投稿者: Mitsuhiro

夏日

 東京は今日も夏日になるという予報が出ている。真夏の酷暑に比べれば大したことはないはずなのだが、この時期に熱中症が発生しやすいらしい。原因は身体が暑さに対して馴れていないことにあるらしい。

 最近の天候は日毎の気温の変化が激しく、さらに一日の中でも較差が大きい。こういう状況がよろしくないようだ。私自身もかつてなら感じなかった疲労を覚えてしまうのは、この気温変動と加齢のせいだろう。

 夏日とは言ってもそのまま夏になるのではあるまい。まだいくつもの紆余曲折が待っている。それに対応できる体力と心の持ちようを保つことが大事だ。

満員電車の乗り方

 4月も半ばを過ぎて新年度の生活にもかなり慣れ始めた頃であろう。コロナ制限が解除され、元の生活が戻りつつあるのはうれしいことだ。ただ、困ったことも戻ってきた。満員電車である。

 満員電車はリモートワークが推奨された期間は一時なりを潜めていた。それがリモートでは仕事が捗らないという体験から、徐々になくなり始めた。そして元の過密空間が戻ったのである。

 満員電車に乗るためには降りるまでの行動を予め理解しておくことが必要だ。私のように終点前の駅で降りる場合、特に注意がいる。まずは降りられる位置に立つことだ。

 ドアの前に立ってはならない。乗降の妨害になるし、場合によっては、新たに乗り込む人たちに押されて降りにくい位置に流される。だから、少し入った座席前の吊り革を確保したい。理想的には入り口から2〜3個目がよぃ。可能ならばドアから見て進行方向とは反対の、つまり後ろ側がよい。こうすると停車前のブレーキで慣性の法則と戦わなくてよくなる。

 降りるときは一声、降りますとつぶやくといい。満員電車の乗客には一種の連帯感が生まれやすいので協力してくれる。ただイヤフォンで外界との連絡を絶っていたり、スマホに魂を売り渡している輩には通用しないので、軽く押すしかない。

 この要領を心得ていないと降りたい駅で降りられないこともある。降りられなかったら、正直に上司なり教員なりに事情を話すべきだ。いまの時勢ならは許してくれるはずだ。ただし一度だけであろうが。

 数年分の満員電車未経験者が今は狼狽している。案ずることはない。すぐに馴れる。そして来年の春、満員電車デビューの人たちを哀れむことになる。

自分を描く

 小説のなかの「私」は自分のことではない。少なくとも読者はそのように考える。自分のことを「私」と語る架空の人物である。それを作者が創作し、読者はその創作の文脈に乗っ取って読む。

 随筆になると「私」は筆者のことではないかと考えられる。たとえそれが真実ではなくても、文章の中ではそれは紛れもない筆者の体験の記録だと考えるのだ。読者の読み方がそのようになる。

 ただ割り切れないこともある。随筆の中にも限りなく小説に近いものもあり、明らかに真実とは異なると直感できるものもある。こうなると随筆の「私」は筆者とは言い切れない。ただ、この筆者の経験が言動といった可視のものに限らないとすればどうだろう。例えば筆者が頭の中で考えたこと、妄想したことなども筆者の体験ともいえる。ならばそれを記したものは立派な随筆ではないか。

 でも、そう考えると小説にも当てはまる。小説の中にも自分の経験を素材して書かれたものはいくらでもある。ならばそれは随筆ではないか。でも随筆という分類でその作品を読み直すと明らかに違和感がある。おそらく、創作性というものが切り落とされるような気がするからだろう。

 作品の中で自分を描くのは実は結構難しい。ありのままの自分を描くことはできない。そこにはどうしても幾分かの物語化が起きるし、そもそも自分のことを自分が客観的に描くこと自体が難しい。日記やこのようなブログもそうだ。毎日書いているブログも自分のことを書ききったと実感することはほとんどない。自分を描くことは難しい。

当然、打消

 古典を学習していると気づくことがある。完了の助動詞の「つ」「ぬ」「たり」と過去の助動詞「き」「けり」が連続するとき、必ず完了、過去の順に繫がり逆の例はほぼない。「てき」「にき」「てけり」「にけり」はあるが「けらぬ」は見たことがない。助動詞には繋がる順番が決まっているようだ。

 では当然の助動詞「べし」と打消の「ず」の場合はどうか。多くの場合は「べからず」となる。当然、打消の順だ。逆はどうか。「ざるべし」の形はなくはない。どちらかといえば不可能や不適当を表現する場合に使うような気がする。当然の打消の場合は「べからず」のほうが優位ではないだろうか。

