月: 2023年7月

机がきれいだと頭がいいの嘘

 よく仕事ができる人は机がきれいだという人がいる。大体当たっているが間違っている。机の整頓状況と頭の良さは無関係だ。きれいならいいわけでもないし、整理など無用と言うのも間違っている。無関係なものを無理やり結びつけるから混乱する。

 ここでいう仕事を他者から与えられたことを言われたままにこなすものだとしたら、やはり整理はしたほうがいい。全ての自主性を放棄して職務に忠実に生きるためには余計なものは目の前から消すべきだ。それを整理と言うならば。

 ただ、ゼロからものをつくる人は整理すると自分の可能性を捨てることになることに注意しなくてはならない。余計なものを抱えていることが新しい可能性を生み出すことにつながる。イノベーターといわれる人の仕事場が雑然としているのはこれに関係がある。

 ただ、だから整理はすべきではないとは言えない。精神衛生上、もしくは周囲の人たちへの配慮の関係上、汚いのは止したほうがいい。言いたいのは整理することと生産性は無関係だということだ。エビデンスもなくやたらと整理という名の消費行動を勧める言説を読むたびに陰謀すら感じてしまう。

紙とペンと

 学習効率を上げるためにはやはり従来型の紙に書く方法が今のところは一番いいらしい。なんでもコンピューターに委ねられるほど人間の脳は進化していないのだ。

 そこで私は原稿用紙を持ち歩くことにした。百均の原稿用紙とそれをいれるケースを鞄に入れて歩けばいいことに気づいたのである。ペンは本当は万年筆で書きたいが外出先ではサインペンでいい。筆圧をかけずにかけば万年筆のようにも書ける。

 このブログで書いているような雑記的なものを原稿用紙にも書き始めている。この方は推敲して後日何らかの形で公開したい。手書きのほうが慎重に書くので少々内容も異なる。

 ペンで書くこということは意外にも大切だと再認識した。思えば人生の半ば辺りからキーボードに筆記行為を委ねてきた。あるときには不可逆な流れとも思ったが、いまは手書き文字でも簡単にデジタル化できる時代になった。いろいろ考えると自分の能力では手書き文字を書くほうが効率も上がるようだ。

連続猛暑

 このところ猛暑日が連続し今日もかなり暑い一日になりそうだ。30℃位を涼しく感じる感覚の麻痺が起きている。

 そういえば昨日始めてセミの声を聞いた。もっと前から鳴いていたのかもしれないが気づかなかった。昨年は最初の猛暑日あたりではセミが鳴かず、しばらくしてから鳴き始めた。自然のリズムも狂っているようで、この先どうなるのか予測もつかない。

 今日も近くのカフェと図書館に避難することになる。ある自治体ではクーリングシェルターというそうだ。言い得て妙だが、そう言った後で余計暑さを感じている。

昨日攝った雲、この後次々に形を変えた

AIのブログ

 気がつけばWordPressのサービスの中にAIのアシスタント機能がついていた。簡単な指示でブロクを書いてくれる。これは便利で危険な機能だ。うっかり使うのに慣れてしまったら、せっかくの私の楽しみの一つが機械に奪われるかもしれないからだ。IのブログなのかAIのブログなのかの分かれ目はいまここにある問題なのだ。

ワルナスビ

ワルナスビ

 近々の公園を散歩していたら、茄子のような紫色の花と葉をもった植物が群生しているのを見つけた。よく見ると白い花もある。花自体はそれなりに美しい。実はかなり前からこの植物のことが気になっていた。どうして茄子がこんなにもたくさん植えてあるのだろうかと。こぼれ咲きにしては多すぎる。

 そこで例のGoogleレンズで検索をかけたところこれがワルナスビということを知った。北米原産の外来種で全国各地に分布しているのだという。ワルナスビは悪茄子という意味である。その悪とはこの植物に含まれる毒性のことを意味している。葉も実も食用にならないどころか中毒死の可能性すらあるという。ジャガイモの芽にも含まれるソラニンという物質がそれを引き起こすらしい。プチトマトにも似た実をつけるが口にしてはならない。

