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考え方の模倣

何かを修得するということは、それら関連する知識や技能ができるようになるというだけではなく、学び方そのものを学ぶということだ。テスト前の丸暗記で試験を切り抜けても、終わってしまうとすっかり忘てしまうという経験は誰しもあるだろう。学ぶことは真似ぶことという人もいるが、それは師の考え方、生き方の模倣をすることで、表層の形をコピーすることではなさそうだ。

 若い頃は短期記憶の能力が優れているので、とにかく暗記ということができる人が多い。ただ、この方法だと記憶の限界とともに雲散霧消する。そうさせないためには知識を習得する意味を考え、関連する要素との関係性を把握することだろう。詳細は忘れても仕組みが分かっていれば再現することができる可能性がある。

 料理に例えれば、ある料理のレシピを覚えるのではなく、調理の仕方や調味料どうしの相性などを覚えることになる。それが分かれば他の料理も作れる。絵画なら筆の持ち方、デッサンの仕方などの基本を学べばいろいろな絵が描けるようになるはずだ。また画家の生き方を知れば多少の画法の差より大切な何かを知れる可能性がある。

 大事なのは表面的な模倣に終わらせないように指導することかも知れない。型から学べとはよくいう話だが、型の中にはそれを形成する心のあり方が含まれていることを忘れてはならない。

パンデミック以降

新型コロナウイルス感染症のパンデミックによって生じた変化にどのように適応しましたか ?

 私はコロナウイルス対策に恐らく2回蝕まれた。1度目は病院でコロナウイルスは陰性と診断されたがそのときのほうが症状は重かった。2度目は明らかに感染したと思われるものだ。当時流行語になっていたエッセンシャルワーカーの一員である私は、自宅勤務などの選択はできず、ソーシャルディスタンシングも実現不可能だったから、当然の結果だった。

 病状としてはかなり厳しい数日間と隔離処置対象となった数日間で、体力よりも精神の方が侵食された気がする。コロナウイルスの真の破壊力は社会との隔絶の理由を無批判で実効化してしまうことだった。

 周囲の仲間たちが交代で病魔に犯される状況で、私が得たのは現状を深く考えず、最終的な利益を考えることだったのかも知れない。何歩か後退することは仕方がない。最終的に少しでも前進できたならそれでよいのだという割り切りだ。パンデミックには抗いがたいが、波を乗り越えた後に生存できていればそれでよく、できれば数ミリでも前進していれば成功だと割り切ることができたことかもしれない。

 完璧主義な人には理解し難いであろうが、緊急時に現状維持はすでに勝利である。場合によっては少々の後退でも勝利の範疇に入る。そういう考えを持てたのがコロナ禍で得た教訓なのかもしれない。

暑さのせいに

 気温が上がり、汗ばむほどの陽気になった。暑さでいろいろ滞りそうだった。もう少し経てば何でもない温度であっても身体が慣れるまでには時間が必要なようだ。仕事が、うまくできなかった日は気分転換に限る。次はうまくいくと勝手に決めて今日は暑さのせいにする。

立ち回る

 うまく立ち回る人を目の当たりにしたとき、尊敬するときと軽蔑するときがある。すでに立ち回るという日本語には幾分の批判精神が含まれている。だから、私の立場も自ずと知れてしまう。

 いわゆるコンピテンシーについて述べようとすると、どうしても羨望もしくは嫉妬の気持ちが見え隠れしてしまう。気質に比べてコンピテンシーには後天的要素があるとされるが、それでも生まれつきの側面の方が大きく作用するように思えてならない。立ち回る力はなかなか鍛えることが難しい。

 私のように年季がいったものは特にそうだが、要領よくやれと言われてもやれるようにしかできない。何でできないのかとき言われても説明不可能だ。できないからできないというしかない。

 無駄な抵抗をさせていただけるならば、それでも私のやり方はありではないかと言いたいのだ。不器用な人にしか見えない風景を見ることができることは、世の中全体の福祉としては益となるはずだ。負け惜しみ的な言い訳だが。

 ならば、私の立ち回り方は、できない人間が見ている風景を皆さんにお伝えして、できる人の暴走を抑えることにあるのかも知れない。貴方の見ていない世界がある。そんなに世界は単純ではありませんよと、余計なおせっかいを言うことが、私の役目なのかもしれない。

残念ながら

 このブログを書くために使ってきたスマートフォンが最近不調で困っている。投稿したつもりの記事が結局アップロードされず、記事が渋滞してかなりあとになってようやくそれに気づくといったことがしばしば起きている。年季がきているのだろう。最近のアプリに対応しきれていないことも原因だ。

 ただ、最近の私はこの賞味期限切れのものに対する同情心がある。有効期限が過ぎたからと言って、すぐに廃棄してしまう心性にはどうしても馴染めない。道具は使い続けていくうちに愛着が湧く。古い道具でしか表現しきれない芸術的な瞬間を演じるのは、演じている貴方を見渡してみるのか。こういう選択を敢えてしておきたい。

ワーキングメモリー不足

この話は何度も書いてきたが懲りずにまた記す。私たちが何かを考え、行動するときにはさまざまな記憶力が必要になる。複雑なものでなくても要る。例えば、先ほど見た光景を文章に書き表そうとすれば、短期的な記憶とともに成文化するための長期的な記憶、知識というものが活用される。これが衰えると実に厄介だ。