 なぜこのようなことにこだわるかといえば、最近「へきではない」ということろを「ないべきだ」という表現をよく目にする耳にするからだ。「ないべきだ」は間違いではないのになぜか気になる。不適当の意味の「ない方がいい」の意味で使うならばいいが、不許可、禁止の意味で使うとどこかに違和感を覚える。

 日本語の仕組みとして打消は最後にあって、その前のほとんどをひっくり返す。文の途中にあると部分否定のような趣になり、打消の意味が弱まることに原因があるのかもしれない。

 こういうことを使用者が納得して使っているのかいなかはコミュニケーションの成否にとっては重大事項だろう。それを考えさせるのは国語教師の大切な役目だと考える。

春土用

 立夏の18日前からを春土用というらしい。土用というと夏のものばかりを思い浮かべるが、実は四季の全てにある。

 今年の立夏は5月6日なので春土用が始まったことになる。土用は陰陽五行説の土のエネルギーを獲得する期間とした雑節の一つであり、何らかの食べ物の摂取を推奨する。春の土用は戌の日に「い」から始まる食べ物か白いものを食すののが吉とされるらしい。

 迷信と言われればそれまでだが、身近なもので元気になれるのならばのってみてもいい。

三色すみれ

 スミレの仲間は実は結構強い。万葉集の赤人の歌に詠まれているからスミレ自体はかなり古くから日本人に注目されていたことになる。三色すみれはパンジーのことだが、この可憐な姿に反して結構強い。

 富山にいた頃、冬場の花壇の彩りを保つのはパンジーであり、積雪を経ても生き残り、チューリップの咲くまでの隙間を埋めてくれた。

 東京に帰ってもパンジーの強さを実感することがある。アスファルトの破れ目の僅かな隙間にもパンジーは咲く。こんなところにもと思う。花のサイズを小さくして適応しようとするのは雑草のような強さである。

 パンジーを見るたびに雪国の冬場を慰めてくれたことに感謝している。

形なきもの

 価値観とか美意識とかそういう形がないが大切なものを見直そうと考えている。形あるもの、もしくはそのものに形はなくても何かに置き換えることが容易なものはデータ化され、コモディティとなりつつある。大切なのはそういうものだけではない。

 名状しがたいもの、名付けても十分に言い尽くせないものは価値判断の外に置かれていた。しかし、実はそういうなにかこそが自分の物の見方なり行動様式の根底にあったものである。形がないものが多くを支えている。だから、いままでとは違う判断をしなくてはならない。見えないものこそ、他者と比べられないことこそ大事にしなくてはならない。

 すぐに比べたがる。比べる基準がグローバルに存在するかのような幻想を抱くのが現代社会だ。それはあくまで便宜的なものであり、基準を作ったものの有利を保つための手段に過ぎないということを私たちは様々な事例から感じ取ることができている。もっと自分の価値観を信じ、それを磨く努力をするべきだ。つくづくそう思う。

シラン

 紫蘭は蘭と名の付く植物の中ではもっとも身近だ。ことごとしい世話はいらないので庭先に植えられる。ある程度まとまって植えられているものを目にする。

 調べてみると原産地は日本を含む東アジアで、野生種もあるらしい。この国の風土に適合してきたということになる。ただ蘭があるというだけで何か贅沢な気持ちになれるのはこの花の良さである。

 すでに開花が始まっており、群生が咲きそろうのもあと僅かだろう。心遣りには最適な花である。

春憂

 家持がひばりを見て孤独を感じたように、春の穏やかな風景は自分を見つめ直すきっかけにもなるようだ。決して後ろ向きになることがないように注意しながら、大地のエネルギーが感じ取れるようにしたい。

ヒナゲシ

 道路脇の僅かな空間にヒナゲシがこぼれ咲きしている。恐らくどこかの庭から来たのだろうが、それと思われる家は代替わりして園芸には興味がなくなったようだ。花だけが敷地外に生き延びた。

 ヒナゲシは虞美人草ともポピーとも言われ、名前ごとに印象が異なる。可憐で華やかなお花でいかにも弱々しい趣きだが、こぼれ咲きに耐えるだけの繁殖力がある。見た目と異なる生命力に驚く。

 項羽の無念に例えられる草花が存外逞しいというのは意外だ。いやそれ故に悲劇性は増すのかも知れない。