投稿者: Mitsuhiro

梅雨明けの可能性も

 連日暑い日が続いている。雲の多い蒸し暑い天候は身体にこたえる。天気予報によれば来週は猛暑日になる可能性もあり、場合によっては梅雨明けになる可能性もあるらしい。

梅雨末期は大雨に警戒

 梅雨末期の大雨はこの時期にもっとも警戒しなくてはならないものである。過去も多くの被害をもたらしている。7月中旬が多かったと思うが、このところ前倒しになっている。いま西日本を中心に豪雨の地域があるらしい。これが、次第に東に及ぶ。

 周囲の人たちの体調が軒並み落ちている。中にはひどい咳をする人もいいる。コロナウイルスかその変形かもしれない。数年前と違って大騒ぎしないだけで、感染が広がっている可能性は大きい。でも、やや強めのインフルエンザといった感じなのでこれは通り過ぎるのをまたなくてはなるまい。

 天候の不順はいろいろな不都合をもたらす。それをいかにやり過ごすのかが肝要である。

趣味のうち

 利益にはならないがやりたいことはある。これを能率主義者は無駄という。でも、果たして無駄なのだろうか。効率を重視して己を捨てることよりも遥かに有益なのではないか。

 趣味の追求は大抵の場合、他人からは無駄にうつる。そんなことをして何になるのだと。なんにもならない。ただ楽しいだけなのだ。その楽しみが時々他人のためになることがある。それでいいのではないか。

 生産性の高い理想的なXさんになるより、駄目だが生きることが楽しい私になる方が遥かに幸せであり、世の中のために成るのではないか。最近よく聞く生産性第一主義の論者の大半が不幸そうなのは恐らくここに帰結するように思えてならない。

七夕の願い

 新暦の七夕である。梅雨の只中で天の川の邂逅は目撃できないはずだが、今年は異常気象もあつて可能かもしれない。日本ではこの日、短冊をつけた笹を飾る。その短冊に願い事を書くのが習慣になっている。

 日本の七夕行事は恐らく根が深い別系統の棚機つ女伝説や、本来夏越の祓に関係する禊や祓えの行事が集約されているものと思われる。短冊に願いを書くことは江戸時代以降らしい。

 願い事は元来、文字の上達など、学業や芸事の向上が願われていたらしい。だから、金持ちになれますようにとか、推しの誰々に会えるようにとかたのまれたとしても天帝は処理に困るだけだ。

 私は「いつまでも自分の頭で考えられますように」という願いを見えない短冊に書いて飾ることにする。もちろん認知症が発症することを少しでも遅らせたいということもある。それよりも何でも機械任せにして考えなくなっていることへの自戒を込めてこの願い事を掲げよう。

 叶えてくれるだろうか。

短期記憶低下

 残念ながら短期記憶の低下は著しい。何をしに来たのか思い出せないということがしばしばある。コンピューターのウインドウを閉じると、何をやっていたのか分からなくなる。これは一種の老化なのだろう。

 同僚の中にも同じ悩みを持つ者がいる。しかも、私より大分若いのにも関わらずだ。短期記憶は、かなり早い時期にピークを迎えるらしい。

 そこで私は常に小型ノートを持ち歩きメモ代わりにしている。これで一応補助になる。ところが困ったことにこのメモをしょっちゅうなくす。だから、私の鞄や机上はメモ帳だらけだ。でもないよりずっといい。

 大事なのは何でもメモすることだ。単語でも図でもいい。すぐに採る。私の頭のスキルを補うのは数百円のメモ帳とペンなのだ。ブログ記事のヒントも大抵これである。

教科書2冊配布もしくは

 義務教育の教科書は税金で賄われている。裏表紙にはこれは国民の税金で提供されているものだから大切にするようにという注記がある。しかし、この教科書が重い。

 いくつかの教育委員会では教科書を学校において帰ることを許可している。荷物を軽くするためには仕方がないという訳だ。タブレットやパソコンは持って帰れという。私は逆がいいと考える。

 教科書類が重いのは事実だが、大抵の場合、毎日の詰替ができていないことで必要以上に重くなっている。資料集などは自宅に置かせ、授業で必要なものだけを持参させるのがよい。パソコンやタブレットは学校に置いて行かせ、充電もできるようにすればいい。鍵のかかる充電器具の確保などの設備投資はいるが。

 家でネット検索をさせる必要はない。多くの家庭では子どもに貸せるパソコンを持っているかもしれないので、家庭での検索は禁止などと言っても無意味だろうが、少なくともデジタルデバイスで宿題をやらせるべきではないだろう。

 紙媒体の教科書による学習効率はやはり高い。だから、家では伝統的な学習法に集中させた方がいい。この方が成果が上がるはずだ。子どもの頃からデジタル機器になれさせるべきだ。使えないと困るという親は今のデバイスの使いやすさを知らないのかもしれない。少なくとも義務教育の間にプログラミングやデジタル処理技術は教える必要がない。余裕があり、趣味的にやりたいならば学ぶべきだが、少なくとも他の基礎的学習の時間を削ってやる必要はない。

 それでも鞄が重いというならば、検定教科書の2冊目を有償で販売してもいいと考える。価格設定は高めでもいい。1冊の教科書に書き込んで使い尽くす方がいいと思うが、必要な人には売るという方法もある。コンピューターを使って考えたふりをするよりも遥かに期待できることが多い。

