実感できるのもコロナ禍のおかげともいえる。

俳優の容姿

 俳優の多くはいまの容姿容貌をなるべく長く持続したいと考えているのだろう。いつまでも若くありたいという多くの人の共通の願望に加え、獲得したキャラクターを使い続けたいという商業的理由もあるはずだ。

 ところが誰も時の流れに逆らうことはできない。どんな最新の医療や化粧の技を駆使しても確実に加齢の現実は現れる。むしろ抗おうとすればするだけ、段階的に容姿は変化し、急に老け込んだかのように見えることすらある。それを分からないようにしてもやはり気づいてしまう。

 昔、一世風靡した俳優を何らかのきっかけで目にしたとき、その変化に驚くことがある。暫く見ていなかった人ほどそうだ。恐らく様々なアンチエイジングを施した結果であるはずなのに。

 顔を売る仕事の人たちがこうなのだから一般人はもっと劇的なはずだ。私も過去の写真をみると変化が甚だしい。見た目はどうしようもならない。

 外見の変化と内面は必ずしも一致していない。精神は昔のように若々しい人もいる。せめてこの方は時に逆らってみたい。

改革、再生、復興

 岸田首相が誕生し組閣人事が昨日のニュースだった。わずかながら世代交代があったことは喜ばしい。女性閣僚が3名に止まったのはやはり人材不足なのだろうか。

 最近の大臣には兼務項目を併記する傾向にある。今回も記憶できないほど多くの肩書きがある大臣が複数いる。本来職掌の中にありそうなものもあり、仕事をすることのアピールなのだろう。

 それにしても再生とか改革とか、そういう名のついている役職が多い。それがいまの日本の現実なのだろう。世間では実際には何もできないとか、短命であるとかいろいろ噂するものがある。国民としてはそのどちらもが国益に叶わないので、世評を裏切ってほしいと願いたい。

ハナミズキの実

 街路樹のハナミズキに赤い実がなっている。知らないうちに大きくなったようである。一度気づいてしまうとどの木にも見えるようになる。ものの認識とはこのようなものだ。

 季節の移ろいは色々なきっかけで気づく。人工的な風景の中にも季節は見えてくる。それに気づくのにはそういうことへの関心がいるのだろう。天気さえもスマホの画面で確認しようとする私の生活からは季節を感じ取る力さえ衰えつつあると言わざるを得ない。

 ハナミズキは紅葉し落葉する。その色もなかなか鮮やかなものだ。いつもその鮮やかな赤を何とか保存したいと思うのだが、写真に撮る以外に方法がない。仮に何かで標本化しても、それはすでに別のものになっている。それぞれの季節の印象を心に焼き付けておくことが季節を知る始めとなる。

融合というイノベーション

この国を再起するためにはイノベーションしかないと言われて久しい。しかし、研究開発にかける資金もそれを支援する制度も不完全な現状では一向に進む気配がない。残念ながら何も起きそうもない気がしている。

でも、そうでもないという人もいる。日本型のイノベーションとは新しい物をゼロから生み出すことではない。むしろこれまであるものを組み合わせたり、新しい解釈を加えることで新機軸を作り出してきたのが我が国のあり方だった。最近はその方法を忘れてしまったかのような気がする。

でも、この国に染み付いた文化融合のエネルギーはそう簡単には消えないだろう。まずは自国が一番というおごりを捨てて周囲の良いものを見つめることだ。その謙虚さが新しいものを作り出す始点となるだろう。我以外皆我師の精神をこの国が取り戻せば、また新しい展開が見られるはずだ。私もその一員としていろいろなことに関心を傾けていきたい。

無駄時間

 最近つくづく集中力がないと思う。自己反省甚だしい。多くの時間がネットに奪われまさにスマホ脳になっている。もっともいまもスマートフォンでこのブログを書いているのだからどうしょうもない。

 このような行動をかつては他人事として軽蔑さえしていた。いまは誰も難じることなどできない。自己変革をするしかない。

 考えていることはブログを含めてネット接続する時間の上限を決めたいというのがある。書きたいことはノートかオフラインのデバイスに書こう。幸い私の自宅は通信環境があまり良くなく、ネット遮断は簡単にできる。

