投稿者: Mitsuhiro

不安

どんなときに不安になりますか ?

 私にとっては不安は永遠の友人だ。だから、いつ不安なると聞かれるならいつもだ。

 不安という友人を大切にしたい。彼がいなくなったとき、私の人生はほぼ終わると言っても過言ではない。私は不安を糧として様々な困難な状況を乗り越えてきたのであり、これがなくなることは動力源を絶たれることに等しい。

 だから、不安は自分が前に進むために不可欠なものなのである。なくなっては困る。いつもどこかにいる。幸運なことに不安の居場所はいくらでもある。それが現代社会の特徴なのだ。

 不安という友との付き合いは節度が必要だ。厚遇しすぎると牙をむいて我が身を害する。冷遇すると己の中の慢心が太りだす。制御するという気持ちで臨もう。これさえできれば最高のパートナーになり得る。

ツツジとハナミズキ

 親が選んだ町に来ている。バブル期に人口が増えた町は転入者が大半を占める。ただ、その世代も高齢者となり、二世三世が生まれるともうすっかり地元民だ。

 急造された道路もそれなりに風格を持ち出し、街路樹も大きく育った。特にハナミズキとツツジは鮮やかな色彩で引き立てあっている。この町に越してこようか。いま悩みつつある。終の棲家にはならないとは思うが、なるかもしれない。分からない。

 町に人が馴染むにはきっかけと時間が必要だ。

怒り方の色

 最近、よく怒られる。しかし、昔ならメンタルをやられたはずなのに今は気にしなくなってしまった。それにはいくつか理由がある。上司に怒られることが多い私のような方のためにやり過ごす秘訣を伝授しよう。

 大体怒りの原因の多くは本人の立場保全のためだ。部下にそのようなことをやられたら私が困る。要約すればそういうことだ。管理職ならば、部下の失敗をカバーするべきなのにそれを放棄して叱りつけるだけだ。これを見透かせるようになってから、叱られてもなんともなくなった。失敗は素直に詫びるがそれで許してくれるなら、理想的な上司だ。さらに愚痴を言ってきたら、心の中で笑っている。この前はそれを見破られてさらに怒られ、さらに笑った。

 管理職にはなったことがないが、過酷な職種だと思う。すべての責任が問われるのだから。でも細かいフラストレーションを部下にぶつけているようでは先がしれている。そもそも管理していない。

 私はそれが分かってから叱られるのが楽しみになった。度量を見透かす機会だからだ。ならば理想的な上司はどうすればいいだろう。それは怒りの色のグラデーションを多彩に操ることだろう。起こっていることがあなたのためだとしっかり伝えることなのだろう。私ごときに見透かされることがないように。

 怒られてばかりの平社員の皆様に言いたい。上司も辛いのだ。人を叱るスキルもないままに職を与えられてしまった。少し耐えればあなたがこの職に就ける。その時に思い出してほしい。怒り方、指導の仕方の多彩さを心掛けよう。それができれば今の上司を凌駕できるはずだ。

フレーム

 美しい絵画をみると感動するが、その中には額縁の存在もあることをつい忘れてしまう。額縁は作品を引き立てる大切な役目を果たしている。

 昔の絵画の中には絵の中に縁取りのような模様が描かれているものもある。それは中央の絵画とは付かず離れずの関係にあり、テーマをまさに側面から支えている。宗教画なら天使や悪魔、妖怪などが図案化されている。絵画世界を俯瞰しているかのような存在だ。鑑賞者はさらにその上から見ていることになるから、重層化した世界を見ているような感覚になる。

 普通の絵画でもフレームは創作と現実の境界として機能する。囲まれた世界は例え偽りであっても受容することができる。創作であることを示す目印と言える。

 パーチャルリアリティにしても、拡張現実にしても今のところはコンピューターの画面というフレームに収まっているから目印がある。しかし、恐らく近い将来、画面を飛び出した非現実が現れるだろう。そうなると私たちは自分で目に見えないフレームを作り出さなくてはなるまい。それを忘れると思わぬ悲劇が始まる可能性がある。

700日連続投稿

 WordPressの通知で今日で700日連続投稿と分かった。この通知が始まる前から書いているのでもう少し長い。もはや日課となっている。専ら自分ために書いているから、読者も増えないし、それを望んでもいない。広告収入も増えない。でも、続けていくだろう。書けなくなるまで。