 さらに悪であることに、ナス科の植物であるためこれがはびこると本当のナスやジャガイモなどに連作障害をもたらすという。またニジュウヤホシテントウなどの害虫を呼び寄せることも問題になる。この意味でも食えない植物なのだ。4、5年前から私はこの植物を認知してたものの、実はもっと昔からあった。1906年に牧野富太郎が発見して命名していたという。20世紀の終わりごろには問題化されており、すでに積年の悩みであったということになる。鍬や耕運機ですきこんでも分断した根からまた発芽するというたくましさもこの植物の厄介なところだ。農薬なども効きにくく、根まで影響力のある除草剤をまく必要があるそうだ。

 身近な雑草にもさまさざまな物語があり、それがまたいろいろな影響を他に及ぼしている。ワルナスビの名を知ってしまった以上、この花を見かけると気になって仕方がないことになる。

FC町田ゼルビア

 町田にプロのサッカークラブを作ろうという機運が高まり、JFLに昇格したあたりから私は時々観戦に出かけたことがある。今は立派になった町田市立陸上競技場の客席の大半は傾斜した芝生席だったし、鉄道駅からのアクセスが悪いからプロチームは無理だと言われていたことを思い出す。今年はJ2リーグでの首位を独走しており、先日の天皇杯予選ではJ1首位の横浜・F・マリノスに圧勝した。相手はベストメンバーではないにしてもJ1の優勝争いをするチームに勝つまでの実力があることが証明されたのだ。

 私が観戦したころはJFLの3~6位くらいを行ったり来たりしていた。相手は実業団チームであったが、TDKや松本山雅などのちにJリーグに昇格したチームもいた。観客はいつも1000~2000程度でそのなかにもかなりの招待席があった可能性がある。熱心な応援団がガラガラの観客席にチャントを繰り返していた。選手たちのかける声もよく聞こえたし、試合後に観客席に挨拶に来ると、観客席の少年から「コーチ」の声が多数かかった。少年チームの指導員の仕事を掛け持ちしていたのだろう。町田は少年サッカーが盛んな土地柄で、当時Jリーグで活躍する選手の出身地は静岡の街に肩を並べるくらい多かった。その後、J2に上がり、再びJFLに陥落し、そして再昇格した。

 チームが強くなったのにはいろいろな要因がある。サイバーエージェントがスポンサーになったこともその一つかもしれない。人気が出るとあたかも昔からプロサッカーチームがあったかのように思う人が増えてくる。「パスを回せ」「こっちだー」と大声でボールを要求していた選手は今は都議会議員になっている。あの頃は人を集めるのだけで一苦労だったのに。

私がなんとなく大切にしているものの一つにJFL時代のチケットの半券がある。すでにプロ化の進みつつあったもので、サポータークラブに入っていたのでそのおまけとしてもらったものだ。2010年8月1日の試合で、ガイナーレ鳥取と対戦して0-1で敗れている。記録をみると7081人の集客があったようだ。私はソニー仙台やホンダロックといった実業団チームとの試合の方が実は印象に残っている。千何百人のうちの一人になれたことを嬉しく思ったものだ。

歌枕

 和歌の世界で名所を歌枕という。これは全国各地にある歌に詠むべき地名ということで、平安時代にその概念が確立したようだ。これは単なる地名ではなく、様々な意味が込められている。

 本来地名はある場所を表すストーリーのエッセンスとも言うべきものであり、短い伝説を伴っていたのではないかと考えられている。常陸国風土記の記事を見ればそういう推論があたっている可能性を感じる。地名はその土地の地形や歴史などに由来を持つが、地名となった後は、その地を守護する神のような存在になる。

 地名が記号化した後でもこの印象は残ったようで、王朝歌人が和歌を詠むときにはなんらかの敬意がはらわれていたのかも知れない。それが次第に忘れられ、なぜその地名が歌枕なのか分からなくなったものもある。一方で、地名のイメージが洗練されて実態以上の世界を表すようになったものもある。吉野の桜、龍田の紅葉などは屏風絵の中で高度に芸術化された。