 アウトプットは減らさないが脇道にそれる時間を減らしていきたい。

折り返し

 日本では学校や多くの企業が4月を年度のはじめとする。だから、10月はその後半の始まりだ。緊急事態宣言が取り下げられて社会的にも一区切りがついた。具体的にはまだ何も変わっていないが、変化の兆しはある。新しい生活を始めよう。今朝はそんな気分だ。

総裁選

自民党の総裁選挙が行われ岸田文雄氏が当選した。議院内閣制に馴染みがない国の皆さんにとっては不思議かもしれないが日本国民は自分の首長を自ら選ぶことはできない。だから、総理大臣に対しての意識がかなり屈折している。自分のあづかり知らないところで選ばれた人という意識が常に付きまとう。

自民党はよきもあしきも日本の社会構造の縮図のような組織だ。国会議員たちは空気を読んで行動する。つまり自分の主義主張より、周囲との調和の方を重視するため普段からあまり自己主張しない。したとしてもこのようなときにはあっさりと大勢に調和してしまう。だから党全体としては大失敗はしない。代わりに飛躍的発展は望めない。

日本のこのようなあり方はどうなのだろう。おそらく、短期的もしくは中期的な局面においては著しく危険だろう。新機軸を出せないままひたすら衰退していくしかない。一度衰退が始まると様々に波及してその深刻さは顕著になっていく。

逆に考えれば失敗はしないことは、最低限の水準で消滅は逃れる可能性はある。冒険をしないことで損害は逃れられるという楽観的な考えだ。これから発展していく国にはよく考えてみれば数々のリスクがある。それを乗り越えられるのかは誰にもわからない。堅実路線を行ったほうが最終的には生き残る可能性もある。

自民党を選ぶのは日本国民の冒険しない国民性の心的傾向を体現しているとも言える。実は自民党にはいくつもの派閥があり、野党の役割を党内で果たしている一派もある。日本には政権を担当できる野党がないので、その代わりを果たしているのである。

それでも私は今のままでは行けないと思う。岸田次期首相には嫌われ者になっていただきたい。日本を改革するためには首相が行動を起こさなければ始まらない。変革者はたいてい嫌われる。それでも停滞しているこの国をなんとかしなくてはならない。直接、選んでいない代表だがなるからには相応の働きを期待したい。

社会を知る遊び

 誹謗中傷をソーシャルメディアに書き込むことに関して、様々な問題点が指摘されている。時に命さえ奪う精神的な打撃を与えることを考えると単に言論の自由という枠組みだけで処理することはできない。本名を名乗らない、遡及不可能な発言はカットすることをやらなくてはならないと考える。

 システムとして特定の人物の発言を不可視の状態にすることはすでに可能だ。信用のおけない相手の発言はそもそも見ないという方法である。しかし、実際には自分の端末でそれを行っても周囲からその情報は入ってくる。自分がどのように評価されているのか過度に気になる状況では、単に見ないというだけでは不安は解消されないのだろう。

 それ以上に大切なのは、精神的なフィルタを確立することである。誰が何と言おうと不当な発言は相手にしないという概念そのものを身につけることだ。これは教育の分野が行わなくてはならないのかもしれない。いわゆるメディアリテラシーだ。

 ただこれも一歩間違うと独善の方向に進んでしまう。正当な反論も聞き入れることができなくなれば、個人として社会としての発展が阻害されてしまう。ネットの存在の有無にかかわらず、集団の中で様々な意見とどのように付き合い、折り合いをつけ、時に自説を述べ、主張し、間違っていれば取り下げる。こういう繰り返しをこどもの頃から身につけることがこうした状況への解決につながるはずだ。

 悪口をいう方も同様なことが言えそうだ。自分の行為がどれほどの意味があるのか分かっていない。その影響力がどこまでおよび、いつまで続くのか。そしてそれが結局自分を傷つけ、時には再起不能のしっぺ返しを受けることになるということを。

 多くの場合、こうした社会性のようなものは遊びの中で習得されると考えられる。しかし、今の子どもたち、今大人になっている世代はこの遊びをしてきていない。それが大きな問題点だ。教育のなかに社会経験を積ませる遊びを導入する必要を強く感じる。