疲労

 昨日体力を使うことがあり、かなり疲労してしまった。ただ、改めて思うのは肉体の疲労は時間をかければ回復するということだ。日常の精神的な疲労は、肉体疲労に比べればはるかに分かりにくいが、回復するのには相当な時間がかかる。どちらが厄介なのかは明らかだ。

 日常から逃れることができたならと考える思考は昔からあった。それが祈りになり、宗教にもなった。ただ、生きていながら脱日常はかなり難しい。そこで折り合いをつけるしかなくなるのだ。

 考えてみれば、肉体的に疲れることは日常を生き抜くための手段なのかもしれない。必ず回復することを体感することで精神的にも救われるのだから。

クレマチス

 隣家のクレマチスが咲き並びだした。鮮やかなコバルトブルーと白の二種だ。もう何年も見させていただいている。南国を感じさせる派手な花柄たが、植物学的にはあれは花びらではなく萼なのだという。

 南国と書いたが、現在の園芸種のクレマチスが出来上がるには、日本に自生しているカザグルマや中国由来のテッセンなどが交配されているという。シーボルトが日本から持ち出し、品種改良されたというから、紫陽花などと似ている。

 俳句の季語としてはテッセンがよく使用される。蔓草の丈夫なのを鉄線に例えたのだろうか。その鋭い響きと、実際の花の可憐さの対比が面白い。美しいものには、何らかの裏があるというストーリーも浮かびやすい。

 クレマチスをみると少し豪華な気分になるのがいい。困ったことは日常に溢れているが、それをわずかに忘れさせてくれる。

教育現場のデジタル事情

 私の努めている学校はデジタルの教育への導入ほ比較的進んでいると言えるかもしれない。ただそれが効果的に働いているかいなかは議論の余地がある。

 色々な議論があるがデジタル技術はうまく使えば効果的だが学習阻害要因にもなる。特に中等教育の現場では、メリハリが必要だ。自分の脳で考える場面と、検索等で見聞を広める場を切り分けるべきだろう。

 それを行うのが教員の仕事になる。デジタル化の是非を議論する人に言いたい。デジタル機器を子どもたちに使わせるべきではないという方も、使わせるべきだという方も教育現場が分かっていない。そういうブラスかマイナスかという議論は通用しないのだ。

藤波

 藤の花が咲き始めた。公園などに見られる藤棚はとても美しい。よってくるクマンバチには驚かされるが、彼もまた花の虜になった仲間と思えばよい。あちこちに藤の名所はあるが、私にとって印象的な場所があるので紹介しよう。

 富山県氷見市にある田子浦藤波神社の藤は一見の価値がある。これは万葉集に収められているこの辺りで作られた藤の歌にちなむものである。8世紀の半ば、越中国守となった大伴家持は、任地の風土を多くの作品に残している。ひみのあたりは低湿地だったらしく、布勢水海と呼ばれる湖沼もしくは入江が存在したようだ。藤波神社はその推定地の中にあり、浮島のようになっていた小丘と考えられる。

 神社の歴史も藤の花も万葉時代まで遡れる保証はないが、地元の人がそう信じてきたことは尊い。その神社の藤は山藤の類で、境内を覆い尽くすように絡みつき圧倒している。私が訪れたのは随分前のことだから、今はどうなっていることだろう。

 私が見た藤の花では最も印象的なものの一つだ。他にもあるがまたいずれご紹介したい。

説教は快楽ではない

 私は生徒の皆さんには分かったふりをしてほしくない。そういうもんだという不文律のようなものは確かにある。ならぬものはならぬという毅然とした態度も必要だが、単なる押しつけではきっと心には届かない。理由もわからず押し付けられたルールは理解されず、同じミスを繰り返す。

 教員の方も単に規則だからとかモラルやルールを゙持ち出すのは控えたほうがいい。その説明を試みるべきだ。理不尽な問題もあるが、それもともに悩むべきなのだ。これはとても骨が折れる行為だが、やるしかない。

 去年流行った歌に説教は快楽という歌詞があった。これは根本的に間違っている。人に自分の考えを伝えるのはかなりのエネルギーを要し、疲労困憊する。あの歌にあるオトナの僕がした説教とは恐らく教える行動ではなく、自説の押しつけのことだろう。そのアイロニーが滑稽に結びついている。教員の立場から言わせると説教は身を削る行為であり、快楽の対極にある。

 何かを伝えることは受け入れる側との相互行為により成り立つ。それなりに時間と労力がかかる。生徒の皆さんには下手な忖度は不要だ。話し合おう。矛盾に満ちたこの社会のあり方を。