数年前ならなんでもなかったことにやたらと時間がかかる。短期記憶が足りなくなって、行動をリセットすることが増えているのだ。対策としていつでもメモを取るのだが、仕事のことなどはそうしても日時のこととなるとつい記憶の衰えを無視してしまう。その結果、家族に迷惑をかけているのは申し訳ないというしかない。

 これは底知れない自己嫌悪を伴うから精神衛生上よろしくない。別に手抜きしているのではなく、自然に抜けてしまうのだ。

 そこで私は一段階予防線を、引き上げることにした。些細なことでもメモを取る。それを恥ずかしいことと思わないということだ。上衣のポケットには常にダブルリングメモとポールペンを持つ。更に測量野帳やらA6ノートやらいろいろ持ってそれらに転写しまくっている。凡そ非効率的だが、こうしないといまの脳は覚えてくれない。老兵にはそれなりの戦い方があるのだ。

気温急降下

 このところ春を通り越して初夏のような日差しがあったが、今日から気温が急降下するらしい。三寒四温とは言うがかなり極端である。東京では多くの外国人観光客を見かけるが、今日の気温を体験した人には明日以降がかなり厳しいものに感じるかもしれない。暑さも寒さも雨も雪もある日本の自然を体感するにはいい機会かもしれないが。

 問題は体調の維持だ。今年は早くから対策薬を飲んでいたのに今日は花粉症の症状が出ている。さらに寒さで風邪など引いたら大変だ。インフルエンザもコロナも相変わらず流行っているらしい。これらを防ぐ大前提が免疫力の維持らしい。その免疫力を下げるのがストレスというから、とても厄介だ。ストレスに関してはもうほとんど配偶者のようなものでいつもそばにいるのだから。

 そのようないろいろ克服しなくてはならないことがあるのに、仕事は相変わらず山積している。しかも三月である。こうなったらもうドラマチックな展開を楽しむしかない。翻弄される自分を俯瞰して楽しもう。意外といい見世物になっているかもしれない。

鶏口牛後

 鶏口牛後の故事は歴史的にはうまくいかなかったのだが、その心意気は知るべきだろう。今朝読んだ記事に自分の実力以上の学校に滑り込み合格をした場合、そのまま進んでその学校の劣等生として過ごすのと、一つ下のランクの学校に進学してトップ層に入るのとどちらがいいかというのがあった。その記事の結論は後者を選ぶべきというものだった。

 この話は単純ではない。記事では統計調査の結果も挙げていたが、あくまで確率の問題だ。学習のきっかけが周囲の雰囲気によるか、他者との関係性において自尊心を保てるのかという問題になるだろう。これは個人の気質も関係するから一律に語れない。

 ただ、大樹の陰に寄り添う気持ちしかなければ進歩は望めないのは確かだ。結局は自分の目的意識を保てるかどうかで、環境要因以外の何かに基づく向上心を持つことが大事なのだろう。その際、口になれという気持ちは持っていなくてはなるまい。

 私自身はいつも滑り込みの人生を送ってきたので、劣等生として始める耐性はそれなりにはあったのだろう。途中でやりたいことが見つかれば浮上することはできる。後輩諸君に言えることがあるとすれば、鶏でも牛でもいいからしたたかに過ごして自分の目標を探すべきだということだ。

ひっくり返す

 悪条件は克服しなくてはならない。そう考えるのは自分の中にまだ可能性を信じていたことだ。そして、その状態であるということはまだ戦えるということになる。

 言うは易し。そういう気持ちになれないことの方が多い。劣勢に立つとあらゆる言い訳と、敗退後の惨めな状態を考える。恐らくこれも大切な知恵であろう。予めワクチンを打つのだ。でも、これだけでは事態を切り抜けられない。

 苦境は事態を改善するための手段だと考えられたらかなりの前進だ。改善策はまだなくてもいまの状態を過程として見なせば次がある。解決策は自分で考えるだけではなく、他人の言動の中にある可能性も考えられる。だから、短慮を避け時機に備えるのだ。

 事態をひっくり返すことを諦めてはならない。そう時々自分に言い聞かせることにしている。

 

文学的視点の復権を

効率化が大切だという人の多くは、実は人間生活を答えのある法則性の中だけで捉えている。なんでも数値化でき、その中で演算をするから効率などという数字を持ち出す。そもそも世の中の多くは定量化できず、不規則で予測不可能だ。そのような方面を注意深く無視して、数えられる現象だけを取り上げて計算する。効率化の多くが自然から乖離しており、それゆえにその矛盾に人々は苦しむ。

こうしたことに気づくためには、やはり文学のような他者の心情や行動を考えるものの考え方が必要だ。実際の社会は決して法則的ではない。外れ値だらけの現実をそのまま受け入れる感性も必要なのだ。

 昨今の風潮はこの大切な流れを忘れているように思える。なんでも方程式に当てはめようとする態度は人生の機微を無視してしまう。こんなことをいうと感情論であり無意味だというが、はたしてそうなのだろうか。不規則な毎日に無理矢理物差しを設定し、測れないものはなかったことにするという考え方自体が無意味だと反論できる。

 学校教育における文学的文章の軽視は現代社会で誕生したエリートたちの犯した大きな間違いだろう。少し後の時代の人々が21世紀始めの社会を批判することになる。あの頃は科学だけで何とかなると信じていた時代だったと。文学的な視点が軽視された不幸な時代だったと。