結びつける学習

 脳の構造として何かを学ぶときに自分にとって意味のある情報を優先するということが分かっている。逆に言うと無意味だと思われるものはなかなか習得できない。これは年齢を重ねるほど顕著な傾向になるそうだ。

 私がいろいろなことを学ぼうと思ってもそれがなかなか身につかないのは結局、自分にとって本当に必要だとは思っていないからなのだ。なくてもいいことは身につかない。少なくともそういう価値観をもってしまった瞬間から、習得の順位は下がってしまうのだ。だから、逆に価値を上げることさえできれば学習効率は上がることなるはずだ。

 学校の勉強がうまくいかないという人もテストの前になると少しはやろうとする。学習の成果が評価されると思えばやる気になるからだ。しかし、それがなければ何もできない。できなければ効果が上がらない。普段の学習も何かに結びつけたほうがいいということになる。そうすることで脳が優先順位を上げてくれるはずだ。

ソーシャルメディアという形容矛盾

 Twitterの方針転換に関しては何度か問題になってきた。トランプ前大統領のツイートを排除するかしないか、リツートの回数を制限するとか、そういうことが最近話題になっている。

 恐らく、TwitterにしてもFacebookにしてもそれを提供する企業の事情でこれまでも強制的に方針が変更されてきた。これからもそういうことが繰り返されるはずだ。ソーシャルメディアは日本ではソーシャル・ネットワーク・システムなどと言われてるが、いずれにしても実はソーシャルではなく一企業の商品に過ぎない。ただその上に、政治家も企業も乗っかっていくのであたかも公器のようなふりをしているだけだ。

 これに頼りすぎるのは危険だし、そもそも公のものではないことを知るべきなのだ。そうでないと一部の企業経営者の思惑に踊らさることになる。ただで使わせてくれる利点だけを活用して、活用されないようにすることが市民の心得ということになるだろう。

集中する時間

 自分の特性というものを実はよく掴んでいない。ただ、一つ言えるのは同時に何種類かの仕事をそつなくこなすというのには向いていないということだ。同僚や知人の中にはそれが見事にできる人がいるが、私はそれができない。

 昔、図書館にこもって一つのことをし続けていたことを考えると、私には何か決まったことをそのまま続けていくことが向いていると思っている。でも、そうかと言って飽きっぽいところがあるので極めることができないでいた。これがいわゆる天才との違いだ。

 今の仕事で全く調子がでないのは、マルチタスクそのものだからだ。同時にある程度の水準を維持しながら仕事をこなさなくてはならない。しかも自分で仕事の内容は選べず、状況に柔軟に対応しなければならない。こういうコンピテンシーは私には欠けている。

 それを補うために最近は色々な工夫をし始めているが、その一つが全てを満たすことを諦めることだ。これは自分の主義として認められないことだったが、最近は仕方がないと割り切れるようになっている。

 その代わり、満たされない思いを仕事以外の方面に活かしたいと思うようになってきた。それが恐らく次のステップに繋がることなのだろう。やりたいことを効率とか利益を考えずにやることをここ数年の目的にしてみたいと考えている。

何があるかわからない

 予測がつかないのは今に始まったことではない。未来予想のほとんどは外れてきたし、これからも外れ続ける。コンピューターの精度が上がって天気予報は外れにくくなったが全く外れないわけではない。むしろ期待値が高まった分だけ、外れた印象は大きくなっている。

 自然現象でさえそうなのだから、人間が作り出したものの行く末など分かるはずがない。自分のことなら分かるだろうなどと考えても無駄だ。自分のことがこの世の中で最もわからないことだと言える。

 何があるかわからないのなら、焦らずにその場で状況に対応するしかあるまい。その方が実はもっとも効率的だ。最低限の備えは必要だが、それ以上を持っていても結局使えない。必要なのはものではなく、冷静に対処できる判断力であり、スキルである。いらないものを捨てて、必要なものを大切にすることをもう一度考え直したい。

 私の世代は物質的欲望に踊らされすぎた。本当に必要ではないものを無理に買わされてきた。本当は価値などないものに魅力を感じるように誘導されてきたのである。それは本当にいるのか、なくてもいいのではないか。逆に他人には魅力がないものでも大切な物はあるのではないか。再評価をすることで次の段階が見えてくる気がする。

 何があるかわからないのだから、何をするかはせめて自分で決めるべきだ。

ノカンゾウ

 百合に似たオレンジの花が固まって咲いていた。ノカンゾウの名は以前調べたことがあったので知っていた。鮮やかな色の割には地味な花だ。

 この花には別名がある。忘れ草という。嫌なことをはやく忘れたいときにこの花を身に着けたらしい。

忘れ草 垣も繁みに植えたれど 醜の醜草 なお恋にけり

 万葉集のこの歌がノカンゾウのことだとしたら、その時代から園芸の対象になっていたことが分かる。忘れたくても忘れられない恋心への対策には役不足だということになる。

 この植物は薬効があることも古くから知られていた。貧血や不眠症などに効果があるらしい。この手の苦しみを忘れることはできるようだ。

 私もこの花を植えてみたい気がする。忘れたいのは恋心ではないが。