 この古典を学ぶ際に教えられる知識は決して過去のものではあるまい。現代の流行歌のなかに地名が歌われるとき、それは単に地点の名前だけを指すのではない。東京なら東京の大阪なら大阪のイメージが含み込まれている。古代風に語るならば、それぞれの地名に伝説が含まれているということになる。

 地名はいつの時代にも地点の座標にはなり得ない。緯度や経度ではない情報を含んでいるからなのだ。地名を大切にするということはこの点からも無視してはならない。

AI美人

グラビアの美人は子どもの頃からの憧れだ。美人が自分のためだけに微笑んでくれている。そんな思い込みを現実のものにしてくれるのがグラビアの役割だった。

ところがこの神聖な領域がAIに侵略されつつある。生成系プログラムが作り出す誰かに似ているけれども誰でもない美人がグラビアページを奪おうとしているのだ。機械がいろいろなネット上の画像を組み合わせて理想的なグラビアアイドルを生成すると、もう現実の人間は敵わない。

古典文学を学習するようになって美人は時代とともにその基準が変わることを知った。平安時代の絵巻に描かれている美人は下ぶくれの顔ばかりだ。おたふく風邪を美人病と呼んだこともあったという。恐らく栄養不足で痩せぎすばかりの時代においては、ふくよかさは美意識の基準の最上位にあったはずだ。これは日本だけの話ではない。西洋のヌード絵画を見る限り、ほとんどが肥満体だ。肥満すること自体が難しい時代においては希少な存在が美意識に繋がる。

 現代では誰もが肥満体になれる。努力は不要だ。カロリー過剰の食事を繰り返しているうちに立派な下腹を獲得できる。平安時代に生まれたなら確実に美男美女の資格が得られる。

 だから、今の美人は極端にスリムな方に傾く。明らかに健康を害していそうな細さに美意識を見い出す。時代が異なれば憐れみしか感じられない姿を現代では美しいと感じる。メタ認知すればこれは極めて異常だ。

 AIが作り出すグラビア美人はこの伝統的な美人像を根本的に覆す。太っていようと痩せていようとどちらでも構わない。そもそも美意識がないから過去のグラビア写真をデータベースとして多くのアクセスがあるページを無断で借用して合成する。その結果、絶世の美女が出来上がる。

グラビアを見て興奮する前にやらなくてはならないことがある。それは本当に美しいと言えるのか。もしかしたら合成ではないのか。合成はなぜおかしいのか。自分のなかまの誰よりも美しいのにどこか違和感を感じさせるのか。それらを考え直す必要がある。

漢字は書いて覚えるのに

 子どもだけではない。漢字を書けない人が急増している。簡単な熟語をひらがなで書いても恥ずかしいと思わなくなっている。なぜだろうか。

 実証できないが一つの要因に文字を書く機会の減少が関係していることはほぼ間違っていないはずだ。漢字のような複雑な文字は継続的に書く経験を持たなければ忘れやすい。薔薇や叡智のような画数の多い文字は措くとして、日常的に使う言葉の中にも書けない漢字が増えている。

 手書きの文字をほとんど書かないという人は多いはずだ。スマホでほぼ全ての筆記を済ませればペンは要らない。変換してくれるからいいと考えていると漢字自体を知らず選べなくなる。漢字のない日本語はとても貧弱だ。それと同じようにその人の思考も寂しいものとなる。

 大人はぜひ漢字を使う意味を子どもに語ってほしい。そのためにも手書きで漢字を使う機会を作ってほしい。

集中のために

 マルチタスクが苦手な私は職場のなかで少し隔絶した場所に活路を求めている。次々に起きる事態に対応できないから、しばらく別の場所に身を置くことでなんとかしようというわけである。

 少し前ならば協調性のない行動として自ら取らない選択肢であった。しかし、恐らく脳の機能的低下もあって、これまで以上に中断や作業停止に弱くなっている。一度やめたものを復帰するのに能力がかかるのである。

 だから、思い切って自席を離れて仕事することにした。言い訳の仕方もいろいろ考えた。だが、一度やってしまうとあいつはそういう人なのだ認識されて特に断りも要らない。そこでは作業に使うものだけを持っていき、それ以外はしないようにしている。

 これでもう少し仕事ができそうだ。なりふりをかまってはいられない。